男と女――第六部(29)

 十二月四日、中国では蒋介石が張学良たちに監禁される西安事件が起きた。張学良は蒋介石に内戦の停止と一致協力して抗日に当たることを要求した。事変を聞いた共産党の周恩来は急遽西安を訪れて、蒋介石、張学良と話し合い、その仲介で蒋介石は要求を認めて解放された。これをきっかけにして国共の内戦は停止し、抗日民族統一戦線が結成されることになった。
 そして十二月中旬、三千代が自宅で雑誌「輝ク」の忘年会でやる芝居の稽古を、望月百合子、詩人の英美子や息子の乾たちとやっているところへ、突然、上海で知り合った郁達夫が訪ねて来た。印刷機を東京で調達するというのが表向きの口実だったが、国共の和解の動きをうけて、日本に滞在中の郭沫若を故国に連れ帰りに来たのである。
 金子は近くの中華料理店から、チャーシューや老酒を買ってきて遠来の客をもてなした。そしてこのときに、出版予定の詩集『鮫』の装幀に用いるつもりで、「鮫」の字を郁達夫に揮毫してもらった。
 後日、神田の「大雅楼」で歓迎会が催された。出席者は、郁達夫、郭沫若と二人の息子、谷川徹三夫妻、古谷綱武、金子光晴と三千代、乾が出席した。会食の途中で郭沫若が調理場に入って行ったあと、料理の味が急に美味くなったという逸話が伝えられている。彼が気合いを入れた結果だった。会は和気藹々としたもので、郁達夫と郭沫若は最後には歌まで披露した。
 郁達夫が来る直前、武田麟太郎がはじめた「人民文庫」の編集者である本庄陸男が余丁町の家を訪ねてきて、詩集『鮫』の出版を促し、金子もそれを承諾したところであった。「鮫」の字の揮毫の裏にはこうした事情があった。金子が武田や本庄と親しくなったのは、三千代の関係ではなく、義妹はるの夫となった菊地克己の仲介であった。菊地は秘密の共産党員だったが、仲間が検挙されたうえ拷問されるのを見て転向していた。ときどき警察が通りがかりのふりを」して様子を見に来たりするので、彼は普段用心深くしていたが、酒が入るとひどい扱いを受けた警察への鬱憤を口にした。金子は人民文庫から出版された彼の著書『花霧荘』のために、挿画を描いたことがあった。
 あるとき金子の家で、菊池と正岡容が顔をあわせたことがあった。生活環境も趣味もまったく違う二人が、戦争嫌悪の点では話しが一致した。菊池は、この戦争が長引けば、必ず協賛革命が来る」といい、正岡は「なにがなんでも共産革命だけは来てほしくないが、戦争はいやだ」といった。金子が戦争についての不満を話し合った相手は山之口莫だった。
一九三七年(昭和十二年)六月、近衛文麿の内閣が成立。七月七日の深夜、盧溝橋で日中両軍が衝突する日華事変がおこり、日本と中国は本格的な戦争状態に突入した。
 十七日には蒋介石が廬山で周恩来と会談し、陜甘寧辺区政府を承認して対日抗戦のための総動員令を下した。それに対して、日本軍は七月二十八日に華北で総攻撃を開始した。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-12-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(28)

