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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第七部(17)

 ハノイ

 散文作家として修練をつんだ三千代は、仏印旅行の間、克明なメモを取り、それをもとにして『晴れ渡る仏印』と題した旅行記を刊行した。奥付には、昭和十七年八月十日初版印刷、同十五日発売 初版三〇〇〇部 定価壱円六拾銭 発行者 藤岡孫市、東京市新橋四丁目四十六番地に室戸書房とある。アンコール・ワットの石塔を描いた表紙の本は、縦十七・五センチ、十二センチの大きさである。
 冒頭の「空路安南へ」は、次のように書き出されている。以下、新字新仮名に直して引用する。
 「羽田飛行場から二昼夜の空旅で、日本時間の四時半、ハノイ時間の二時半に仏領印度支那の首都ハノイのヂアム飛行場に、私は着いた。
 子供の時、よく、這っている虫を捕えて別なところへうつし、その虫が自分のいる場所を見定めようとしてくるくるまわっているのを眺めて面白がっていたことがあった。私はいま、それを思い出した。突然私を違った環境に運んできた何者かが、じっとどこかで眺めてたのしんでいるのではないかという気がした。
 すべては異っていた。一昨日までの生活が、嘘のようだった。厳寒の東京が二昼夜のあいだに、爽涼さとけだるさのいりまじった、ほどけてゆくような気候に変っていた。
 ハノイは静かな街だ。戦争の外に置き忘られたような静けさに私はまず驚いた。支那、ビルマ、馬来、ジャバと四方を戦争にとりまかれながら。そこだけ不思議な平和を保ってエア・ポケットになっていた。」(「空路安南へ」、『晴れ渡る仏印』)
 金子と三千代はこれまでの旅では、日本人や現地人が経営する旅館に泊まるのが常だったが、今回は公の役目を帯びていたから、ハノイ大使府の小川総領事の世話で、フランス人街のポール・ペール通り近くのスプランディッド・ホテル宿泊することになった。すぐ近くには安南人(当時ヴェトナムはアンナン、ヴェトナム人はアンナン人と呼ばれていた)やインド人の繁華街があり、散歩の途中で現地の人たちの日常生活を見ることができた。
 「紅河(ソンコイ)(ハノイ市の東を流れる、その名の通り赭い色をした大河)の河沿いの野天の市場には、女達の菅笠が茸の集りのように見える。彼女等は一様に恁茶(クナウ)染めの、裾が四つに切れた筒っぽの上着(アオ・トウ・タン)を着て、黒いだぶだぶの股引(グアン)を穿き、眼のくぼんだ菱形の顔をして、笊を前にしゃがんで、臭菜や、バナナや、川魚や、田螺などを売っている。」(「第一印象」)
 三千代の観察は行き届き、表現は的確である。
 ハノイは商業都市サイゴン(現ホーチミン)に対して、仏印の政治と文化の中心で総督官邸が置かれ、各種の学校や東洋文化の研究機関である極東学院やパストゥール研究所などがあった。極東学院は、密林に埋もれていたアンコール・ワットの大遺跡を掘り出した功績など、インドシナの文化研究で多大な功績を誇っていた。
 ハノイ到着後間もなく、総督府の文化局長シャルトンが、フランス人や安南人の文学関係者を集めて歓迎会を開いてくれた。三千代はその席で、日本と仏印双方が自国の文学を紹介し理解しあうことで、人間的に触れ合うことで両国の親和を深めることになるだろうと話した。そして会合に出席していたフランス人のトリエール夫人や安南の女流作家テイン・テュ・ウォンなどと知り合った。三千代の印象では、日本は仏印で好感を持たれているようだった。
 この会合のあとで総督邸でドクー総督と会見したが、その折に総督から、「シャルトン氏から聞いたが、たいへん成功だったようですね」と言われ安堵した。
 「仏印の人々が日本を知り、日本語をおぼえようとする熱心さにおどろくくらいだ。それだけ彼等が日本に親しみ、日本に希望を持っていることがわかる。
 日本人が町へ買物にゆくと、商品をこれだけまけるから日本語を一言二言教えてくれという。(中略)しかし、一般の日本語熱が高いにもかかわらず、まだ、誰でもが簡単に習いに行けるという施設は出来ていない。日仏印共同防衛の実がますます上がっている今日、両国の理解や親交は一層深められなければならない。それには、彼地に日本語を普及させることは重要な仕事である。フランス人や安南人に対して日本をほんとうに理解させるために、日本の各部門の文化を紹介することがどんなに重大かということは、先達ての日本畫の展覧会や宝塚少女歌劇の成功をみてもうなづけることであった。」(「教育と日本語」)
 三千代は疲れることなく、精力的に行動した。日仏国際処理委員会文化部長シャバスや作家のマダム・ラクロンジュたちと知り合い、幾つかの学校を訪問した。その一つのハノイ印度支那女学校は、会合で会ったテイン・テュ・ワン夫人が校長をしていて、六歳から十四歳の女子生徒二千人ほどが、十八クラスに分かれて学んでいた。初等の二年間が義務教育で、六カ月は安南語で授業をするが、その後はフランス語を学び、フランス語で授業がされていた。ただ義務教育が行われるのはハノイとサイゴンだけで、安南全体では四割しかないという話だった。
 仏印は長らく中国の影響のもとで独特の家族制度や官僚制度を保っていたが、宗主国となったフランスは、こうした伝統をうちこわした。なかでもフランスが打ち込んだ大きな楔がフランス式教育の普及だった。漢字のかわりにフランス語を教え、現地の言葉であるヴェトナム語をローマ字化した。これは識字率を高める役をはたしたが、実際はそれまで村落に一つはあった寺子屋が廃止され、人びとが教育をうける機会が極端に減ったのが実態だった。
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# by monsieurk | 2017-02-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(16)

