男と女――第六部(8)

 金子は海外放浪で身体の芯に溜まった疲労が抜けず、竹田屋の部屋でゴロゴロするほかは、三千代を訪ねて彼女が書いたものに目を通し、なんとか物にするのを手伝った。金子の眼からは、三千代は文筆家には向いていず、陽気で誰に対しても悪びれない態度が取り柄で、この外交的手腕で顔なじみが増えて小説家の卵になっていった。彼女のところでは一階の中華料理屋から一円ぐらいの定食を取り寄せて食べ、ときには抱き合った。
 竹田屋のすぐ近くには田村泰次郎が下宿していた。だが路上で会っても、挨拶することはなかった。また太宗寺の墓の裏手には三階建ての和風の大きな下宿屋があり、詩人の城左門、岩佐東一郎などと交遊のある奥村五十嵐もほかに、数百人のホステスが住んでいて、ときどきは心中事件が起きた。そして左翼活動家の検挙騒ぎもあったが、新宿の裏町には戦争の影響はあまり感じられなかった。
 金子が帰国を知らせる便りを知人に出したしたのは、二カ月ほどたってからだった。すぐ返事をよこしたのは国木田虎雄と正岡容だった。国木田は父独歩の印税をとうに使いはたし、妻のみち子と二人で非合法運動にかかわっていた。
 彼らはそのため住居を転々としていて、ときどき竹田屋にも姿を見せた。そんなときはエンゲルスの『反デューリング論』やクラウゼウィッツの『戦争論』を持ってきて、金子に読ませた。『反デューリング論』は、読んでみて心の糧になった。国木田が四谷署に拘置されたときは金子がもらい受けに行き、自殺未遂事件を起こした党員を国木田が竹田屋に連れてきたことがあったこの男のことは竹田屋のおかみさんが面倒をみたが、じつは警察が泳がせていた転向者で、彼の証言によって小林多喜二が特高警察に逮捕され、拷問の末に殺されたといわれる。
 対照的なのは正岡容だった。金子のいない間に正岡は浪花節にはまり、浪曲師の小金井太郎と義兄弟の盃をかわした。そして自分も舞台に上がって浪曲を唸るようなことをしていたが、小金井はやくざの一人でしかも酒乱だった。小金井太郎の浪花節は哀切をきわめたが、酒を飲めば態度は一変して、少しでも逆らえば半殺しにされないありさまだった。堪えきれなくなった正岡は、ある日、女房と二匹の猫とともに世帯道具を荷車につんで竹田屋に逃げげ込んできた。金子の部屋も、廊下も、狭い庭も荷物で一杯になった。閉口した金子は翌日、高円寺に家を探して彼ら二人をそちらへ移した。正岡自身も酒におぼれ、書くことへの意欲をなくし、酒を飲ませてくれる施主にたかることが仕事になっていく様子だった。
 古い友人で、その詩集『岬・一点の僕』の序文をかいたことがある神戸雄一が、実弟の大鹿卓に教えられて三千代のいる新宿アパートを訪ねてきた。さらに神戸に連れられて古谷綱武、冨永次郎などの若い人たちもやってくるようになった。富永は早逝した太郎の弟で、古谷は新進の文芸評論家として文壇に出たところだった。三千代は注文の原稿をかきながら、彼らとの議論によって帰国する前から気になっていた、日本文学の新しい傾向を聞かされて勉強し直す気になった。その後、鎌原正巳、高野三郎、高橋新作、須賀瑞枝などを同人とする雑誌「文学草紙」が刊行されることになる。雑誌の名前は三千代の命名であった。
 金子の竹田屋とちがって、三千代の新宿アパートは千客万来の様相を呈するようになったが、晩秋のある日、若い中国人夫妻が訪ねてきた。これが新たな恋愛のはじまりだった。三千代はこの出合いの模様を、二年後に小説『柳剣鳴』(「婦人文芸」一九三四年八月号)に書く。小説をもとに経緯をたどってみる。
 三千代は訪ねてきた青年と名刺を交換するが、名刺には「柳剣鳴(本名は鈕先銘・Niu Heien-ming)」とあり、見事な中国服を着た女性を夫人を妻だと紹介した。鈕とは清朝の皇帝の紐を意味する言葉で、先銘の父はいまは下野しているが清朝の大臣をつとめた人だった。先銘本人はイギリス人の家庭教師について学び、日本の士官学校を一九三一年に卒業して、一度帰国して妻を娶った。それが同伴してきた荘錦翼(仮名)で、大銀行家の娘だった。鈕は再度来日して陸軍大学校へ入学しようとしたが、両国関係が悪化して困難となり、間もなく帰国するという。
 上海の新聞記者の歳晩秀の紹介で、武者小路実篤のもとに出入りしていて、かつて武者小路の愛人だった真杉静枝を知り、彼女の紹介で三千代に面会を求めたということだった。小説ではその後の展開が次のように書かれている。
 「二三日の間、髪を油できれいになであげた、よごれ一つ身につけてゐない、身だしなみのよい青年の姿が、文代(三千代)の眼のなかにのこつてゐた。彼の語つたひどくていねいで、所々言ひまはしのあやふやな日本語も耳にのこつた。
 夜更かしをした翌日、晝前に眼をさました文代は、アパートの風呂に入つた。(中略)冷水に浸した手拭で、夜更かしに充血した眼を冷やしながら、湯ぶねの中で両足を伸した。いろいろな快樂を知つてゐる肉躰が、白くそよそよしく〔ママ〕透けて見えた。
 風呂場の外に足音がして、アパートの老婢の聲で来客をしらせた。扉の隙間からすべり込ませた名刺をとつてみると、柳剣鳴であつた。」(『柳剣鳴』)
 三千代は清潔な好男子の中国人青年の魅力の虜になった。彼女が好きになる男のタイプには二種類あった。一言も話しをしないうちにいきなり好きになってしまう男。これこそ本当の恋で、恋愛が終っても女の心にもやもやしたものを残す。もうひとつは初めは嫌いでも好きでもないのが、付き合っているうちに悪くはないと思われてくる男。恋愛になった頃は、なんの遠慮もなく本当のことが打ち明けられ、男が熱心になるのはこちらの方であった。鈕先銘はこのどちらでもないタイプだった。
三千代はのちに、「巴里のオペラの桟敷などでみかける外国の貴公子のような、情熱で燃え上がったような大きな目と、わきまえのある、憂鬱なおもざしが、私の心に、かつて今まで感じたことのなかったある感情を湧き立たせた」(『新宿に雨降る』)と書いている。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-09-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(7)

