フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

男と女――第七部(4)

 ところで、「中央公論」六月号に掲載されたもう一篇「落下傘」は次のような詩である。

  落下傘
  
   ながい外國放浪の旅の途次、はるかにことよせて、
   郷詩一篇。
  
 落下傘がひらく。
じゆつなげに、

旋花のやうに、しをれもつれて。

晴天にひとり泛びたゞよふ
なんといふこの淋しさだ。
・・・・・・・

   二

 この足のしたにあるのはどこだ。
・・・わたしの祖国!

さいはひなるかな。わたしはあそこで生れた。
 戦捷の國。
父祖のむかしから
女たちの貞淑な國。

もみ殻や、魚の骨。
ひもじいときにも微笑(ほゝゑ)む
躾。
さむいなりふり
有情(あはれ)な風物。

 あそこには、なによりわたしの言葉がつつかり通じ、かほいろの底の意味までわかりあ
  ふ、
 額の狭ひ、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達がゐる。

「もののふの
 たのみあるかの
 酒宴かな。」

洪水(でみづ)のなかの電柱。
草ぶきの廂にも
ゆれる日の丸。

さくさしぐれ。
石理(きめ)あたらしい
忠魂碑。

義理人情の並ぶ家庇。
盆栽。
おきものの冨士。 

    三

ゆらりゆらりとおちてゆきながら
目をつぶり、
「神さま。
 どうぞ。まちがひなく、ふるさとの楽土につきますやうに。
 風のまにまに、海上にふきながされてゆきませんやうに。
 足のしたが、刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに。
 萬一、地球の引力にそつぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところがないやうな、悲しいことになり
ませんやうに。」 ― 終 ―

(深澤索一畫)
[PR]
# by monsieurk | 2017-01-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(3)

 この詩には以下のような前書きがつけられていた。
 「一九三七年、河北省一帯石家荘から白河に氾濫する三十年ぶりの大洪水が、冬季に入つて猶、水去らず、凍結して一大氷原を出現した。村家流失、生残るもの無一物となつて丘陵に逃れる。しかも厳寒に食なく凍死者相つぐ。歴世支那為政者民の歎を顧ず。皇軍よく白河を治るは、治水者王たるの意に適ふものか。有所感、慨慷一篇。」
 これは言うまでもなく痛烈な反語であり、日本軍が巨大なエネルギーを秘め、ときに氾濫す白河を治められず、「治水者たる王」であり得るはずはない。さらに詩集『落下傘』(一九四八年)に収めれた改作では、詩の最後に、

およそいつになつたら
この氾濫と、
没有法子が解放されるか。

 という一節が加えられた。忍従を強いられる民衆の解放、彼らのひそかな抵抗の精神「没法子」が実現するのはいつか。金子のなかでは、天津で書かれたエッセイ「没法子」よりも一層悲観的な色を濃くしていた。
 金子は東南アジアを旅行中に、英国やオランダの植民地で、虐げられる現地人や経済を牛耳る華僑の横暴を散々目にし、欧米の主張を額面通りに受けとることはなかった。だからといって、日本軍は現状を打破して中国やアジアに新たな路を切り開くという、国民一般が信じている考えには到底同意できなかった。
 「僕の会う人々は、インテリにせよ、そうでない人たちにせよ、あの戦争を超個人的な、ひどく厳粛な、勿体ぶったものとして、おしつけてくるのが常だった。そのイミに於いては、学校の先生も、文士も、工場主も、芸能人も、職工も、同じ口調だった」、「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せてきだしたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根もない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は戸惑わざるをえなかった。古い酋長達の後裔に対して、対等な気持ちしかもてない僕、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反撥しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。」(『詩人』)
[PR]
# by monsieurk | 2017-01-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(2)

 そして「中央公論」六月号には、二篇の詩、「洪水」と「落下傘」が掲載された。「洪水」では、北支での見聞が次のようにうたわれている。

 洪水
    
      一

まるで古新聞みたいだな。
よごれた氷ども。

まるで皮膚病みたいだな。

碼頭ロックを咬み、
みぢんにひゞいり、
しづかにまた、張りつめる。

大運河を越えて
渤海まで、みわたすかぎりの洪水が石になつたのだ!

飢ときびしい沈黙がのしかかつたのだ!