 金子と三千代は七月三十日、小学三年生になった乾の夏休みを利用して、親子三人で富士登山に出かけた。五合目までは馬喰がひく子馬で登り、そこで一泊。金子は高所恐怖症だったが、乾のために翌日は夜が明けきらぬうちに、山頂をめざす登山者の行列に加わって登った。
 「雲の切れ目からあがってくる太陽の壮観を観ようというわけだ。人々は、それを御来迎と呼び、瞬間、讃仰の声を放ち、白衣の行者たちが、数珠をおしもんで経文を唱えたりしているあいだで紅肌に白い毛ずねを股まで露わに出した外人の娘や、日本の学生たちが、しきりにカメラをむけて、カチカチやっていた。大きな自然をみたりすると、人間の感性はその威圧を受け、たようろうとするおもいを抱くものらしいが、なにものにもじぶんを捧げるほどの敬虔な感情をもったおぼえのない僕の眼には、それはただ大仕掛けなキネオラマとした映らなかったが、それでも、心を洗われるような清涼な空気の味と、少なくとも窮乏な日常生活の煩いをふり落して、遠くに来ているなという、意地悪な、さばさばとした報復感だけは味わうことができた。」(『鳥は巣に』)
 このあと三人は火口を一周して五合目まで下山し、そこからは自動車で山中湖にあるホテルに泊まった。さらに富士五湖をめぐり、浅間温泉、上高地、中湯温泉、五千尺、を見てまわった。
 その先、槍ケ岳にも登るはずだったが、金子は腰痛で動けなくなって宿に残り、三千代と乾の二人だけが槍ケ岳の麓まで行った。あとで訊くと、三千代は雪渓にそった道を、乾の手をひいてハイヒールで登ったのだという。専門家によれば、雪渓の下には雪解け水が流れていて、その上を街を歩くのと同じような姿で登るのは無謀そのものだった。だがこれも向こう見ずの連続の三千代らしいやり方だった。こうして金子は腰の痛みをかばいながら、余丁町の家に帰り着いた。
 「生涯のたのしかった頃は、あの時が頂上だったかもしれない。負債も片づいたし、一銭の貯金もないながら、入ってくる金も多少あり、金があれば、遊び場に出かけて、みんなでそれを手ばたきにした。まるで、これまでの意地ばらしのような心境からであった。」(同)
 三千代は相変わらず武田麟太郎の許に出入りしていて、ときどき妹はるを連れて行ったが、彼女は武田の家でよく顔を合せる国民新聞社に勤める菊地克己と結婚することになっり、十月十二日に、ささやかな披露宴が行われて金子も出席した。
 十一月二十五日、国際連盟から脱退して国際的に孤立化を深めるの日本は、ヒトラーのドイツとの間で日独防共協定を調印し、国内ではそれを祝う祝賀会が盛大にもよおされた。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-11-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(27)

 金子と三千代が帰国して以降、中国大陸での戦争拡大につれて、日本社会の右傾化が進んだ。
 一九三五年(昭和十年)二月には、菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を批判し、美濃部はこれに反論した。しかし首相の岡田啓介が議会で天皇機関説に反対を表明し、美濃部達吉は九月に貴族院議員を辞職した。そして政府の思想取り締まりは一段と強化された。この年の三月には、日本共産党幹部が検挙され、共産党中央委員会は壊滅。機関誌「赤旗」は終刊に追い込まれた。
 武田麟太郎はかねて雑誌「文学界」に名前を連ねており、同人の会合が十月に行われ、その席で小林秀雄が再編を主張した。
 それは先輩作家たちに遠慮してもらって、横光利一や川端康成以下の若い者たちで雑誌をやろうというものであった。そして小林が同人の間をまわって話し合いの結果、里見弴、宇野浩二、豊島与志雄、広津和郎が身を引き、代わりに村山知義、森山啓、島木健作、舟橋聖一、阿部知二、河上徹太郎の六人が加わって、同人は全部で十三人となった。編集は小林秀雄と十一月に出所した林房雄がやることになり、武田はなんとなくはみ出した形だった。
 そうしたとき林房雄がプロレタリア作家を再結集しようといい出し、武田も賛成して発起人になった。創立総会は官憲の目が厳しい折から、入会勧誘状を出し、その返事をもって総会にかえた。締切の十二月十九日には、九十五人から参加の返事が集まった。
 年が明けた一九三六年(昭和十一年)二月二十六日、陸軍皇道派のの青年将校が千四百名あまりの兵を率いて挙兵し、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎たちが殺害し、政治の中枢である永田町一帯を占拠して、国家改造を要求した。いわゆる二・二六事件である。前夜から大雪が降ったこの日、金子は自宅にいた。
 「前夜来の雪の寒い朝、余丁町の表口から国木田が、蒼ざめた顔をしてぶるぶるふるえながらやってきて、
 「たいへんだよ光(み)っちゃん」
といって、軍人たちがクーデターをはじめて、内閣の閣僚は皆殺されたと報道した。二・二六事件だった。僕も来るものが来た、という感じがした。たしか、その頃は、余丁町一〇九番地を引きはらって、表通りの電車道に添うた、一二四番地の貸家にうつっていたと記憶している。その家は、やはり五坪たらずの庭があり、柘榴のかわりに、すばらしく立派な柘植の木が一本植っていた。国木田は、左翼の出版の秘密図書を一抱えもってきた。僕は、鍬をふるって、その柘榴の木の根もとの雪をおこし、できるだけふかく地面を掘って、その本を悉皆埋めた。国木田の身のうえに迫ってくる危険を、我身のうえにも惻々と感じた。」(『詩人』)
 時勢は緊迫する一方だったが、武田麟太郎たちが主宰する雑誌「人民文庫」は、三月に創刊号を出した。その編集後記にはこうあった。
 「いつからか、こんな雑誌を出してみようと云ふ気運が私たち仲間に湧いた。云はば、今のところ徒党的な雑誌であるが、それでいいと思つてゐる、外から原稿は貰はず、仲間だけのですました、後々までこの調子でやつて行くかどうかは未だ解らない、唯、秋田、江口、青野氏には社会主義文学の三長老と云ふ意味で、若輩の私たちを助けて、勝手気気儘なところを、毎月何頁か書いて頂くことにした。」
 雑誌の費用はすべて武田が持った。参加者は「日暦」を主宰していた高見順や、新田潤、渋川驍、円地文子など旧日本プロレタリア作家同盟の人たちが多く、武田を師と慕う大谷藤子や谷田津世子も同人となった。皆が次第に発表の場を失いつつあった。三千代も武田の行動力に強く魅かれた。
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-11-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(26)