 詩集からあと二篇を引用してみよう。

 「出発(LE BAGAGE EST PRÊT)」

眠つてゐるからだを動かしてはいけない。陶器のやうなもろい夢に
抱かれてゐるからだを動かしてはいけない。〔なぜなら陶器のように脆い夢に抱かれているのだから〕
バナナの畑は、薄明(あけがた)のなかで、そつと寝てる、いつぱいに熟つた
バナナの房と房とが、重つたまま〔バナナのひとつの房が別の房にふれながら〕・・・
霧と瓦斯〔ガスの口の霧〕のなかに、たくさんなバナナの思想と〔ひとつの思想が別のものに触れ〕、からだとが重つて〔身体もまた別の身体にふれながら〕
眠つているのをあたしは見ながらゆく。〔この行フランス語にはなし〕

バンドン行の汽鑵車が汗をかいて、火の粉をからだ中から散らして
走る。
どこへ逃れ、何から逃れゆくのだ。
たくさんのあたしから逃れてゆくあたしは誰だ。〔あたしから逃れるのは誰だ? それはあたしなのか?〕

水平線を横切るものは、森なのか。
さうではない。それは、この世のありとあるタンプル、パゴダが次
から次へ並んで、しののめの果を旅立つてゆくのだ。
                                  ジャバ

 タイトルの「出発」を、“Le bagage est prêt”というフランス語にするのは、当時の三千代の語学力を考えると無理な気がする。おそらくはこうした箇所にデスノスの手が入っているのであろう。だとすると、やはり日本語の詩が先にあって、それを彼女がフランス語に訳し、それにデスノスが修正を加えたという順序なのであろう。
もう一篇、「革命家ピーター・エルヴェルフェルトの首の光栄のために( A LA GLOIRE DE LA TÊTE du révolutionaire Elverfert 」。この日本語の詩は、三千代が帰国した直後の雑誌「女人芸術」(昭和七年六月号)に掲載された。

椰子科や、棕櫚科に属する部厚な植物が〔あらゆる椰子と、棕櫚の葉が〕大砲のはらや、機関銃の歯のやうに、気味の悪い光を落とし込んでゐる〔恐ろしい光で銀色を帯びる〕。
それは月だ。
羊歯のなかで、白粉にまみれてまつ白に煙つてゐる。