ねむたい眼をあげて、
どこまでつゞくのだ
氷原よ。

石鹸(じゃぼん)よ。
にほふ水平線よ。

うつくしい屍(しがい)のうへを
蛾が孵つて
さまよふ月よ。

      二

 父よ。母よ。子よ。祖父母よ。いま、かれらをおし
流した雲のやうにおほきな濁水は、
 水の肋骨のしたに封じられたのだ!

 畝や、塚の土まんぢう、家竈、井戸や、石臼などは、
くらい水の底にじつとしづんでゐるのだ!
 だが、氷のしたには、なんの物音もない。

 氷のうへにも、なんの物音もない。

河北を一枚で蔽ふ氷盤の、なんといふこの静謐さだ。

 地をびしびしと縛り、天に楔(くさび)うつ、音なき銃聲にも
似た
 なんといふきびしい經律なのだ。

光はまだか。
五千年の秕政の
革る日はちかいか。

虹のやうな凍え。
漂流物。
鳥鼠洞穴。

苦寒にいきのこつた
老人子供が
氷上に孔を穿ち、
あくた火に寄りくる魚くづを
辛抱強く待つてゐる。
[PR]
# by monsieurk | 2017-01-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(1)

 第七章

 緊迫する世相

 金子と三千代が北支の旅からいつ帰ったか、二人の残したものから特定することはできない。たが金子がこの年(一九三八年、昭和十三年)の「中央公論」六月号に発表した詩篇「洪水」の最後に、「一九三八・一・一五作」との記述があり、この詩が帰国直後に書かれた可能性が高い。このことから、二人は一月十日前後には帰国したと推定される。
 三千代は帰国するとすぐに、出発前に武田麟太郎が逗留するといっていた箱根底倉の宿へ電話をした。すると来てほしいという返事があり、すぐに梅屋旅館へ訪ねて行った。
 その後の二人の間がどうなったかは、三千代の「女弟子」や「銀座を行く武麟」からはうかがうことができない。ただこのころ、三千代が麟太郎の麹町の家の前で矢田津世子と偶然出会ったことがあった。それが二人の鞘当として文壇仲間の噂になった。噂を流したのは武田本人だったという。
 息子の乾は両親の仲について、次のように述べている。
 「実際は、おそらく、土方定一との情事を除いては、三千代に、良人と子供を犠牲にしてまで燃焼する情熱がなかったのではなかろうか?三千代も分別盛りになっていたし、うたかたの恋よりも少女時代から憧れていた小説家としての大成の方が魅力があったのかもしれない。(中略)三千代の小説の語彙の豊富さは、三千代が原稿紙を前にして坐っている傍で、光晴が頭をひねり、口先でぼそぼそ言う手助けが大いに貢献していたようだ。」(「夜の果てへの旅」)
 三月になって、金子一家は北多摩郡吉祥寺街一八三一番地に転居した。これには以下のような経緯があった。以前、三千代は金子とともに乾を連れて井の頭公園へ遊びに来たことがあった。息子を電気自動車に乗せて遊んだ帰りに、百坪単位で売地が近くに並んでいるのを見つけると、地主の吉祥寺の町長の家を訪ね、その一つを購入することに決めた。一度に払う金はなかったが、美貌の三千代が気に入った町長の井野は、何年もかかる月賦で譲ってくれた。
 そしてこの年、金子の実兄の知り合いで、東中野に住む横山という裁判官が大審院長になったのを機会に、手狭になった家屋を売りに出すというのを聞くと、破格の安値で購入し、それを解体して吉祥寺の土地に運んで再建した。
 ただ吉祥寺のこの辺は、電気こそ通っていたが、ガスや水道は引かれておらず、水は井戸を掘ってモーターで汲み上げ、炊事には薪を焚かなければならなかった。
 世相は一層緊迫してきた。四月一日には国家総動員法が公布され、さらに警視庁検閲課が出版の統制を強化することを決定した。
 金子は「文芸春秋」時局月報(五月号)に、「シンガポールの裏街から――軍港街につどう諸人種気質」を発表した。これはタイトルの通り、シンガポールに滞在中に見聞した、タミール人、インド人、ベンガル人、華僑などの気質や生活ぶりを伝えたものである。なかでも支配者の列強を除けば、東南アジアの経済の実権を握っている華僑については次のように書かれている。
 「彼ら〔中国人〕は少し油断したら、何でも持ってゆく、とがめれば返す。返せば、あとは同等だ。恩怨はないではないかという顔つきで、よくいえば、実に淡々として、今度会っても、どこを風が吹くかという顔をしている。くよくよ思い悩む良心などはてんで持ち合わせていざることだ。支那人のこれと一連の性格は、よく研究したら面白いとおもう。支那通や、支那研究者が、支那人が国民として老成しており、個人として大きく円満だと考える点も、実際的に支那人とかかわりあったものが、老獪で無節操で始末の悪い国民だとするのも、彼らの同じ生活態度の二面観察にほかならないとおもう」、「事変前、蒋介石の大きな巾着はこの南洋華僑で、そのためには猛烈な働きかけをしたこと、いつか「南洋華僑の排日」という題で、本誌上に略述したとおりである。(中略)しかし、大きな土人購買層は、彼らの悪辣と、懸値(かけね)商法に嫌悪をおぼえていたので、少し高値でも正札つきの日本商品に信を置くような時代になってきて、華僑自身も長年の習慣を反省しつつ日貨に対抗しようとしている。」そして、「最後に、われら同胞について一言すれば、永年の排日貨と、不況にいためつけられながらも、すこやかに発展している。しかし、何としたことであろう。沢庵一本の注文に、雑貨屋の番頭さんが、タクシーに乗ってわざわざとどけにきてくれるとは・・・。」
[PR]
# by monsieurk | 2017-01-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(40)

