フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第九部(16)

 金子が戦後に出版される詩集『落下傘』に発表する絶唱「寂しさの歌」を書いたのは、五月五日、端午の節句の日である。

    一

どこからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出したやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のやうにほそぼそしたこゝろからか。
そのこゝをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。
・・・・・・・・・

    二

寂しさに蔽はれたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峡間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしてゐる。

あとから、あとから湧きあがり、閉す雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈がいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。
・・・・・・

うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠歎をこめて、
いまになほ、自然の寂しさを、詩に小説に書きつゞる人々。
ほんたうに君の言ふとほり、寂しさこそこの国土者の悲しい宿命で、寂しさより他になにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあわせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。

そして、やがて老、先祖からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
樒(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。
そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恒の末の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまわり、列島のはてからはてにかけて、
十重に二十重に雲霧こめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐(わか)れに、
いつもみづみづしい山や水の傷心をおもふとき、
僕は、茫然とする。僕はなえしぼむ。
・・・・・・・

小学校では、おなじ字を教はつた。僕らは互ひに日本人だつたので、
日本人であるより幸はないと教へられた。
(それは結構なことだ、が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへには同じやうに、万世一系の天皇がいます。

あゝ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いに似てゐることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。

     四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさが釣出しあつて、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさとなつて。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまい酒で酔つてすごさうとする。
エゴイスムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のやうに、
つながつて配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになつてゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまつた、ふかい寂しさを僕はまだ、生れてからみたことはなかつたのだ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界おいつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。

                    昭和二〇・五・五 端午の日

 金子はひと月に一度ほどの割合で上京した。体調のよくない義母須美が残っていたからである。雪がとけ、木炭バスが通るようになって、金子と乾は一度だけ名古屋まで旅行した。目的は次兄にあって、彼が社長をつとめる飛行機工場に、乾を名目だけの事務員に登録してもらうためだった。徴兵は免れたものの、いつ徴用されるかわからず、それを防ぐためだった。
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# by monsieurk | 2017-06-20 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(15)

 三千代たちが開墾したのは火山性溶岩の土地で、少しの面積を畑にするにも多くの労力がいった。さらに三千代は、村の養蚕の共同作業にも動員された。こうした慣れない激しい労働が、のちに三千代の身体をむしばむ原因になった。乾は徴兵逃れのために無理して罹った気管支喘息が取れなくなり、アドレナリンとヒロポンの注射が欠かせなくなった。薬は辺鄙な町の薬屋で手に入った。
  六月十四日の三千代の日記。
 「旧臘の端午の節句だ。村では菖蒲の葉とよもぎの一茎を結へて屋根の上に並べる。
 鳩の小母さん〔村の猟師の妻〕の家へ出掛けて行って約束の餅をわけてもらふ。石鹸を十幾切れもらふ。(中略)
 夜、文藝の谷口といふ人の書いた大戦当初のドイツ滞在記を読む。ヒトラーがチェッコを制圧して凱旋するところがある。ドイツが無条件降伏をしてから今日でもう何十日になるだらうか。ヒトラーは敵軍にうたれながいあひだ死体もみつからなかった。ソビエットはヒトラーの死を疑ったほどだ。そしてながい日のあとたしかにヒトラーと認められる黒焦げの死体のあったことが報知された。」
 新聞はこのときすでにタブロイド版四頁に縮小されていたが、四、五日遅れで平野村にも届いた。日本の新聞には報じられなかったが、ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺したのは四月三十日。そして五月七日、ドイツ軍は連合国への無条件降伏の文書に調印した。これによって連合国側は日本への包囲網をさらに強めた。
 金子たちは疎開先で生きのびるための努力をしなければならなかった。梅雨までに種蒔きは終えるのが鉄則だという平野屋の女主人の言葉にしたがって、六月十六日には、玉蜀黍、馬鈴薯、十六いんげん、かぼちゃ、大豆を蒔き終えた。この日金子の妹の捨子からの来信があり、家が丸焼けになったと伝えてきた。彼らは隣近所の人たちと、身一つで小学校のプールに身体を浸しながら猛火をさけた。夜が明けると、家は丸焼けになり、本の堆積がくすぶり続けていて、それを見ると涙が出たとあった。
 これを読んだ三千代は、「いま急に心が淋しくたまらない気持になって、最後の一本の光〔煙草〕に火をつけて飲んだ。一筋の煙の消えゆくのもなごり惜しまれる気持で眺める」と日記に書いた。金子一家は汗だらけになって仕事をつづけたが、瘠せた土地では、玉蜀黍は一茎に一つしかならず、馬鈴薯は小粒の芋が四つくらいしかできなかった。それも折角の収穫近くなって豪雨につかり、芋は大部分腐ってしまった。収穫したあとにソバをまいた。百姓仕事は労多くして得るものは少なかった。
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# by monsieurk | 2017-06-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(14)

