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ムッシュKの日々の便り

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「変動する書物」(4)

操作者と聴衆


 「講読会」には、マラルメが「招待者」、「出席者」、あるいは「聴衆」と呼ぶ一定数の人びとが招かれる。覚書110によれば、その数は主催者を含めて10名、つまり招待者は9人とされる。しかし他の多くの覚書では、主催者を含めずに24名の出席者が予定されている。たとえば覚書90にはこうある。


 「基本的には、24の席。(実際の出席者がいかほどであれ、そこには朗読者、操作者・opérateurしかいないこともある、そして25番目は操作者である。・・・」


 これからうかがえるように、24という席の数は「講読会」の出席者の最大数のである。しかし実際には聴衆が一人もいない場合でも、「講読会」は行われると考えられていた。マラルメは24人の出席者に送る招待状のことまで具体的に書き残している。


 「8枚の紙片を3つに切って招待状とする=24の聴衆」(覚書153


 「書物」をつくるのに使うものと同じ紙を切って、招待状をつくろうというのである。

 こうして招待された人びとは部屋に招じ入れられ、それぞれの席につく。部屋の照明をどうするか、シャンデリアにするか、それとも「ただ一つの電気ランプ」にするかについては、マラルメは最終的な決断を下していない。いずれにせよ講読作業・opérationは簡単な装置だけで行われる。

  招待された人びとが座る椅子に向かいあって一つの机が置かれ、机のうしろの壁際に、漆を塗った一種の本箱のような家具が置かれる。覚書192に、マラルメはその設計図を書き残しているが、本箱には斜めに6つの棚があり、操作者は本箱の前を自由に動いて、左から右へ、あるいは上から下へと、どこからでも任意に書物を取り出すことができる。棚を斜めに配列したのは、操作者による書物の出し入れを円滑に行うと同時に、その操作が出席者に一目で見えるようにするための配慮と考えられる。

 操作者の入場は呼び鈴でもって知らされる。ほどなく


 「椅子――家具

          カーテン


 朗読者は右側と左側の座席の間の空けられたところから入ってきて、そのまま少々身体まげて、まっすぐ家具――漆塗りの――のところへ行く。家具は明らかに対角線〔をなし〕をなし、〔棚は〕なかば一杯である。

以下のようである。

 

 

(図は省略)


対角線をなすこれら6つの棚のそれぞれには、5つの束(「ファイル」・feuille)が置かれ(その数は一目で簡単に見ることができる。)――〔上の棚の束は上向きで、下の棚のものは下向きか? 朗読者は、最初から、〔手順を〕よく心得ていて、たった一つの電球の下に位置するが、それより前に、棚のひとつひとつあら、上の方の棚からも、下の方の棚からもそれぞれ最初の束を取り、そうやって6つの束を手にする。

そして入って来たほうへ向き直る・・・」(覚書195


 朗読者は束に挟まれている紙片を朗読し、解釈をほどこし、そして紙片を組みかえる。ときどき二枚の紙片、あるいは一つの束の紙片が同一のものであることを示すために、それぞれを両手に持ち、それをちょうどトランプの札を切るときのように混ぜる。こうした動作が45分続けられ、紙片が充分混じりあったとき、朗読者は突然、「この束を持ったまま、彼が来た方へまっすぐに進む・・・」(覚書182

 出席者には講読がこれで終ったように見えるが、じつはそれは見せかけであって、15分の幕間のあと、朗読者はふたたび紙束を持って姿をあらわす。そしてもう一度鈴が鳴ると、彼は漆塗りの棚のところへ、少し身体を傾けつつ、まっすぐに向かい、紙束を先にあったのとは別の順に置きなおす。そして、あらためて別の紙束を取り出し、ふたたび朗読、解釈、紙片の組みかえを始めるのである。

 このように一回の講読会は、幕間をはさんで前後2回行われることになっている。

 覚書に描かれた操作者=朗読者の特徴は、肖像画や写真などで知られる実際のマラルメの姿を髣髴とさせる。たとえば『マラルメ図版資料』には、「1890年ころのマラルメ」と記された、ローマ街のアパルトマンの食堂で、暖炉の傍らに立っている写真が掲載されている。両手の先を上着のポケットに入れたマラルメは、覚書182に素描される朗読者のように、「こころもち身体を曲げて」立っている。その姿はロダンバックが評したように、「司祭のようであり、踊子のよう」でもある。

 購読会におけるマラルメの役割は、彼が謙虚にも「操作者」と名付けたテクストの読み手である。講読会で操作者が朗読し、注釈をこころみる複数の巻からなる「書物」は、もちろんマラルメ自身が制作したものである。しかし「書物」はあくまで無署名のものであって、マラルメはその著者であることを明かそうとはしない。シェレル教授も言うように、「匿名であることが聖なるテクストの本質」なのである。

 1885年、ヴェルレーヌに宛てた手紙で、マラルメはこの考えをすでに明らかにしていた。

 

「わたしの個人的な仕事は・・・匿名のまま、テクストはそれ自身について語りながら、作者の声なしに存在するだろうと思われます。」

 

テクストの匿名性の問題は、マラルメにあっては、1860年代のいわゆる「精神の危機」をくぐり抜けたときから自明のことであった。著作を創造するのは確かに一人の作者だが、真の創造行われるためには、創作の過程で作者は非人称化されなくてはならないというのである。非人称化され、いわば「宇宙の一能力」と化した者を通して、テクストは自ずと生まれ出るものである。もし著作がこうした理想的な状態で生み出されるとすれば、作者がそれに名前を署名することは意味がない。

 マラルメはヴィリエ・ド・リラダンやアンリ・カザリスに宛てた手紙のなかで、繰り返し「著作の非人称化」について語ったが、「書物」を」めぐる覚書のなかでも、当然この思想は繰り返し語られている。


 「書物」は一個の物であって、「その意味についてはわたしには責任はない――しかじかと署名はしない・・・」(覚書201

 

 マラルメはあくまで一人の「朗読者」にすぎない。「このわたしは局外にいる。単なる朗読者なのだ・・・」(覚書117)、せいぜい彼は「最初の読者」(覚書42)、あるいは「最初の受任者」(覚書113)というわけである。