  仏印旅行

 一九四二年(昭和十七年)は例年にない寒さで年が明けた。一月中旬、外務省の柳沢健から三千代へ、国際文化振興会嘱託の婦人文化使節として、仏印へ行ってほしいとの打診があった。
 国際文化振興会は日本が国際連盟を脱退したあと、外務省が民間に呼びかけて、国際的孤立化を防ぐ目的で一九三四年に設立された半官半民の組織であった。定款には、「国際間ノ文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」を目的とすると謳われているように、書物の提供、人物交流、映画制作などを通して、日本の工業力や文化を海外に伝える役割を担っていた。
 一九三七年にはニューヨークに日本文化会館をつくるなど、開戦前は欧米向けの活動が多かった。だが一九四一年以降は、大東亜共栄圏の掛け声のもとに、日本文化の中国や東南アジアへ浸透に力を注ぐようになっていた。
 柳沢健は福島会津若松の出身で、大学生のときに島崎藤村や三木露風に師事し、詩人として認められた。その後は大阪朝日新聞の記者をへて、一九二三年、三十四歳のときに外務省に入り、二年後には念願のフランス勤務となった。その後はイタリア、メキシコに駐在し、本庁の文化事業部の課長を務めていた一九三五年、日本ペンクラブの創設に尽力し、初代会長には尊敬する島崎藤村が就任した。
 一九三六年にジャン・コクトーが来日した際、三千代は宿泊先の帝国ホテルを訪ねて、フランス語の詩集『PAR LES CHEMINS DU MONDE』を進呈したが、そのとき彼女を紹介してくれたのが柳沢健だった。その後の彼女の活躍に注目していた柳沢は、軍が進駐した仏印と、文化面での関係改善のために、三千代に白羽の矢を立てたのである。フランス語で日常会話ができるのも大きな理由だったが、金子はこの話にすぐ賛成した。
 「軍ではなく外務省からで、宣撫ではなく、親善のためだということで、僕は、ゆくことをすすめた。軍の残虐のあとで、日本人を訂正する役目を果たすように、僕は、そのことについて充分、彼女に言いふくめた。」(『詩人』)
 三千代は持ち前の好奇心からすぐ話に乗った。宣伝隊として南方に行っている武田麟太郎に会う機会があるかもしれないという思惑もあった。武田が南方へ出発したあと、二人は手紙に暗号を忍ばせて連絡を取りあっていたのである。
 三千代が仏印行きを応諾すると、外務省で小川仏印総領事との面接があり、各種伝染病の予防接種やビザ申請などがあわただしく行われた。
 こうして三千代は、一月十五日、軍の小型機に乗って羽田空港を飛び立っていった。軍の進出につれて仏印への民間人の渡航は増加していたが、船旅が普通だったから、三千代は特別待遇だった。
 「彼女が羽田から発ってゆくのを僕は見送った。迷彩をほどこした、あぶなっかしい、不格好な飛行機が空にあがるのを、はてしなく心細い気持でながめた。その前の飛行機は、南支那海のうえで分解してしまった。」(『詩人』)
 金子は、「死なせにやったかな」と思おうと涙が浮かんだ。それから最初の連絡が来るまでの二週間、寝苦しい夜が続いた。
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# by monsieurk | 2017-02-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(15)