 平野村の上空にも毎日のようにB29の編隊が飛来した。富士山を目標に飛んできて、ここで東西に別れて日本各地を空襲した。三月十四日には大阪が空襲されて十三万戸が焼失した。三千代は三月二十日の日記にこう書いた。
 「三月廿日
 薄曇り。屋根の雪がとけて雨だれの音を立てゝゐる。
 朝から警報が二度鳴り、敵機が頭の上をいく。今日は相当大きいらしい。
 一昨日は九州へ千機の艦載機、昨日は名古屋へ百余機。
 いまも富士颪にまじって敵機の轟音が連続的に聞こえてゐる。

 敵機低く影動かすや雪の青

 湖べりを半日めぐる春の泥」
 三日後の二十三日の日記には、「富士の裾野ははじめ右の方が長く、それからおなじになり今年は左が長くなった。湖(河口湖)は氷がとけて青い波を立てゝゐた。(中略)フランスの女と会って話す。コットさんの為になんか扶けにあるかもしれないと思ふ。女は立入らふとしない。淋しい気持で別れた」(森三千代「日記」第五帖)とあり、さらに二十六日(月)では、「主屋のおばあさんが来て、コットさんのことなど話す。」(同)と書いている。
 コットとは乾が学んだフランス語を学んだアテネ・フランセの創設者で校長でもあるジョゼフ・コットで、毎年の夏を平野村の農家の一部屋ですごす習慣だった。大柄な彼は七十一歳で、この年も夏になる前にやってきた。
 金子たち三人はフランス語が通ずることもあり、出掛けて行ってパリで暮らしたころの話などをすると、大いに喜んでくれた。ただ一、二カ月すると、コットは体調を崩し、河口湖畔にある河口病院に入院させることにした。そのためには入院願書を出す必要があったが、村の人たちは慎重で、保証人のなり手がなかった。そこで金子が署名、捺印し、コットは無事に入院することができて、戦争が終わるまで病院にとどまった。
 四月になると、少しでも食料を確保するために、三千代が先頭にたって家の前や裏山の空き荒地の開墾をはじめた。
 四月十八日。「切り倒した落葉松の横って〔ママ〕ゐる家の前の空地を耕作にかゝる。
 一抱えほどの火山岩をのけると蟻の巣だった。蟻は露はになった土の上を逃げまどふ。(中略)蟻の引越しの大騒ぎの中へ一鍬を打ち落すといふ残酷な興味が手伝ふ。
 塗りの箪笥や蝶貝の調度や長持や衣裳や大切なものをてんでにかついで逃げてゆく蟻の都のさまが手にとうやうにみえる。
 戦慄しながら我々は繁栄のあとのこはれた廃址を眺めたがるものだ。」(同)
 雪に閉ざされていた山中湖畔の土地も、四月になると雪解けがはじまった。戦時下でも自然は四季の歩みをやめなかった。辺りの木々も芽吹きはじめた。
 「平野村の落葉松はみんな芽を吹いた。玉レースのやうな緑色の新芽がいまは房の先のやうにひらきかゝってゐる。こぶしが白く花咲いた。こぶしの花の咲くのが種まき時のしらせだとおばあさんが語った。
 昨日の畑仕事でつかれたので今日は休み、みよや〔女中さん〕と若葉積み〔ママ〕にゆく。三ツ葉をみつけて、夕食のおしたしにした。かほり高く珍味。昼間に二度警報鳴る。一機飛行雲をひいて上を翔んでいった。」(同)
 金子も冬から春へと急速に歩みを進める湖畔の自然を楽しんだ。
 「五月になると、山の自然はうつくしさを増した。氷はとけはじめ、終夜嵐がさわいだ。水ぬるむ湖水の岸辺に、一尺鮒があみですくえるほど近くただよってきた。胡桃の花が散って早(さ)わさびが葉をひらいた。僕らは、一年の計をはじめて、裏山の荒地一反歩を開墾することにした。火山の溶岩流を蔽うて、すすきと茨が根を張っているので、一尺の開墾にも一日二日の激しい労力を必要とした。一家は汗だらけになって仕事をつづけた。蒔く種は、とうもろこしと、馬鈴薯だったが、この土地では、とうもろこしは一茎に一つしかならず、馬鈴薯は小粒の芋が四つ位しかできなかった。それも、折角の収穫近くに、豪雨につかって、芋はおおかたくさった。収穫のあとに、ソバをまいた。ソバの実のついた頃、富士嵐がきて、一たまりもなく細茎を折ってしまった。百姓の仕事は、労多くして効少く、さんたんたる結果に終った。」(金子光晴『詩人』)
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# by monsieurk | 2017-06-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(13)

 戦争もいつかは終わるに違いない。だがそれはいつになるのか。金子光晴はさらにこう書いた。
 
 「希望」

戦争がすんだら、とボコはいふ。
パリーの図書館に引きこもりたい。
戦争がすんだら、と父はいふ。
どこでもいゝ国でない所へゆきたい。
戦争がすんだらとチャコはいふ。飛行機で世界戦跡をめぐるのだ。
戦争がすんだらと三人はいふ。
だが戦争で取上げられた十年は、どこへいつてもどうしてもとりかへされないのだ。