 それにしても、マラルメだけが講読の規則を熟知しており、束(「ファイル」)の配列を心得ている。その意味ではシェレル教授の説のとおり、彼は宗教的儀式の主宰者のような存在であり、あらためて「操作者の仕事をとおして、ファイルの所有権を獲得する」のである。

 シェレル教授は、この問題についてさらにこうも述べている。

 

 「講読会における操作者の機能は、根本において、マラルメが理解している意味での作家の機能と異なるものではない。真の作家とは、マラルメにとって、個性とともに記述的なものを捨象した存在である。抒情的でもなく、現実主義者でもなく、彼は「語り手としての詩人の消滅」を実現する。そして彼が目指すのは、「対象を名付けるのではなく」、それを「暗示すること」、つまり事物をこえる超現実的な何ものかを導入し、それを理解させ、あるいは感じ取らせるように努めることなのである。・・・マラルメの目には、ヴィリエ・ド・リラダンが理想に近いものを実現していた。・・・ヴィリエの文学がくわだてたのは、「この世界を数字化されたさまざまの公理や法則や鉄則と、彼が執着する観念とが等しくなるよう世世界に要請すること」であった。すなわち、作家はこの世界の法則を発見したいという願望に憑かれて、複雑な計算のすえに諸々の公理を定式化する。そして自分の理論をこの世界と対照させてみて、そこに等式が成り立つかどうか、つまり自分の理論が正しいか否かを見きわめようとするのである。「書物」もまさにこうしたものにほかならない。それは文学の創造における、ロマン派の神秘主義とはおよそ対極をなす態度であり、あくまで科学的で技術本位のものである。そしてこれこそまさしく「操作者」の態度そのものである。

 こうして「書物」の操作者は、「書物」の単なる朗読者でも、注釈者でもなく、目指すのは論証であって、彼は「書物」に秘められている客観的な真理を理解させようと努める。そのために彼は繰り返し「書物」を構成する束を組み換え、」そうして得られた千変万化するテクストから、宇宙の隠された真理を導きだそうと努める。


 マラルメは講読会に出席する人びとについてはどのように考えていたのだろか。

 マラルメにとって、公衆は二種類の異なる人びとからなる。少数の選良がおり、他の大多数は大衆と呼ばれる人たちである。そして「講読会」の招待状を受け取るのは、当然マラルメの周囲にいる知的選良であった。

 マラルメは『芸術の異端、萬人の芸術』では、「芸術は選良だけに神秘をあらわす」と書いたことがあった。詩作を唯一の生き甲斐とし、詩を神聖なものにしようとする若いマラルメは、読者としての大衆は無用な存在であり、詩が意味を持つのは少数の選ばれた人びとに対してだけでよいと主張したのである。

 しかし晩年のマラルメは、大衆について違った考えを持つようになっていた。そしてそこには画家マネを通じて、絵画の世界を知ったことが大きく作用していたのである。

 絵画は詩と違った、観客である大衆の存在を抜きにしては考えられない。これに加えて、オペラ、バレエといった舞台芸術、あるいはミサなどが成立するには大衆の参加が不可欠だが、こうしたジャンルについて思索を重ねた結果、晩年のマラルメは大衆がはたす役割について、若いときとは違う結論に達していたのである。

 その結論とは、大衆と選良との間に本質的な相違はないというものである。違いがあるとすれば、それは新聞と「書物」の関係のようなもので、決して本質的なものではない。労働者は日々の仕事で疲れていて、文化活動に参加することはできない。だからといって、彼らが文化生活から完全に締め出されてしまうことはない。言ってみれば、大衆は知的水準に関する限りまだ少年期にあり、その能力は潜在的で未開拓である。しかし大衆は間違いなく美しいものを味わう能力を備えている。マラルメの女婿ボニオ博士は、『イジチュール』の序文で、「シューマンのピアノ・リサイタルに紛れ込んだ女中が、それを美しいと思うようなものである。彼女は和音の調和と相いれない存在ではなく、行きずりの通行人がそこからある意味を汲み取り、それに満足するのと同じこと」だと、マラルメが語ったことを紹介しているが、こうした箇所に晩年のマラルメの大衆観を見いだすことができるように思われる。

 事情は「書物」についてもまったく同様である。「書物」は世間一般の人びとにとって、意味を欠いたものでは決してなく、そこには彼らをも満足させる何かがある。それだからこそ、マラルメは一般大衆を講読会に招くことは考えないまでも、莫大な冊数ん「書物」を印刷し、それを売る計画を真剣に考えたのであった。

 それにしても、まずは講読会に招かれるのは知的エリートたちである。(続)


# by monsieurk | 2024-03-15 09:00 | マラルメ

「変動する書物」(3)

講読会

 

 ジャック・シェレル教授は「講演会」について次のように分析している。

 

「「書物」に捧げられる講演会の組織の細部は、当然それに先立つさまざまの原則に則るものである。だが、それを明確な形で記述するのは不可能なようにみえる。第一に、マラルメの仕事は未完に終わったからだ。死に際したとき、詩人はいまだ未解決の問題を研究中であり、あるいはいくつかの決定を下すことに躊躇していたように見える。第二に、彼が計算を行っているのは、2プラス2が必ずしも4とはならない算術の世界であって、彼が何の説明もなしに〔覚書のなかに〕残した数字を解釈しようとうとすれば、時として奇妙なことになりかねない。」


この指摘のとおり、「講演会」に関する覚書は数多く残されているが、そこから判読される「講演会」の姿はときとして矛盾している。シェレル教授の解釈を参照しつつ、マラルメが思い描いていた「書物」の講読会がどんなものであったかを、以下に素描してみよう。


「講読会」とは複数の招待者を前にして一人の講師が「書物」を朗読し、その解読を行う集まりである。それはローマ街のマラルメの自宅で行われた、あの「火曜会」の集まりを連想させる。およらく「講読会」の原型は火曜会があったことは間違いないであろう。「ジャンルについて、または近代の作家たち」で、マラルメは「舞台は皆が一緒に楽しむ快楽の自明な団欒だ。よく省察された神秘について大きく開かれた入口、人びとは神秘の偉大さに直面するために、この世に存在するのだ」と書いている。

