画家ヴュイヤール III 「画家ヴュイヤール II 「友人たち」」
2012年 05月 27日

ヴュイヤールが、マラルメの有名な「火曜会」に顔を出すようになったのは、「ナビ派」の存在が世間の注目を集めるようになった1890年代のことである。文学史上有名な「火曜会」は、1882年の暮ないし83年初めから毎週火曜日の夜に、パリ8区のローマ通りのマラルメの自宅で催された集まりである。火曜会は新しい傾向の芸術家の結社として知られていた。
1891年になると、火曜会のメンバーは一新され、ルネ・ギルやギュスターヴ・カーンといった人たちに代わって、ピエール・ルイス、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリーといった新進が出席するようになった。彼らのほかに度々訪れる人物として、画家のホイスラー、イギリスの作家シモンズ、オスカー・ワイルド、ベルギー生まれのマーテルランク、ヴェラーレン、そしてヴェルレーヌ、クロード・ドビュッシー、ポール・クローデル、ルドン、ゴーギャンなどがいた。こうした人たちに交ってヴュイヤールの姿もあった。
もっとも、ヴュイヤールがローマ通り89番地の家を訪れた回数はそれほど多くはなくかった。むしろ詩人と若い画家がよく顔を合わせ、言葉を交わしたのは、マラルメの別荘のあるヴァルヴァンにおいてだった。
ヴュイヤールは、このころ友人のボナール、ルーセル、ドニなどとともに、ポール・フォールの主催する「芸術劇場」や、リュニエ=ポーの芝居のために舞台背景を描き、プログラムを制作した。そしてそのかたわら、1891年からは、象徴派の雑誌「白色評論 La Revue Blanche」の口絵を描いたりもした。マラルメは若い文学者や画家、音楽家たちの間では、象徴派の総帥として尊敬を集めており、難解ではあるがはなはだ斬新な詩は魅力に溢れたものだった。直接謦咳に接し得た人びとには、その機知に富む人柄がたまらない魅力だった。
ヴュイヤールがマラルメを深く知ることになったのには、一つの切っ掛けがあった。ヴュイヤールは、「白色評論」の創設者アレクサンドルとタデのナタンソン兄弟と昵懇の間柄で、夏になると二人を別荘に訪ねては、よくその屋根裏部屋に寝泊りした。このナタンソン兄弟の別荘というのが、ヴァルヴァンのマラルメの家の近くにあったのである。
ナタンソンの家は、雑誌の寄稿者などの若い人たちのいわば溜り場で、彼らはそこで落ち合うと、よく隣家の詩人を訪問した。ヴュイヤールがヴァルヴァンで初めてマラルメを訪れたのも、雑誌仲間のエミール・ブルジェ、カミーユ・モークレール、コリュスなどと同道してのことであった。
ヴュイヤールはこうした訪問の思い出に、マラルメの家を描いた4点の作品を残している。1896年に制作された《ヴァルヴァンのマラルメの家》と題された作品は、庭を囲む石積みの囲いと門、それに庭に植えられた数本の喬木ごしに、慎ましやかな田舎家を描いたもので、他の1点は赤レンガを積んだ門と鉄柵ごしに石造りの家を描いている。残りの2点もほぼ同様の構図の作品である。


ヴュイヤールがマラルメの思い出をどれほど大切にしていたかを物語る逸話が残されている。親友のルーセルは、ヴュイヤールの死後、「ヴュイヤールに、ステファヌ・マラルメ」と献辞が書き込まれた散文集『ディヴァガシオン』一冊を遺贈されたが、ページのあいだに鉛筆書きのクロッキーが数枚はさまれているのを見つけた。クロッキーの一枚は、晴れやかな微笑を湛えた詩人の見なれた顔だが、もう一枚には、うつむいてぼさぼさの眉をし、鼻孔を大きく膨らませたマラルメが描かれていた。一体、この病者のようなマラルメをヴュイヤールは、いつ、どこで描いたのだろうか。
ヴュイヤールの伝記を書いたジャック・サルモンは、画家が『ディヴァガシオン』を片時も手離さず、折にふれてその一節を仲間に読んで聞かせたと伝えている。
若い画家にとって、マラルメの革新的な詩論の一つ一つが、強い刺激となって胸をうったにちがいない。新しい絵画を創造したいと願う者にとって『ディヴァガシオン』一冊はまたとない拠り所となった。ヴュイヤールが勇気づけられたのは、たとえば次のような一節である。
「現代人は想像上のものを軽蔑する。その代わり、諸芸術にたけている彼は、芸術の一つ一つが彼を引きこんで、幻覚の特別に激しい力が爆発するまで待つ。そのとき初めて現代人は虚構を信ずることに同意するのだ。」
この一節を含み『リヒャルト・ワーグナー あるフランス詩人の夢想』も、当然『ディヴァガシオン』の中に採録されていた。マラルメの言葉は控え目だが確信に充ちており、「創造すること」の何たるか、その現代的な意味を語っていた。芸術の存在理由を確信をもって語るマラルメの言葉は、若い芸術家の魂を鼓舞した。
# by monsieurk | 2012-05-27 10:54 | 美術 | Trackback | Comments(0)



その彼がもっとも完成度が高いとした作品が、『予告された殺人の記録』(Crónica de una muerte anunciada, 1981年)である。よそ者の青年バヤルド・サン・ロマンが、田舎町に住む娘のアンヘラ・ビカリオを見初めて結婚する。だが彼女が処女ではないことがわかって実家にもどされる。母親には殴られ、双子の兄たちからは相手が誰かと問い詰められて、彼女はサンティアゴ・ナサールだと白状する。そのときから双子の兄弟はサンティアゴをつけねらい、町中に自分たちの意図を吹聴する。そして最後には予告どおりにサンティアゴがある朝、自分の家の戸口で刺殺される。これがルポルタージュ風の物語の筋である。

同じ工房でつくられた作品は、カンヴァスにしても顔料にしても同じものを使っている場合が多い。だがX線や中性子放射写真は、顔料分析に関してさらなる事実を明らかにしたのである。ボストン美術館所蔵の《アトリエにいる風景》(1628年)では、一人で大きなカンヴァスの前に立つ画家自身が描かれている。