 三千代のこの紀行文は旅の三年後に発表されたもので、戦後になった書かれた金子の『絶望の精神史』では、この八達嶺への旅は次のように書かれている。
 「昭和十三年元旦、僕らは八達嶺に登り、万里の長城を俯瞰した。日本兵の錯乱寸前の狂的な緊張の目が、僕らを必死に見まもっていた。彼らの、いま立たされているぎりぎりな場所が、理解できるように思った。彼らは、門口に「祝出征」の造花の花環を飾られた家々から連れてこられた庶民たちである。僕の心には、主人が駆り出されて蕎麦屋の店をしめた家をのぞいた、寂しい印象が残っている。死の危険よりも、もっと耐えがたい、柄にもない悪鬼羅刹の立場を強制されることで、極端に自己を圧縮され、破裂しそうになっているのだ。彼らを戦力として、あやつっている軍の幹部たちのほうは、長年の夢が実現して有頂天となり、いまや、なにごともわが思いのままになる快味にひたっている。軍の名で、非理を押し通すことを、いたって当然のことのように思い上がっていた。」
 金子と三千代は八達嶺から北京へ帰ると数日を過ごし、さらに天津にもう一度戻ったあと一月中旬に帰国した。天津を離れる前にこんなことがあった。
 「いよいよ帰途につく数日前のことである。天津の喫茶店で、若い男女が休んでいるところへ、前線からかえってきたばかりの「アモック〔狂ったように暴れる〕」状態からさめない兵士がはいってきて、理由もなしに、いきなり銃剣で男を刺殺する事件があった。大きくなりそうな事件だとおもったが、軍は、「そういう兵士はいない」と、取りつく島もない挨拶ばかりで、弱腰の領事館当局は、泣寝入りで引っ込んだ。大杉栄を殺した甘粕大尉が、満州で大ボスになっていたように、軍は、おのれの非行をかばって、いっさい触れさせぬ態度を、ようやく公々然とおし通すようになった。
 日本に帰ってきて、神戸から東京へかえる列車の中でも、僕は同じような事件を目撃した。現地からかえってきた将校が、いきなり軍刀をひきぬいて、隣席の者に切りつけた。戦争の強烈なショックに耐えられないで、発狂したものであったが、新聞には一行も報道されなかった。」(「中国のなかの日本人」、『絶望の精神史』)
 これが金子と三千代が自分の眼で見た中国大陸の現実であった。そこでは新聞や雑誌ではもはやうかがい知れない事態が展開されていた。
 「北支の旅から帰ってくると、僕は、この戦争の性格が、不幸にも僕の想像とちがっていなかったことをたしかめえて、その後の態度をきめることができた。」と、金子は『詩人』で述べている。十二歳になった息子の乾は、帰国後の金子が、「「こんどの戦争がやはり欺瞞だとはっきりわかったよ。ぼくらは自分の眼でそれをたしかめてきたんがから」
 晴久〔光晴〕が訪問した友人に、気負った口調で言った声を裕〔乾〕はいまでもはっきり覚えている。」(「金鳳鳥」)と書いている。
[PR]
# by monsieurk | 2017-01-07 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)