大勢の観衆がつめかける劇場も、構造的には家庭の団欒と同じであり、舞台の幕が開くのを、神秘的な世界に通じる入口の扉が開くことと同一視している。

マラルメは小さな書斎を持っていたが、劇場を自分の目的のために貸切る手立てがあったわけではない。そこで講演会の規模は、劇場単位からもっと小さな規模に縮小せざるをえなかった。


「暖炉の片隅は、考えを口に出してみる絶好の機会ではなかろうか。熱気と輝きの古い秘密が、身をよじり、じっと見つめる我らの視線の下、炉床の光の形を通じて、さらに縮小され、遠くに小さく見える一つの劇場の姿をどうしても思い出させてしまうとすれば、ここにあるのは親しい者だけの夜会なのである。」


劇場の大舞台は望むべくもないとすれば、暖炉が燃える部屋で、親しい人びとを招いた集いを催せばよい。ロココ調の華麗な飾りが施された暖炉の奧に燃える火床は、ちょうど天井桟敷から下を眺めたときの、明るく照らし出された舞台のようにも見える。暖炉の枠組みが天井から舞台へかけての装飾とうれば、煤で黒ずんだ暖炉の内壁は暗い観客席、その下に脚光を浴びた舞台だけが明るく浮かび上がっている。マラルメは暖炉のなかに「縮小された」舞台のイメージを見ているのである。

後年多くの人びとが競って描写することになるローマ街の「火曜会」。それは知名度の割にはごく地味なものであった。カミーユ・モークレールの『自宅のマラルメ』や、ピエール・ルイスが描いたアパルトマンの見取り図から想像される「火曜会」の様子は、おおよそ次のようなものであった。

マラルメのアパルトマンはローマ街89番地の4階〔日本流では5階〕にあった。狭い階段を上がって踊り場にでる。火曜会の訪問客が、この踊り場に面した玄関の扉をたたくと、マラルメ自身が扉を開けてくれる。客は玄関の控えの間につづく、さして広くもない食堂に通される。ここがサロンを兼ねていて、部屋の窓はローマ街に面している。

ここは戸口から窓までの奥行きが幅より長い長方形をしていて、戸口を入ってすぐ右手の角には、斜めに陶器製の暖炉があった。部屋の壁にはマネが描いたマラメ自身の肖像画、《エルスヌールのテラスでのハムレット》と題されるもう一枚のマネ。ルドンのパステル画、ホイスラ―、ベルト・モリゾの水彩画などの傑作が飾られていた。

マラルメは暖炉のかたわらに立って、遅れて来た客を招じ入れたり、その夜初めて訪れた新しい客を皆に紹介したりする。部屋の中央には細長い食卓が、戸口から窓の方向へ置かれており、戸口から見て右側の壁に沿って籐の長椅子がある。反対側の壁には陶器の並んだ食器戸棚と小さな本棚があり、食卓と食器戸棚の間に椅子と数脚の藁椅子が置かれ、客たちはそこに位置を占める。客が多い場合は家中の椅子が運び込まれたと、愛嬢のジュヌヴィエーヴが「娘から見たマラルメ」のなかで書いている。

マラルメは会合のあいだ暖炉に肩肘をつき、ほとんど立ったまま陶製のパイプを燻らしつつ、一座の話題をリードした。9時半ごろ、夫人とジュヌヴィエーヴが客のためにグロッグを運んでくる。この時刻になると、部屋は「食器戸棚の錫の器も、壁にかけた絵も、窓の東洋風の帷も紫煙になかにおぼろげになって」いる。客のほとんどは「宗教的沈黙」に捉えられ、話すのはこの家の主人マラルメだけである。

座談の際のマラルメの洗練された物腰については、数多くの証言が一致して認めている。ロラン・タイヤードによれば、彼は「時宜を逸した仕草は決してせず、しかも幾時間も暖炉の前に立ったままで話し続けた」という。また、『過去の面影』のなかで、ロダンンバックはマラルメの語り口について、「いかにも味わいのある声であり」、「祭式を執行する者の仕草であった」と述べ、「尽きることのない微妙な言葉遣いは、文学、音楽、美術、人生、三面記事と、あらゆる主題を高貴なものにするが、装飾は少なく、事物のなかに密かな類似関係を、交流の扉を、隠された輪郭を見いだしていく。宇宙は彼が要約するゆえに単純化され、それはちょうど海が貝殻のなかで潮騒の音に要約されるのに似ている」と回想している。


以上、長々と「火曜会」の描写を繰り広げたのは、ここからマラルメの意図した「火曜会」の姿を類推する手掛かりが得られるように思うからである。さらにこの恒例の「火曜会」のほかにも、1890227日に、ウージェーヌ・マネ夫人(ベルト・モリゾ)の客間で催された、ヴィリエ・ド・リラダンについての講演会も同種のこころみとして注目してようかも知れない。

マラルメはこの年の210日、隣国ベルギーへ講演旅行に出かけて、『ヴィリエ・ド・リラダン』と題した講演を、ブリュッセル、アントワープ、ガン、リエージュ、ブリュージュで行った。そしてパリに帰ると、友人たちの要請もあって、同じ講演を行うことにしたのである。ただパリの場合は公開ではなく、ウージェーヌ・マネ夫人の客間で、親しい人人だけを集めて催したのだった。 マラルメはこの集まりについて、322日付けのオディロン・ルドン宛ての手紙で、こう予告している。


「もしあなたがブラバント〔ベルギーとオランダにまたがる地方〕を騒がせ続けている講演会を聴きたいとお思いなら、今度パリで親しい人びとの間で行います。場所はベルト・モリゾ夫人(ウージェーヌ・マネ)宅、27日木曜夜。9時前。電車がヴィルジュスト街40番の、森の大通りがはじまるところまであなたを運んできます。儀式は一切なし、ご婦人たちは無論歓迎です。」


同様の招待状はアンリ・ド・レニエ、アンリ・カザリスなどにも送られた。当日の聴き手は、マネ夫人、ヴィリエ・グリファン、デュジャルダン、ウィゼワ、ドガ、ルノアール、モネなど340 人で、マラルメ夫人やジュヌヴィエーヴ嬢も隠れて聴いたという。講演は大成功であった。ベルト・モリゾは一週間後に、セーヌ県のジュヌヴィリエからマラルメ宛てに祝福の手紙を書き送った。