 金子もこの臨時ニユースを聴いた。
 「不拡大方針をうたっていた戦争は、底なし沼に足をつっこんで、十二月八日、ラジオは、真珠湾奇襲を報道した。僕の一家が、そのとき、余丁町の借家から吉祥寺一八三一番地の家へ移ってきてまもなくだった。母親も、子供も、ラジオの前で、名状できない深刻な表情をして黙っていた。
 「馬鹿野郎だ!」
 噛んで吐きだすように僕が叫んだ。戦争が不利だという見通しをつけたからではなく、まだ、当分この戦争がつづくといううっとうしさからであった。どうにも持ってゆきどころがない腹立たしさなので、僕は蒲団をかぶってねてしまった。「混同秘策」がはじまったのだ。丁度、その日、新劇に出ていた元左翼の女優さんだった女の人がとびこんできて、
 「東条さん激励の会を私たちでつくっているのよ」
と、いかにも同意を期待するように、興奮して語った。東条英機は、女たちの人気スターになっていたのだ。僕は床のなかで、その話をききながら、眼をとじた。国土といっしょにそのまま、漂流してゆくような孤独感――無人の寂寥に似たものを心が味わっていた。」(『詩人』)
 戦後に書かれた『絶望の精神史』(光文社、カッパ・ブックス、一九六五年)では、開戦の日のことが、「僕は、アメリカとの戦争が始まったとき、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、「ばかやろう!」と大声でラジオにどなった。」と述べられている。
 だが息子の乾が父を回想した『金鳳鳥』によると、乾が開戦を知ったのはこの臨時ニュースではなく、この日の夜七時ごろだったという。彼はこの日、暁星学園中等部の授業を終えたあと、フランス語の補習に通っている水道橋の「アテネ・フランセ」へ行った。着いたときは短い冬の陽はとっぷりと暮れていた。
 「アテネ・フランセ」は外国人教師が多く、フランスがドイツに占領されたあとも、英語とフランス語を夜間に教えていた。教室は若い男女で一杯で、入営を控えながらフランス人の女性教師の授業に出席する者もあった。
 乾が真珠湾攻撃を知ったのはこのときで、控室でミスター・ライエルというイギリス人教師が「ジャパン・タイムズ」を膝に置き、髪の毛をかきむしっていた。翌日「アテネ・フランセ」に行くと、彼の姿はもうなかった。逮捕され捕虜収容所に送られたという噂だった。
 皆が皆、奇襲攻撃など初戦の勝利に酔っていた。文学者の多くも例外ではなかった。十二月二十四日、文学者愛国大会が開かれると三百五十人が参加した。
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# by monsieurk | 2017-02-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(14)

 七月二十三日、日本軍が南部仏印に進駐すると、これに反対するアメリカは、日本を目標に発動機の燃料や航空機用の潤滑油の輸出を禁止した。日本は戦争の危機をおかしてまで、なぜ欧米に対抗しようとするのか。金子はあらためて日本民族を動かしているものを見極めるために、風土と結びついた日本の思想を学ぼうと考えた。
 「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せだしてきたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根のない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとにでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は戸惑わざるをえなくなった。古い酋長たちの後裔に対して、対等な気持しかもてない僕は、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反撥しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。
 そして、この頃までは、決して僕の方からゆずりたくない気持で、ごく自然に、戦争に反対し、戦争にまで追い込む国家機構に反対して、『鬼の児の唄』までの詩篇を書きつづけてきた僕は、一コスモポリタンの僕の考えよりもこの民族をうごかしているものが、もっとも緊密で、底ふかい、国土にむすびついたものにちがいないということにやっと気がつき出した。その頃から、僕は、日本思想というものを勉強しようとおもい立った。
 出版の統制がはじまっていて、日本主義の本ならば、手にはいりやすかった。宣長や、篤胤、佐藤信淵など、できるだけ本をあつめて、ぼつぼつよみはじめた。」、「日本主義の本は、だいぶよんで、腹へはいってきた。期待にはずれて、新しく僕をうごかすようなことはなにもなく、かえって、僕の日本主義に対する批判をはっきりさせただけだった。やはりこの戦争は、僕にとって、HONTE(恥辱)としてしかおもえなかった。マレー蘭印を通ってきた僕は、つぶさに植民地の支配者たちの積年の悪と、その結果をみてきて、解放しなければならないことを痛感し、英米との戦がそのイミでの示唆をもつならば、中国の戦争よりは無意味ではないかと考えたこともあったが、結局、それはうす汚い利害の争奪戦であることが、もっとはっきりした事実としてわかったことに終わった。」(『詩人』)
 十一月中旬、武田麟太郎の許へ陸軍徴用令が届いた。ジャワへ派遣される第十六軍の宣伝班として従軍するようにとの命令だった。
 十一月二十日には、日本橋人形町の料亭「梅の里」で送別会が開かれて、武田の指導をうけた女流作家としては、三千代のほかに、津田津世子、大谷藤子、円地文子、藤村千代などが顔をそろえた。武田は翌年一月、第十六軍の将兵とともに大阪港からマニラ丸に乗船して南をめざすことになる。
 十二月八日、日本時間の午前二時、日本軍はマレー半島に上陸を開始し、三時十九分にはハワイ・オワフ島の真珠湾に置かれたアメリカ海軍大平洋艦隊基地に対し、航空機と潜水艦による奇襲攻撃を敢行した。
 午前七時、NHKは臨時ニュースのチャイムのあと、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍部隊は本八日未明、西大平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と伝えた。ニュースを読み上げたのは宿直だった館野守男アナウンサーだった。
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# by monsieurk | 2017-02-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(13)

