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ムッシュKの日々の便り

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Memento mori

 「雨が降ると、人が死ぬのです」――かつてNHKの「現代の映像」という番組で、先輩のディレクターが書いたコメントである。ノアの洪水を思わせるここ数日の雨で多くの人が亡くなった。Memento mori(死を想え)。今年ほど死について考えさせられたことはなかった。だが、それはあくまでも他人の死であって、自分の死についてはなかなか考えることができない。
 モンテーニュは“Les Essais”の第二十章で、こんなことを述べている。Les Essaisについては、2009年にナンシー大学の名誉教授アンドレ・ランリ(André Lanly)による優れた現代フランス語訳が刊行されているから(Quarto Gallimard)、それによって訳してみる(既刊の多種の邦訳を参考にしつつ)。
 第二十章は、「哲学をするとは死ぬことを学ぶこと」という表題である。
 キケロは、哲学をするとは死に備えることにほかならないと、言った。これはつまり、研究や瞑想が、私たちの魂を私たちの外に引き出し、肉体と離して働かせるからで、いわば死の訓練、死の模倣のようなものだからである。あるいは、世の中のあらゆる知恵と理論が、つまるところ、私たちに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着するからである。(中略)
 
 われわれは皆、同じ場所に押しやられる。運命の壺が振られ、遅かれ早かれ、そこから籤が出て、永遠の死に向う舟に乗せられるのだ。(ホラティウス)

 したがって、もし死が私たちを脅かすならば、それは絶え間ない苦痛の種となり、どうやってもそれを和らげることは出来ない。死はどこからでも私たちにやって来る。私たちが、あたかも怪しい国にでもいるように、絶えずきょろきょろするのは当たり前である。『それはタンタロスの厳のように常に私たちの頭上にぶら下がっている』(キケロ)わが国の高等法院はしばしば罪人を犯行現場に送り返して処刑する。その道中に、彼らを立派な家に泊めて、好きなだけご馳走をやってみてほしい。

 彼らには、シケリアの珍味佳肴も甘い味を失うだろうし、鳥の声、竪琴の音も眠りをさそわないだろう。(ホラティウス)

 あなたたちはそれを楽しむことが出来ると思うか。また、その旅の究極の意図が絶えず目の前にちらついて、これらすべての楽しみの味をぶちこわし、味気ないものにするとは思わないか。
 死の直前の饗応は厚意なのか、それともさらなる苦痛をあたえようとの魂胆なのか。モンテーニュは、私たちの競争の決勝点は死であり、死こそが私たちが目指す避けられないゴールだという。そしてこうした状況では身震いすることなしに一歩も前へ進むことができないとするなら、私たち凡百がこれを逃れる方法はたった一つ、死を考えないことだという。
 ここでもう一つ思い出すのが、イギリスの作家・評論家ジョージ・オーウェル(本名、エリック・ブレア)のA Hanging(絞首刑)という短いエッセイである。いま原著が見当たらないので記憶で書くが、オーウェルが植民地ビルマのインド警察に勤務していたある日、一人のヒンズー教徒の絞首刑にたちあったときのことを綴ったものである。
 独房から引き出された囚人は、両側を銃をもったインド人衛兵にはさまれるようにして、刑場まで引き立てられて行く。その日の朝にはスコールがあり、死刑場までの道には所々に水溜りができている。腕を縛られた囚人は、インド人特有の膝を曲げたままの足どりで進んで行く。オーウェルはイギリス人の上官として、前を行く茶色い背中をみるともなく見ながら後をついていく。
 そのとき予期せぬことが起る。両肩を衛兵につかまれている囚人が、途中の水溜りをかるく脇に避けたのである。この瞬間、オーウェルは人生の盛りにある一人の若者の命を絶つということの深い意味を悟り、自分たちがしようとしていることの誤りに気づいたというのである。囚人は歩きながら、自分と同じように見て、聞いて、感じて、水溜りをさえ判別した。いま世界を理解している一人の人間、一つの精神があと二分後には突然消えてしまう――。
 このエッセイはエリック・ブレアの本名で書かれたもので、オーウェルの原点をよくあらわしている。
 ただ、いま私が惹かれるのは、死刑を執行しようとしてその不条理に気づいたオーウェルよりも、囚人のとった行動の方である。死ぬことが確実なのに、足が汚れることを思って、ひょいと水溜りを避ける人間の心の動き。人間は二分後に迫る自らの死さえ本当には想像できないのか。想像しないように創られているのか。これは救いなのか。恩寵なのか。
 モンテーニュが引用しているホラティウスの一節――
 もし自分のお目でたさかげんに満足して、ずっとそれに気づかずにいることができるなら、賢いために苛々しているよりも狂人か馬鹿でいる方がましだ。

by monsieurk | 2011-09-05 20:39 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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