「一週間も前から、義兄義姉があなたの素晴らしい講演について書いてきたことを、わたしも繰り返しお伝えしたいと思っておりました。あなたは大変な成功を収められました。誰一人として、あなたのように話すことはできません。あなたはまさしくわたくしたちの時代の講演の第一人者です。あなたの講演を聴くための席なら、少なくとも千フランは払うべきです。・・・」


講演者としてのこうした経験は、「書物」の「講演会」を構想する上で大いに役立ったに相違ない。(続)


# by monsieurk | 2024-03-10 00:00 | マラルメ

「変動する書物」(2)

 マラルメは「書物、精神の楽器」のなかで、この条件が充たされる稀な情景を描いている。

 

 「庭のベンチに腰を下ろす、そこにはまだ読まれていない、しかじかの新刊書が置かれている。風が吹き過ぎながら〔その書物を〕半開きにし、ぱらぱらと動かす、たまたま装幀、つまり書物の外観を活気づける・・・」

 

 しかしこの一陣の風はあくまで偶然であって、しかも風が活気づけるのは本の外側だけで、肝心の本の内容、その構造を変化させることはない。本は依然不動のままである。ところで本とくにフランス綴じの本は、印刷された一枚の書を折りたたむことによってつくられる。

 

 「印刷された大きな紙に対して、折りたたむということは、ほとんど宗教的な一つの徴候である。・・・紙を折ること、およびそれがつくり出す数々の折られた内側というものがないとすれば、黒い活字となって散らばったその暗闇が、指で〔ページを〕ひろげたとき、その表面に神秘の破片のようにひろがる一つの理由を明らかにすることはないかも知れない。」

 

 こうしてつくられる本に、運動性を導入しようというのだが、フランス綴じの本を読む際の、ペーパー・ナイフでページを切るという行為は、どう位置づけられるのか。

 

 「これは実際に起こることだが、といってもとくにわたくしの場合、世の習慣に則って読むべき仮綴本となると、わたくしは家禽を屠る料理人よろしくナイフを閃かす。

 書物の折りたたまれたままの処女なるページは、なおも昔の書籍の、陽に焼けた縁がそれによって血を流した儀祭を覚悟している。すると、凶器、すなわちペーパー・ナイフが挿し入れられる、取得を確かなものとするために、この野蛮な真似を抜きにしても、意識はあとになって、なんと利己的になることか。そのとき、意識は書物に関与して、書物を勝手に取り上げ、これをさまざまに変奏し、まるで謎かけのようにこれを解き、――要するに、ほとんど自分の手でつくり直直してしまう。だが、〔書物の〕諸々の折り目は、主人の意にしたがってページを開き、また閉じるように誘いながらも、一つの印を元のままに、永久に存続させるであろう。脆弱な不可侵性の破壊において成就される暴行とは、それほどにも理不尽な、しかもとるに足らぬ所為なのである。」

 

 ペーパー・ナイフによって、本を我がものにしたいという確証を刻み込む行為は、折りたたまれ、隠されていたページを暴いてみせる。しかし、それはあいかにも野蛮な行為ではないか。昔の書籍は天金の代わりに、赤で縁取りしてあるものがよくあった。シェレル教授は、引用文でペーパー・ナイフが武器に喩えられているのは、赤で縁取られた本という生体を切り裂き、血を流すという連想が働いているからだと注釈している。

 それはともかくとして、ペーパー・ナイフで切ることで、閉じられた本を読者の手で自由にするとはいっても、その自由は決して本質的なものではない。マラルメは、こうした「野蛮な疑似手段」を拒否する。書物に自由をあたえ、運動性を導入する本当の文学的方法は、書物を構成する諸要素、すなわちページ、文、語句、語、あるいは文字を動かすことである。

 

 「書物は文字の全体への膨張であって、文字そのものから直接一つの可動性を引き出し、広々とした空間を持つものとなって、数々の順応により、虚構を確かなものとするような一つの遊びの場を設けなければならない・・・

 ・・・書物の制作は膨らんでいく全体のなかで、一つの文字からはじまる。太古以来、詩人は精神のためにあらゆる純粋な空間の上に記されているソネのなかで、その一行が占めている位置を知っているものなのだ。わたしの場合もその書物には覚えがなく、何ページの上からどの辺に、しかじかの主題があると思い描くことはできないとしても、いわば日射しの方位で、その作品の関して主題が占める位置を、書物が通告してくれるという不思議があるのだ。もはや一行が終わると次の行へとふたたび始めるための、例の視線の絶え間ない連続的な往復運動は存在しないのだ。・・・それとは異なり、鍵盤上の楽曲にも似た、紙片による活発で、韻律の整った演奏は別として、――夢想するのに、なぜ目を閉じてはならないのか? 否、それほど放漫でもなく、さりとて退屈でつまらない屈従でもなく、その輝きが誰のなかにも存在する自発性というものが、寸断されたている記譜法をつなぎ合わすのだ。」

 

 「書物、精神の楽器」のこの一節は、マラルメがどんな過程を踏んで書物の制作に取りかかろうとしていたかを具体的に示している。つまり、全体への配慮が個々の要素を決定するのである。そしてこうした態度は、具体的には語彙よりも文構成法の重視、実際の作品では、『賽の一振り』に見られるタイポグラフィー(活字印刷法)の駆使となって現れる。事実、『賽の一振り』は運動それ自体を視覚化した詩でもあった。

 マラルメが構想する「書物」は、123、・・・と、定められた順番に綴じられてはおらず、詩句〔マラルメが考えたのは、おそらく韻文形式のものであった〕が印刷された複数の紙片は自由に順番を変えることができるようになっていた。読者はページを入れ換えて、幾通りにも読むことができる。つまり書物を構成する紙片の数は、順列組み合わせの数だけ読み方があることになる。

 残された覚書(紙片99183189191等)によれば、マラルメが考えていた「書物」の形態は次のようなものであったと推定される。

 最初と最後のページは一枚の紙の左右に書かれ、それを二つ折りにした間に幾枚もの紙片が、自由に入れ換えられる形で挟まれている。最初と最後のページだけが不動で、この一枚の紙の外側がそれぞれ表表紙、裏表紙となる。そして最初のページと最後のページ、その間に挟まれた交換可能のページは、全体で一つの意味を現すことになる。