懶惰で楽天的な土人達〔官能的なジャヴァの人たち〕が、古い棺桶のやうな形の木琴を鳴らしながら、椰子酒を飲んで〔スカラベのように〕踊つてゐる。
それはひとつの溝〔退廃〕だ。

オランダ人のキャピタリズムが、コンクリートで固める。〔この行はフランス語になし〕
その溝は、彼らの手足を動けなくする。
気味の悪い月光と、宗教と、キャピタリズムと
三重の呪縛にかゝつてゐる彼ら――
〔彼らは三つの呪いに縛りつけられている、すなわち
迷信、宗教、キャピタリズム。〕

ピーターエルヴェルフエルトの首から呪縛を解く日はないか。

 この詩はいうまでもなくジャワで見た、エルヴェルフェルトの晒し首をうたったものである。金子が同じ情景をうたった詩は、先に引用した通りである。 三千代は、ルパージュの並々ならぬ好意で実現した三百部余の詩集の販売を、新宿の紀伊国屋に頼んだがさっぱり売れなかった。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-09-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(6)

 詩集の最初に置かれた詩篇「Le CŒUR EN COKE」のフランス語原文を引用してみる。

Mais! tu ne reviens plus.
La pluie du parc
Est claire comme la moisissure verte.

Le courant d'air, la glace de Sibérie
T'éloignent de moi.
Je saisis ton col comme l'aigle,
Ta tête tombe comme une marionnette.
Je pose mes cheveux contre ton épaule, puis

Mai tu ne reviens plus.
・・・・・・

Comme les asperges du marché en plein saison,
Ma sensualité, d'abord précieuse, devient banale.

Mais, quand le soleil s'écoule sur le mur
Blanc, comme du mercure,
Je me souviens de ton sourire aigu
Dont la pointe pique mon cœur,
Mon cœur expose comme une bombe,

Puis, devenant du coke noir・・・
Mon cœur noirci trébuche
Sur le pavé, sous les arbres.
・・・・・・・

Ce soir
Le revolver
Comme une souris dans ma poche
Est tour à tour froid et chaud.
Il est calme
Je renonce à mon suicide
Et j'écoute la cloce de Notre-Dame.

Travail !
Un enfiant qui désire voir un spectacle populaire
Cherche à regarder entre les jambes du public,
Essaie de grimper sur des épaules,
Sans parvenir à voir;
Ainsi je suis empêchée par la foule.

Pays natal !
On ne m'a chassé de nulle part,
Je ne subis pas l'exil de la Sibérie !
Sous le ciel d'œillet de la nuit de Paris,
Je marche pensant à mon retour,
J'ai mangé trop de gâteaux du pays étranger.

Je retournerai bientôt,
Devant moi, tu passeras comme un
Habitant de Mars.

Je fixerai tes prunelles glaciales,
Je deviendrai une vraie excilée・・・
C'est un excil d'amour.

S'il faut que tu insultes l'esprit,
Si tu ne peut marcher que dans un chemin
De matérialisme, Ce fut ma grande faute :
J'ai toujours aimé un homme mécanique.

            Paris.

 如何には、これに対応する『東方の詩』所収のテクストを掲げる。ただフランス語の詩句と異同のある箇所は〔〕で補う。

コークスになった心臓

五月!
おまへは来ない。
公園が青黴のやうに明るい雨だ。

気流と大シベリヤの氷塊が、
おまへをわたしから距てゝゐる。
――おまへの背広の襟を鷲のやうにつかんでゐる。テアトロ デイ ピコリの〔この部分フランス語になし〕操り人形のやうに、おまへの首が落ちる。
おまへの肩へ髪をつけて、それで、
なんにもいらない。〔なんにもいらない。〕
だがおまへは来ない。
・・・・・・

市場のアスパラガスのやうに、
〔はじめは貴重だった〕あたしのすべての感覚は平凡になったゆく。

それでも白壁へ水銀のやうな陽が流れると、
おまへの鋭角の頬笑みを思い出す。
おまへは、その鋭角で、
よくあたしの心臓を突き刺した。
あたしの心臓は、
爆裂弾になつて、大音響立てて爆破した。
それからコークスのやうに黒くかたまつて・・・
敷石道を、並木道を、黒い心臓がつまづきながら行く。
・・・・・・・

ピストルの手ざわりは
今夜
冷たく 熱い。

廿日鼠のやうに、あたしのポケットの中で、
息をひそめてゐる。
死ぬのを止めて
ノートルダムの鐘を聞く。

働かう。
でも見世物を見る子供のやうに、
股の間から、肩の隙間から覗きこまうとしても、〔肩によじ上ろうとしても〕
ぎっしりつまつてゐいて、あたしを入れてくれない。〔何も見えない。群衆に邪魔さらるのだ〕