 河邨は金子の没後に刊行されることになった研究雑誌「こがね蟲」の第八号(一九九六年)に、この筆写ノートの全貌を公開した。それにつけられた「金子光晴『疎開詩集』について」で、この間の事情を明らかにしている。
 「私がこれまで「光晴疎開詩集」と呼んで書斎に秘蔵していたノートが、五十年の年月を経て日の目を見ることになった。(中略)
 サイズはやや横長の変型A5版で、厚さは一センチ、表紙はズック布のしっかりしたノートで、やや黄いばみ、薄汚れが目立つ。扉の中央には『詩集真珠湾 金子光晴』とあり、左下隅に「一九四一、三月、東京にて筆写― 文一郎」と記されている。扉をめくると十四篇の詩の目次が並び、一ページ十八行、百三十七ページだが、本文はおそらくGペンで、おそらくパイロットの青インクで書かれている。字体は急いだためであろう、落ちつきを欠いているが、それでもわれながら読みやすく、一語一句誤りなきを期す気くばりが伝わってくる。(中略)
 写本を作って地方へ疎開することを金子さんが思い立ったのは、いのちをかけた一連の詩稿を後世に残したかったからである。金子光晴に司直の手がいつ伸びるか、あるいは住家を空襲の火災がいつ襲うか、どちらにせよこれらの詩稿が烏有に帰すことはまちがいない。そこで「疎開先」として選ばれたのが、当時ほとんど唯一の弟子だった北海道の河邨文一郎(筆者)と、そのころ限定版の詩画集『水の流波』を上梓した長崎の版画家田川憲だった。」
 このとき筆写された詩集「真珠湾」は、「一九四〇年の女に 芯のくさった花に 新聞 真珠湾 天使 落下傘 風景 いなづま 洪水 大沽バーの歌 犬 短章三篇(八達嶺にて 北京 弾丸) 屍の唄 雷 鬼の児誕生」だった。金子がこのころに抱いていた危機感がどれほどのものだったかが分かる逸話である。
 一方、三千代の方は活発な執筆を活動を続けていた。「中央公論」四月号には、正宗白鳥などの大御所と並んで、下町を舞台にした人情話の「蔓の花」が掲載された。担当は畑中繁雄だった。さらに「早稲田文学」六月号に「山」、同じく「文学草紙」六月号には「蛇 作家について」を、そして「むらさき」の六月号から九月号にかけて「更科抄」を連載し、六月には単行本『あけぼの町』を昭和書房から上梓した。さらに「婦人画報」七月号に「若い日」、「新潮」八月号には「国違い」を載せた。これは南洋に出稼ぎに行った日本人女性を主人公にした作品で、金子から聞かされた話がもとになっている。そして九月には富士出版社からパリや南洋、中国での体験を作品にした『をんな旅』を刊行した。口絵には着物姿の三千代の近影を載せ、装幀を富永次郎が担当し、金子光晴がカットを描いた。さらに、六月に刊行された山崎民治の『これが支那だ 支那民族の科学的解析』(栗田書店)のためにも、挿画十八点を提供した。
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# by monsieurk | 2017-02-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)