 この場合、詩句と詩句の律動や意味の連続性は、基本的には最初と最後の固定された二つのページの詩句により規定されることになる。だが実際には、内容の連続性をどうやって確保するか。それが書物として成立するには、詩句全体のコンティニュイテイーが、ページの組み合わせのいかんにかかわらず、確保されなければならない。そのための方法をどうのように確保するか。

 189188日付けのヴィエレ・グリファン宛ての手紙のなかで、マラルメは「すべての神秘はそこにある。対象を融解し〔相互浸透させて〕照合することによって、隠れた同一性を確立することだ。」と述べたが、その一節はマラルメの抱いた野心をよく示している。

 ページを固定せず、さまざまに組み合わせる最大の利点は、一見まったく異なる二つのものを対比照応させることで、新たな文脈を発見することにある。現実を固定的に、個々別々に考察していたのでは絶対に発見できない、現実の背後に隠れている思いもかけない同一性を見つけだすことができるはずだというのである。

 紙片を自由に置き換え、新しい組み合わせをこころみるたびに、新たな照応が生じる。そしてそこから意外な真実が顔をだす。これはマラルメがよくこころみたというカードの逸話を思い出させる。逸話とは画家のドガが伝えているもので、マラルメはカードの上に単語を書き、それをさまざまに組み合わせて、まったく新しい観念を生みだしたというのである。「書物」の場合は、単語を詩句に、カードをページに拡大させたと考えればどうであろうか。

 

 「一冊の書物はこの方法の導入によって、その堅固な印象にもかかわらず、変動可能なものとなる。死から生命を取り戻すのだ。」(覚書191

 

 『賽の一振り』のように、詩句が音譜状に配置された紙片からなる「書物」。一つページが多様な解読を許す上に、さらに個々のページがさまざまに組み合わされ、ページの順序をさまざまに変動させるシステム。これがマラルメの目指したものであった。 マラルメの構想によれば、「書物」は20巻からなるとされていたようである。この数字は覚書(92108129132等)のなかで繰り返し取り上げられている。だがなぜ20巻なのか。そして20巻のそれぞれが、どのような内容を含むかといった点については言及されてはいない。

 上にあげた紙片にマラルメが書きつけた計算から推察すると、20巻はそれぞれ384枚、あるいは480枚からなると考えられる。紙片92によれば、1巻はそれぞれ96枚を一つのグループとする4つの部分からなるが、この4グループを総合した第5のグループが付け加わる場合もあり、そのときは1巻が480ページとなるというのである。そして、1グループの96ページという数字は、後述するように、書物をめぐって行われる講読会の出席者の数と密接な関係を持ってくるのである。

 マラルメはこの20巻からなる「書物」を印刷して、一般の読者にも販売することを真剣に考えていた。印刷する部数については、「書物」の構成が必ずしも確定していないため、いくつかの異なった数字が残されている。たとえば、その数は12000冊であったり、48万冊であったりする。これだけの冊数を印刷出版して、販売普及をはかると同時に、経済的基盤を得ようと考えたのであった。事実、「書物」の販売による経済的利益についても、細かく計算した覚書が残されている。覚書167がそれで、そこには「1巻ごとに2フラン。1フランは著者に、1フランは出版社に」とある。シェレル教授の注記通り、12フランという値段は、19世紀後半の一般的文芸書としては妥当な値段である。

 新聞「ル・フィガロ」は、1894817日の紙面に、「文学基金」の創設を呼びかけるキャンペーンを掲載した。その趣旨は、文学基金で若い文学者を援護し、新しい文学の振興をはかろうというものだったが、これはもともとマラルメが主張してきたものである。マラルメは一週間後の824日、ヴァルヴァンからメリー・ローランに宛てた手紙のなかで、


「・・・わたしは「フィガロ」が掲載した手紙には答えませんでした。一つのアイディアを、まるで妻のように〔自分のものだと〕主張する男の滑稽さを避けるためです。久しい以前からわたしは「文学基金」のことを語ってきましたから、人がこの計画を横領したとしても驚くことは何もありません。「フィガロ」が、今後もキャンペーンを続けるかどうか知りませんが、出版社との契約からすれば、はなはだ疑わしいものです。わたしも、この秋にはパリの雑誌で、この計画をふたたび取り上げるつもりです・・・」と述べている。

 

 マラルメは、「書物」の出版販売によって得た資金で、念願の「文学基金」の創設を夢みたのである。しかしこの他にもっと本質的な使途を思い描いていたようである。それは「書物」の講読会の開催であった。マラルメは講読会こそが、「書物」を読む真の方法だと考えていたのである。(続)


# by monsieurk | 2024-03-05 09:00 | マラルメ

変動する書物(1)

 『マラルメ探し』は1992年に青土社から刊行したもので、そのなかにマラルメの「書物」に関する覚書について、「変動する書物」と題した論文を収録した。初出は「書物の物理学」というタイトルで、雑誌「TwiLight」の19917月の第1号から4回にわたって掲載したものだが、執筆したのはそれより10年近く前の1972年のことである。

『マラルメ探し』は古書としていまも入手可能だが、「変動する書物」をぜひ読んでいただきたく、以下このブログに再掲する。引用の翻訳には若干手を加えた。では、


残された覚書


ジャック・シェレル教授によれば、マラルメは1873年頃から「書物」に真剣に取り組んだ。そして、折々の考察を紙片に書きつけたが、そのうち202枚が死後に残されたのである。シェレル教授がアンリ・モンドールから研究を依頼されたとき、大きさのことなる202枚の紙片に黒インクや鉛筆で書かれた草稿は、二つ折りにした六角形の装飾のある青い紙に挟まれてあったという。〔その後、ベルトラン・マルシャルは、1998年に刊行した新版『マラルメ全集Ⅰ』では、ジャック・シェレルが排除したものを含めて258枚の草稿を、「「書物」をめざす覚書」と題して発表し、内容について詳細な分析を行った。〕

「書物」に関する草稿も、死を目前にしたマラルメによって焼き捨てるよう遺言されたものの一つだが幸いにも保存され、遺族からモンドールをへてシェレル教授に託されたのだった。