故国!
誰もあたしを逐ひ出しはしなかった。
〔シベリアへの流刑は堪えられない!〕
その下を(帰る)ことを考えて歩いてゆく・・・
あたしは他国のお菓子を食べすぎたやうだ。
いつか、故国へあたしも帰る時が来るだらう。
おまへは火星から来た人のやうに、
あたしの前を通り過ぎるだらう。
フン!〔この箇所フランス語になし〕
その氷河の眸を噛む。〔おまえの氷のような眸をじっと見よう〕
その時、あたしはほんとう流謫の囚人となるだらう。

愛情の流謫!!

若し、おまへの仕事のために、
殉情を無視しなかればならぬならば〔もし精神を侮辱しなければならぬのなら〕、
若し、おまへの靴が、理論と鉄の塹壕〔が唯物主義の道を〕しか行けないならば、
それは大きな仕損じだつた。
――あたしは人造人間を恋したのだ――。
                        
               パリ

 この「コークスになつた心臓」は前にも触れたように、金子の『どくろ杯』によると、別れてきた土方定一との恋愛がうたわれていて、上海滞在中すでに書き上げられていたが、上海で上梓した『ムイシュキン侯爵と雀』には収録されなかった。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-09-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(5)

 ブリュッセルのイヴァン・ルパージュから、原稿を渡しておいたフランス語の詩が立派な詩集となって送られてきたのはこの頃である。どうして三千代の住所を知り得たのかは不明だが、おそらくルパージュに残した宇治山田の森の実家に届いたのであろう。
 詩集は縦十八・ニ×横十二・三センチで、表紙には、「 Michiyo Mori / ―― / PAR LES CHEMINS / DU MONDE Poèmes / Bruxelles / 1931 / Frontispice par F. Lepage(森三千代 / 世界の / 道から / 詩篇 / ブリュッセル / 1931 / F. ルパージュによる口絵」とある。次女のフランシーヌ・リパージュの木版の口絵、イヴァン・ルパージュ氏への献辞に次いで、森三千代による序文一頁、そのあとに十八篇の詩が二十三頁にわたって印刷されている。収められた詩はタイトルが示す通り、彼女が金子光晴とともに、一九二八年十一月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅してヨーロッパに来るまでに得た題材をうたったものである。
 三千代は「序文」には、フランス語でこう書かれている。
 「私は日本女性です。
 以前は袖に牡丹とあやめの模様があり、胸を藤の房で飾った色とりどりの着物を着ていました。
 私はこの古い衣裳を仕舞いこみました。
 では私はどんな服をきればよいでしょう?
 私は支那を通過し、上海に六カ月滞在しました。私は蘇州、杭州、漢口を通って揚子江を遡りました。そのときは、南京緞子の、襟が高い、袖のわれた中国服を身にまとい、翡翠のボタンがついた絹の靴を履き、杭州八景で飾られた白檀の大きな扇を持ちました。
 その後、私は香港で一カ月、マレーシア、シンガポール、ジャワで六カ月を過ごしました。暑いジャングルをさまよい、ヒンズー教の歌が聞こえる街々を通り過ぎました。
 ジャワでは、ワーヤン劇の人形たちが着ているのと同じサロン(ジャワ風のスカート)を身に着け、金メッキのボタンがついたカバヤ(上着)を着て、踝には金の輪をつけ、足には水牛の革の靴を履き、耳にはボルネオ・ダイヤの耳飾りをつけました。
 それから紅海と地中海を通って、私はヨーロッパに到着しました。いま、私はパリの女のように、白い羽根のついた小さな帽子を斜めに被り、モロッコ革の緑のコートを身にまとっています。それが今年の流行です。私の踵の高い靴が硬い石畳をコツコツ叩きます。
 でも、すべての服は、着たり、脱いだり、取り替えたりできますし、汚れたり、使い古したり、穴が開いたりしますが、一つ決して動かないものがあります。それは、大きな鏡の前で、しなやかに金色に輝きながら生きている、私の裸の身体、真っ黒な髪、三日月のような眉です。
 ここであなたが読まれる詩は、そんな日本女性の魂が感じたことなのです。
     