 三月十日夕方、雪のなかを、岡本潤が長女の一子を連れて訪ねてきた。思ってもみなかった再会だった。岡本は息抜きと食料探しを兼ねて来たといった。
 炬燵にあたりながら東京の様子を聞いた。二人は平野屋旅館へ戻って、ジャガイモの団子を焼いたものと豆腐の味噌汁の夕食を食べ、また金子の家に行って話し込んだ。途中で玉蜀黍の饅頭をご馳走になった。
 乾がレコードをかけ、山中に銀座の街が出現した思いだった。蓄音機は三千代が新宿時代に手に入れた携帯式のもので、疎開先にもそれを持ってきたのである。レコードは当時の流行歌、「君恋し」や「センチメンタル・ブルース」、「パリの宿」、「パリ祭」などで、三人はときどきこれを聴いて楽しんできた。なかには「星条旗よ永遠なれ」もあり、乾がこれをかけたときは、さすがに三千代は慌てた。だが金子は、「ドイツ音楽だといえばいい」と平然としていた。
 岡本親子は金子の勧めで翌十一日も滞在することにした。珍しく手に入った鶏を金子が安全カミソリで器用にさばいて、カレーライスをつくってくれた。
 岡本はこの日、金子が書き溜めた詩を読んだ。ザラ紙のノート三冊ほどに、日々の感慨とともに書かれた詩を、二十世紀の隠者らしい気持が独特の言葉で書かれていると思った。その上で、これらの詩篇が世に出る日が来るのかという感慨も抱いた。
 翌日の十二日の午前十一時に、岡本親子はジャガイモ二貫目と三千代がもたせたトウモロコシ饅頭の弁当をもって帰って行った。
 岡本が訪ねてきた前日の三月九日から十日未明にかけて、東京はB29による大空襲に見舞われていた。焼夷弾や高性能爆弾の爆撃で二十二万戸が焼失し、江東区は全滅した。この空襲での死傷者は十二万人にのぼった。
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# by monsieurk | 2017-06-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(12)

 雪に閉ざされて朝から晩まで、炬燵に入って顔をつきあわせている暮らしは、金子にとっては、これまでになく心休まるものであった。その気持が溢れているのが「三点」の一篇である。

  三点

父とチヤコとボコは
三つの点だ。
この三点を通る円で
三人は一緒にあそぶ。

三点はどんなに離れてゐても
やがてめぐりあふ。
三人はどれほどちがってゐても
それゆえにこそ、わかりあふ

危いバランスの父とチヤコを
安定させるのはボコの一点だ。
異邦のさすらひは
ボコにはなれてゐる悲しさ。

父とチヤコのこゝろは
すさみはてた。
長江の夕闇ぞらの
まよひ鶏の声をきゝながら
星州坡(シンガポール)の宿で、
枕を並べて病みながら、
トラウピルのマンサルで
水ばかりのんでしのぎながら

父はチヤコをうらふと
たくらみ、
チヤコは父から逃れんと
うらはらな心でゐた。

だが、一万里へだてた
遠いボコの一点が許さなかつた。
三点をつなぐ大きな円は
地球いつぱいにひろがつた。

ニツパ椰子の葉をわたる
夜半のしぐれのなかに
父は、ボコの声をきいた。
それはバツパハの河口の泊(とまり)。

ケイ・フラマンの鎧扉の内で
チヤコは、ボコの夢をみた。
悪夢のやうな夜の船出で、
まつしぐらにチヤコはかへりついた。

三つの点はちゞまつてゆき、
ぢれぢれと待焦れつゝ
やがてしまひこまれた。
小さな一家のなかに。

父は毎日、本をよみ、
チヤコは原稿にむかひ、
ボコは背丈がのぎていつた。
三点を通ふ円は、―― 愛

この運命的なつながりを
世俗よ。
ふみあらすな。

戦争よ。
破砕(くだ)くな。
年月よ。
もつてゆくな。

父とチヤコとボコは
三つの点だ。
この三点を通る
三人は一緒にあそぶ。

チャコよ。私たちはもう
もう一つの点、ボコを見失ふまい。
星は軌道を失ひ、
我々はばらばらになるから。
三本の蝋燭の
一つも消やすまい。
からだをもつて互いに
風をまもらふ。

 貧困のどん底で、三千代を金をとって、知人に渡すことまで考えた放浪生活、その間は乾を三千代の両親にあずけて淋しい思いをさせた暮らしの軌跡。そして戦時勃発後は、家族三人の絆を強めて、戦争の狂奔する世間背をむけつつ、戦争に対峙しようとする金子の姿勢が率直に吐露された詩である。
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# by monsieurk | 2017-06-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)