シェレル教授は、謎にみちた草稿の解読をこころみ、同時に202枚を手渡されたときの順序のままに、忠実に活字にして発表したのである。以下シェレル教授の解説にそって、マラルメが「書物」についてどのような考えを抱いていたかを考察してみたい。


202枚の大部分は、さまざまな計算に費やされている。計算の意味は、「書物」の巻数や部数、読者(聴衆)の人数、その並び方や位置、朗唱会の上演時間数など、「書物」が持つべき構造を決めるものである。

1891年、マラルメはジャーナリスト、ジュール・ユレの質問に答える際に、「世界は美しい一巻の書物に帰着するように創られている」と語り、4年後に「白色評論」に掲載した『書物、精神の楽器』では、この言葉を多少変化させて、「この世界において、すべては一巻の書物に帰着するために存在する」と書いている。

マラルメは、こうした表現を単なる比喩として用いたのではなかった。彼は世界が帰着すべき「書物」の創作を、真剣に考えていたのである。残された覚書は、この「書物」が充たすべき条件についての具体的な検討の跡を示している。マラルメは18851116日付けヴェルレーヌ宛の手紙でも、「書物」に触れてこう述べている。


「それは説明するのは難しいの、簡単に言えば、数巻からなる一つの書物です。書物といえば書物であって、建築的で、あらかじめ塾考されたものであって、どれほど驚嘆すべき霊感であれ、決してその蒐集ではない・・・根本において、たった一つしかないと確信される書物といったものです。地上世界のオルフェウス主義神秘的解明、それこそ詩人の唯一の義務であり、きわめて文学的な遊戯です。なぜなら、そのとき非個性的で、しかも生きている書物の律動それ自体は、そのページ付けにおいてまで、この夢、すなわちオードの方程式に並列されるのです。・・・この著作をその全体としてつくるのではなく(そのためには誰かわたしの知らない人物が必要でしょう)、ただその制作されたものの一断片を示すだけで、その光栄ある真正さを、ある場所によって輝かせるだけで、残余の全体については一生涯かかっても足りないことを示すのみです。つくられた部分によって、この書物が存在していること、わたしが完成し得なかったことをわたしは知っていたと証明することなのです。


マラルメの予言は不幸にして当たった。「書物」はその全貌を現すことなく終わったが、詩人は「完成しなかったもの」の存在を確信していたのである。

マラルメはまず、「書物」が持つべき形態について、繰り返し計算をおこなっている。「書物」(「ブロック」)がどんな大きさを持つべきか、「この直方体の比例の法則」を研究した。

覚書39および40によれば、「書物」は結論として、縦、横、高さの三つが、ある決まった整数の比になるべきだと考えられている。本の厚さを1とすれば、横幅は4、高さは5ないし6でなくてはならないというのである。そして、当然のことながら、この数字は1ページに含まれる詩句の長さと行数に深くかかわってくる。

「ブロック」は、一冊の本を指すと同時に、複数の本を重ねた全体を指す場合もある。数冊の本を重ねた全体が、新たな直方体を形成する。このとき本の縦の高さが厚さの6倍だとすれば、6冊の本を横にして重ねたものの高さは一冊のと同じになる。マラルメにはこの形がもっとも堅固なものと思えたびであった。「このブロックは、立っていようと、横に重ねられていようと、正面から見た場合は正方形となる」(覚書39)というわけである。

だがなぜそうなのか。残された覚書ではこれ以上の分析はなされていない。

「書物」は人類の永遠の記念碑として構想されるべきであり、堅固で、荘厳でなければならない。塾考された構成法に則らないものは「書物」の名にふさわしくない。しかし同時にマラルメは、「書物」が石造りの記念碑のように不動であってはならないとも考えていた。そこに読者の参加する余地があり、読者が「自由に扱える」と感じない限り、「書物」は読者のものとはならず、成立条件の一つを欠くことになる。

「書物」が一見正反対のこうした要求を充たすにはどうすればよいか。ここに新たな課題、つまり「運動」の概念が登場することになった。(続)


# by monsieurk | 2024-03-01 09:00 | マラルメ

若きカミュ(2)

 ルポルタージュ


「アルジェ・レピュブリカン」は創刊にあたって、「人民戦線の綱領を支持し」、「原住民の友人たちを劣った地位にとどめる社会的保守主義に反対し」、「出自、宗教、哲学がなんであれ、あらゆるフランス人の社会的平等を即時要求し」、「アルジェリア原住民の政治的平等を目指す」と宣言していた。

新聞が創刊される直前の930日、英仏独伊の間で、ズデーテン地方をドイツに割譲することを認めるミュンヘン協定が調印され、これに反対するソビエト連邦や左翼知識人たちとの亀裂は一層深まり、戦争への懸念が高まっていた。

「アルジェ・レピュブリカン」は、反ファシズムの立場から国際情勢を報じたが、その他にもスポーツに1ページ、さらに「ベルクールからバーブ・エル=ウーエドまで」と題した地域のニュースに2ページを割いて、植民地アルジェリアが抱える現実を正面から取り上げた。

記者の多くがジャーナリズムの未経験者だったが、編集長のパスカル・ピアはいち早く若いカミュの観察眼と文章力を見抜いた。カミュも精力的に取材活動を行うとともに、1939 523日に、前著と同じエドモン・シャルロ書店から2冊目のエッセー集『結婚(Noces)』を出した。90ページほどの本に、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇が収められ、1,225部の限定出版だった。エッセーはどれも地中海地方特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花……こうした世界の美しさを肌で感じ、今この時を生きることへの讃歌だった。

『結婚』が陽の目を見た2日後、パスカル・ピアは、記者証を手にしてまだ18カ月にしかならないカミュを、北部のカリビア(La Kalybie)地方の取材に向かわせた。ライバル紙の「レコ・ダルジェ」が、「カリビア地方は楽園である」といった記事を載せたが、ベルベル人が多く住むこの地域の生活について、実態に即したルポルタージュをカミュに期待したのである。

アラビア語もベルベル語も話せなかったカミュは、通訳を伴って現地に入り、人びとから直接話を聞いた。その成果は、「カリビアの悲惨」と題した長文のルポルタージュとして、65日から15日まで11回にわたって掲載された。