                          森三千代
                          ブリュッセルにて、一九三一年」

 詩集に収録されている十八篇とは、「Le CŒUR EN COKE(コークスになった心臓)」、
「FOUJI(富士)」、「PLUI ET IRIS(雨と菖蒲)」、{HARMONIE HNDOUE(印度教楽調)」、
「L'OCĒAN INDIEN{印度洋)」、「LUNE ET PIANO(月とピアノ)」、「SINGAPOLE(新嘉坡)」、「LE BANC DE CORAIL(珊瑚礁)」、「L'HIVER(冬)」、「LE BAGAGE EST PRÊT(出発)」、「CANOT(小舟)」、「A LA GLOIRE DE LA TÊTE du réévolutionaire Elverfert, percée par une lance et toujours exposée près de la chaussée de Jagattara, recevant les malédictions du soleil et de la lune.(剣に突き刺され、太陽と月の呪ひを受けながら、ジャガタラ街道に曝されてゐる革命家ピーター・エルヴェルフェルトの首の栄光のために)」、「LE JOUR ET LA NUIT(昼と夜)」、TROIS POĒSIES DE NANKIN(南京三詩)」、「LE LAC BAKUSHU(莫愁湖)」、「SHANGHAI(上海)」、「LA NEIGE(雪)」、「SAGUIMUSUMĒ(鷺娘)」である。これ等のうち、「莫愁湖」は一九二六年十月の「日本詩人」、「雪」と「鷺娘」が詩集『龍女の瞳』(紅玉堂、一九二七年)に発表されたほかは、このフランス語詩集が初出である。ただ残りの十五篇のうち、「小舟」と」「昼と夜」の二篇以外はのちに詩集『東方の詩』(図書出版社、一九三四年)や雑誌などに、対応する日本語の詩が発表されていることから、はたして最初に日本語で発想されて、それをフランス語にしてデスノスに手を入れてもらったのか、最初からフランス語のテクストが書かれたかは、にわかに判断できない。
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男と女――第六部(4)

 三千代の帰国を誰より喜んでくれたのは、「女人芸術」の主宰者の長谷川時雨だった。帰国早々の四月、長谷川の肝いりで、岡本かの子、マス・ケート、千田是也、千田イルマなどの帰朝座談会「婦人新帰朝者のみてきた社会相」に、フランス帰りの代表として出席した。
 さらに「女人芸術」の同人作家、真杉静枝が親切にしてくれた。真杉は三千代と同じ一九〇一年(明治三十四年)十月の生まれで、タイピストや事務員を経て、一九二五年に大阪毎日新聞の記者になった。このころ金子の友人の正岡容と関係が出来て心中事件をお越し、二年後には武者小路実篤と恋愛関係になり、彼が刊行する雑誌「大洞」や、長谷川時雨の「女人芸術」に作品を発表していた。
 真杉は新たに創刊された雑誌の編集長に紹介したり、編集者と会うときの心得などを伝授し、女が一人で生活をはじめるのに当たって必要なお盆や急須など、自分が使わなくなったものを譲ってくれた。真杉自身が原稿一本で生活しようとしており、その上で感じる不安や憂慮を、二、三の詩集を出したほかは、文学世界とは無縁に生きてきた三千代に興味を持ったのかも知れなかった。
 三千代は金子に、「「しごとは、大体、真杉さんとコンビでゆくけど、まあまあといったところね。一度、あんなことでいいか、眼を通してほしいの」
 「目を通すまでのことはあるまいが、みせて「もらう。それにしても、たいへんだな」
 「お客が多すぎて、書いている時間がないの。十一時頃お客に起こされて、次々と立てつづけに夜の十時頃、ぐったりとなって何の気力もなくなり、朝になるとまたお客で起こされ、筆をとる暇なんかないわけでしょう。気のすむようなものを書ける暇なんか、ある筈はないでしょう」(「腫物だらけな新宿」、『鳥は巣に』所収)と近況を訴えた。
 三千代は後頭部をバリカンで短く刈った断髪で、口紅を濃く塗り、手足の爪に真っ赤な」マニュキアをほどこしていた。帰国直後はフランスで仕込んだネタをもとにしたエッセーや評論を書いたが、いまは小説を書こうとしていたが、詩人としてスタートした彼女は、小説家の仲間からなかなか認められなかった。ある雑誌の新年号のグラビアに「今年期待される女流作家」という特集が組まれ、彼女の先輩や友人の作家十人ほどが紹介されたが、三千代の名前はなくひどく落胆した。
 金子はそんな彼女を必死に慰め、いま自分がいる部屋を執筆に使ってはどうかと勧めた。ジャーナリズムに知られるのが先決であり、勉強しながらで辛いことだろうが、そうするより仕方がないとアドバイスした。
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