 金子はおっとせいのなかでただ一頭の、「おっとせいのきらいなおっとせい」として自分を描いている。しかしその「おいら」も、「やっぱりおっとせいはおっとせい」で、「ただ / 「むこうむきになっている / おつとせい」にすぎないと痛烈に自己を批判している。彼もまた俗衆のひとりであることを免れてはいない。
 金子の詩は、この時代にあって明らかに異質であった。
 「当時の僕には、詩の傑作はあまり問題ではなかった。僕は、当時の詩の周辺に対する諸疑念をたしかめ、じぶんの認識をしっかり心にきざみつけるため、納得のゆくためにだけ、詩を書こうと心組みした。そういう意味で、僕は、過去の僕の詩の書きかたと全くちがった方法で詩を書き出した。いずれは僕の人生の一つの総決算をして、プラスとマイナスをはっきりさせ、じぶんじしんにつきつけるためであった。」(『詩人』)
 先にも記したように、「おっとせい」を含めた詩集は、一九三四年(昭和九年)三月頃には、古谷綱武たちの「鷭社」から出版することが決まっていた。だがその矢先に「鷭社」が資金難からつぶれて、計画は頓挫してしまった。
 金子は『詩人』で、「僕は、しかたがなしに詩を書いた。詩集にするという話が、『詩原』をやっていた遠地輝武君からあって、まとめにかかった。遠地の方の話が駄目になってから素人の本屋さんが、印刷機械をもっているので、詩集『鮫』を、四号活字で豪華なものにする目的で、紙型までとった。武田麟太郎のやっていた『人民文庫』社で出版するという話が最後にあった」と書いている。
 この記述のように、「鮫」の一篇だけを、遠藤輝武が詩集として出したいといってきたが、これは実現しなかった。次いで素人で出版社をやっている秋山龍三が印刷機をもっているので、ここから出版しようという話が持ち上がった。このときは四号活字で組んだ豪華なゲラ刷まででき、紙型までとったが、資金と緊迫する時勢を考慮した結果、出版されなかったの思われる。
 こうして詩集は出版されずに終わったが、ゲラ刷を読んだ赤松月船が、雑誌「日本詩」に批評を書いた。これは詩の大部分にあたる百三十行を引用したもので、批評というよりは紹介に終始したものであった。こうして実際の詩集が刊行される一年前に、批評が出るという珍妙な事態が起ったが、赤松の引用と、のちの人民社版を比べてみると、金子がこの間に、「鮫」を推敲修正していることが分かり興味深い。詩集『鮫』はこうした難産の末、一九三七年(昭和十二年)八月に「人民社」から出版されることになる。




 
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-11-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(25)

 おっとせい

そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はな穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらいい、
おゝ、憂愁よ。
・・・・・・

いん気な弾力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。
・・・・・・

そいつら。俗衆といふやつら。
・・・・・・

おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷
 塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこし
 も気づかずにゐた。
みだりがなしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍ひまはり、
・・・・・文学などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群集の
 なかで、
侮蔑しきったそぶりで、
たゞひとり、
反対をむいてすましているやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいで
たゞ
「むこうむきになってる
おっとせい。」
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インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by monsieurk | 2016-11-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)