65日の「ぼろ着のギリシア」と副題された第1回は、次のように書き出される。


「カビリアの傾斜地にさしかかり、天然の段丘のまわりにかたまる集落、白い羊毛を巻いた人たち、そしてオリーブとイチジクとサボテンの並木道を眺め、そのあとで人と土地が調和したような単純な生活と風景を目にするとき、人はギリシアを想わずにはいられない。」


ジャーナリスト、カミュは、『結婚』の一節のような筆致でルポルタージュをはじめるが、一見のどかな光景の裏に恐るべき貧困が隠れていた。


「カリビアの悲惨さの全体像を描く前に、さらにこの期間訪ね歩いた飢餓の道程をたどり直す前に、この悲惨さの経済的原因について少し語っておきたい。それらはすべて一本の線でつながっている。カリビアは人口過剰の土地であり、生産する以上のものを消費している。山岳地帯の襞々が大勢の人間を抱え込んでいる。たとえばジュルジュラのような地域では、1キロ四方に247人がひしめいているが、ヨーロッパのどんな国にもこんな人口過密なところはない。フランスの1キロ四方の平均人口は71人である。他方、カリビアの人たちは雑穀類、小麦、大麦、モロコシをクレープやクスクスとして消費する。ところがカリビアの土地は穀類をほとんど産しないし、全生産は消費量の8割にしか達しない。だから生きていくため必要な穀物を購入しなくてはならないが、工業がほとんどゼロの〔収入のない〕土地では、副食用の農産物でそれを補うしかない。

カリビアはとくに樹木栽培が盛んな土地である。二大産物はイチジクとオリーブで、多くの地方でイチジクは消費量をほぼまかなえている。オリーブに関しては、年によって作、不作の差が激しい。この飢えた人たちに必要な穀物と、生産の現状をどうやったら均衡させることができるのか?」


カミュはカリビアの各地をまわり、通訳を介して人びとから生活の実態を聞き出す。


「農業労働者は1日分の食料として、大麦でつくったクレープ4分の1と、小瓶1本の油をもっていく。家族の食料は根と草で、それに何時間も煮たイラクサが貧しい人たちの副食となる。

カリビアの労働条件は奴隷のそれだと言わざるをえない。なぜなら6ないし10フランの賃金を得るのに、10時間から12時間働く労働者たちの労働形態を指すのに、奴隷制以外の言葉を、わたしは知らない。

彼らはどんなことにも適応できるなどと言うことほど恥ずべきことはない。はたしてアルベール・ルブラン氏〔当時の大統領〕は、生きるために1カ月200フランをあたえられ、橋の下で生活し、汚物にまみれ、ごみ箱から見つけたパンの耳で生きていくことに適応できるのだろうか。彼らは、わたしたちと同じ要求を持つべきではないなどと言うのは恥ずべきことだ。

労働者は1カ月に25日働いても150フランしか得られず、それで子沢山の一家を30日間食べさせなくてはならない。これは怒りの限界を越えている。ただ、わたしとしては、読者のうちの何人が、これで生きていけるのかと問いかけるにとどめよう。」


カミュが見たのは、飢えで死んでいく人たちだった。当局が配給する小麦や大麦の粉は、人びとが必要とする量にはまったく足りなかった。だがカミュは早急な断定を保留する。


「しかしわたしに、この事実が彼らを死にいたらしめるかどうかは分からない・・・・・・問題は、わたしたちが、3世紀も遅れている人たちと共に生活しているという事実だ。そしてわたしたちだけが、この驚くべきギャップに不感症だということだ。」


カリビア地方で不足しているのは食料だけではなかった。学校の数が極端に少なく、その質もきわめて不十分だった。カミュは11回の連載を締めくるにあたって次のように書く。


「これで十分ではないのか? 自分のノートを見ると、胸をムカつかせる事実が、この2倍は見つかる。そしてそれを読者の皆に知ってもらうことに絶望する。だがそのすべてを伝えなくてはならない。わたしは飢えと苦悩に苛まれている人びとの間をめぐる取材をここで終える。読者は、この地では悲惨が決まり文句でも、単なる考察の対象でもないことを理解してくれたと思う。ここには悲惨がある。それは叫び声をあげ、絶望している。もう一度言う。わたしたちはこれに対して何をしてきたか? これに背を向ける権利が、わたしたちにあるのか?」


サントス=サインスによると、カミュの記事の反響はすぐにあった。3日後、保守派の「ラ・デペッシュ・アルジェリアンヌ」の編集長ロジェ・フリソン=ロッシュは、「カビリア 39」と題した連載を開始し、「フランスはカリビアのためによいことを沢山してきた」と書き、カミュを「イデオロギーで目が眩んでいる」と非難した。フリソン=ロッシュは、首都アルジェの市長ロジスの取り巻きの一人だった。

残念なことに、カミュの優れたルポルタージュによって、読者が増えることはなかった。現地の人びとの多くは新聞を読む習慣がなかった。そして読むにしても、自分たちに好意的な「アルジェ・レピュブリカン」ではなく、保守系の「ラ・デペッシュ・アルジェリエンヌ」だった。


廃刊

 

 ヨーロッパの情勢は緊迫していた。1939823日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結、共産党だけでなく左翼の人びとを混乱と絶望に陥れた。ヒトラーはこれを機に一層攻勢を強めた。パリでは共産党系の日刊紙、「ユマニテ(L’ Humanité)」と「ス・ソワール」が押収された。826日にはベルギーで総動員令が発動され、戦争の危機が迫った。

193991日、ドイツは陸軍と空軍とでポーランドに侵攻し、同じ日、イギリスとフランスは総動員令を発動した。3日には両国がドイツに宣戦を布告して第二次大戦がはじまった。

 レオン・ブルムのあとを継いだダラディエの内閣は、929日に共産党と地域政党「アルジェリア人民党(Parti du peuplealgérien, PPA)」を非合法化し、両党の幹部を逮捕拘禁してメンバーを監視下に置いた。そして検閲制度を復活させ、新聞記事も愛国的な論調以外のものはすべて検閲された。新聞はしばしば紙面の一部が白紙のまま発行され、あるいは発行停止の処分をうけた。

「アルジェ・レピュブリカン」も時勢に逆らうことはできなかった。その上ここにいたって、ジャン=ピエール・フォールたち経営陣は、パスカル・ピアやカミュたち編集部が創刊当時の路線を逸脱して、「人民戦線の新聞はアナキストの新聞に変貌してしまった」といって非難した。カミュたちは当局以外に、新聞の上層部とも闘わなければならなかった。

 やがて来る事態を予想して、パスカル・ピアとカミュは、カミュを編集長とする姉妹紙「ル・ソワール・レピュブリカン(Le Soir Républicain夕刊共和派)」の発行を決めた。1枚の紙の表裏2面に記事を載せた創刊号は、915日、140サンチームで発売された。趣意書によれば、公衆は真実の報道に飢えている、そこで新しい日刊紙は午後4時に店頭に並び、他紙の誇大宣伝を撃つ、というのであった。

「アルジェ・レピュブリカン」は購読者が激減し、1028日についに休刊に追い込まれた。「ル・ソワール・レピュブリカン」はその後も刊行を続けたが、1030日の一面には、検閲をうけて真っ白になったページの真ん中に、「「ル・ソワール・レピュブリカン」は他の新聞とは違う、それは読むに値する何かを提供する。」と大文字で印刷されていた。

サントス=サインスによると、フランスの有力紙「ル・モンド」のジャーナリスト、マーシャ・セリ(Macha Séry)は、2012年に、南仏エックス=アン=プロヴァンスにある「海外県に関する国立資料館」で、「自由なジャーナリストの宣言」と題したカミュの署名記事を見つけ出した。これは「ル・ソワール・レピュブリカン」の19391125日号に掲載するために執筆されたが、直前の検閲によって掲載を禁止され、陽の目を見なかったものである。セリはこれを2012317日付の「ル・モンド」紙に発表した。カミュは次のように書いていた。


「今日、フランスでの問題は、いかにして新聞の自由を護るかではない。問題はこれらの自由に対する圧力をうけて、一人のジャーナリストがどうしたら自由でいられるかを探し求めることである。問題は集団ではなく、個人に関わることなのだ。……

1939年にあって、一人の自由なジャーナリストは、絶望することなく、自らが真実だと思うことのために戦うのだ。自分の行為が事件の動きに影響をあたえることを信じて。彼は憎しみを助長し、あるいは絶望を生むものは一切書くことはない。こうしたことはすべて彼の力でできるのだ。……

水嵩を増す愚劣さの沼には、何らかの拒否で対抗する必要がある。世の中のすべての強制は、不誠実を受け入れるいささか清廉すぎる精神にのみ働きかける。

ごく少数の者しか情報のメカニズムを知らず、彼らは簡単にニュースの正当性を信じてしまう。自由なジャーナリストはこの事実にこそ注意をむけるべきだ。

独立した新聞は情報の出どころを明かし、公衆がそれを吟味するのを助け、頭の詰め物を取りのけ、罵言を払拭し、解説によって情報が画一化するのを避ける必要がある。要はジャーナリストの力によって、真実を人間的尺度に還元するのである。これこそが世の中に嘘がはびこるのを拒否するのに役立つのだ。」


カミュはジャーナリズムに高い理想を託したが、現実はこれとは裏腹だった。「アルジェ・レピュブリカン」の休刊とともに多くの記者が解雇され、「ル・ソワール・レピュブリカン」のつくり手は、カミュとパスカル・ピア以外に14名だけというありさまだった。その上、アルジェは情報源に遠く、情報は契約しているアジャンス・ラジオ(ラジオ通信)に頼るしかなく、ときに政府発表の誤った情報を載せざるを得ないこともあった。

194019日、アルジェ総督は新聞の発行を差し止める法令を発布した。翌10日の夕方、警察は「ル・ソワール・レピュブリカン」社内で、予約購読者宛てに発送される新聞110部を押収し、駅の新聞スタンドやタバコ屋の店頭から合計1051部を回収した。

パスカル・ピアとカミュは後始末に追われた。職を失った記者や印刷工などへの給料の清算を終えると、パスカル・ピアは妻と娘、それに義母を連れて、28日に船でアルジェをあとにした。パリに戻った彼は、「パリ・ソワール(Paris-Soir)」紙の編集長に迎えられ、カミュのために編集部での仕事を見つけてくれた。カミュがパリに行ったのは323日のことである。ただ、カミュの仕事は編集秘書としての編集作業への助言が主で、彼自身が記事を書くことはなかった。

1940617日、パリはドイツ軍によって占領された。このため「パリ・ソワール」は自由地区のクレルモン=フェラン、次いでリヨンへと本拠を移し、カミュもこれに従った。12月には、オラン出身の数学者で、ピアニストのフランシーヌ・フォールと再婚したが、新聞社では物資の不足と購読者の減少から人員整理が行われ、カミュは感謝しつつ退職の道を選んだ。

その後、彼はオランの妻の実家に身を寄せ、私立中学校でフランス語を教えるとともに、公教育から排除されたユダヤ人学生のために哲学の授業を受け持った。そしてこの間も、小説「異邦人(L’ Ētranger)」、評論「シシューポスの神話(Le Mythe deSisyphe)」、戯曲「カリギュラ(Caligula)」の創作を進めた。

「異邦人」がパリの老舗ガリマール社から出版され、文学界にセンセーションを巻き起こしたのは19425月のことである。このときガリマール社の査読委員であるアンドレ・マルロー、ジャン・ポーラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガルに原稿を読むように紹介してくれたのもパスカル・ピアだった。

こうして一躍有名になったカミュは、レジスタンの一環として非合法誌「コンバ(Combat、戦闘)」の編集にかかわり、逮捕を免れるために、アルベール・マテ(AlbertMathé)などの匿名で記事を載せた。

カミュはジャーナリストの仕事に矜持を抱いていた。アルジェ時代にこんな言葉を残している。


「ジャーナリストは言葉の保持者だ。彼はときにこの宝物を用いて、自らの国の名のもとに語る。新聞は一国の言語活動〔ランガージュ〕なのだ。」


カミュは言葉が諸刃の剣であるのを十分に自覚していた。その上でジャーナリズムの仕事に矜持を抱いていた。だから彼はジャーナリストとして、人びとの名のもとに語ることを躊躇しなかったのである。(完)


# by monsieurk | 2024-02-25 09:00 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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