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ムッシュKの日々の便り

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ハノイ再訪

 ヴェトナムのハノイを35年ぶりに訪れたのは2008年12月のことである。再訪はこれから書こうとしている小牧近江の伝記の下調べのためであった。
 小牧近江、本名、近江谷駉(おおみや・こまき)は、暁星中学生のときに代議士だった父に連れられてフランスにわたり、第一次大戦後に起った反戦運動の影響を強く受けて帰国、故郷である秋田・土崎で雑誌「種蒔く人」を創刊した。この雑誌こそ日本におけるプロレタリア運動の魁となったものである。小牧はやがて第二次大戦中にヴェトナムのハノイへ渡り、フランスからの独立を願うヴェトナム人たちの運動を陰で支援した。
 
 NHK外信部にいた1973年1月11日、北ヴェトナム政府の招請で、ラオスのビエンチャン経由で訪れたのが最初だった。アメリカ軍による北爆が続いていた時代である。ハノイに着いてすぐに状況説明(ブリーフィング)があり、最初に言われたのは、もし空襲警報のサイレンが鳴ったら、すぐに防空壕に入れということだった。宿舎は外国人が泊まれる唯一のホテル「トンニャット(統一という意味)」で、これは19世紀からヴェトナムを支配していたフランスが建てたホテル・メトロポリタンで、それをずっと使ってきたものだった。シャワーの湯も満足に出ない状態で、防空壕は中庭に掘られていた。
 ヴェトナム戦争の経過を年表風におさらいすれば、1954年5月、ディエンビエンフーの降伏でフランスがヴェトナムから撤退したあと、代わってアメリカがコミットしてヴェトナム戦争は本格化する。1965年、アメリカ軍の北爆開始。1968年1月の北ヴェトナム軍と解放戦線による南部主要都市への一斉攻撃、いわゆる「テト攻勢」をへてヴェトナム戦争は泥沼化し、この間、世界のジャーナリズムはヴェトナムでの戦闘の現実を取材し発信し続けた。
 ヴェトナム戦争は「前線なき戦場」といわれて取材は危険をきわめたが、こうした取材によって、世論はヴェトナムで起こっていることを正確に知るようになった。いま世界中で起こる事件や政変は瞬時に伝わる。これは衛星を経由した情報通信がもたらした結果で、メディアの力がある意味で世界を動かすようになったのは、ヴェトナム戦争報道がきっかけであったよう思う。
 私たちNHKの取材陣に、北ヴェトナム政府の入国ヴィザが出されたのが1973年1月10日。ラオスにあった北ヴェトナム大使館でそれを受け取って、翌11日にハノイに入り、凡そ半月にわたりハノイや北部の要衝ハイフォンを取材することができた。
 取材にあたっては、どこへ行くにも北ヴェトナム対外文化連絡協議会の人と通訳が一緒で、取材を申請した項目以外に、ヴェトナム側が取材させたいところにも案内された。その意味で取材は相手方のコントロール下で行われたのが実情だったが、それでも戦時下の北ヴェトナムの民衆にじかに触れる取材はまたとない機会だった。
 このときの北ヴェトナムでは、エレベーターのある建物は2つしかなく、そのうち1つの建物のエレベーターは故障していた。ニクソン大統領は、「北ヴェトナムを爆撃で石器時代にかえす」と広言したが、北ヴェトナムの実態は農村主体の社会であり、彼らはその強みを十分に発揮してゲリラ戦を戦っていたのである。
 取材を進めて北部の都市ハイフォンに滞在していた1月23日夕刻、対外文化連絡協議会の人から急遽ハノイに戻ることになったと言われ、その夜遅くハノイにもどった。急な予定変更の理由は告げられなかった。
 翌24日の朝は濃い朝霧がたちこめていた。勢ぞろいした私たち(NHKの他、「赤旗」とフランスの通信社「AFP」の常駐記者、私たちと一緒にハノイ入りしたワシントン・ポスト紙のマレー・マーダー外報部長)が、幾台かの乗用車で連れて行かれたのは国家主席(大統領)官邸だった。建物は古びていたが、入り口の石段には赤い絨毯が敷かれ、上の部屋からは煌々と明かりが洩れていた。私たちは制止を振り切って、カメラマンが階段の下からカメラをまわしながら部屋に入ると、そこは大広間で、アメリカとの戦争を戦い抜いた北ヴェトナムの首脳がすべて顔を揃えていたのである。
 ファン・バンドン首相、ホー・チミン亡き後の理論的指導者といわれたレ・ジュアン第一書記、ジャングル戦で散々アメリカ軍を悩まし、「赤いナポレオン」と渾名されたボー・グエン・ザップ将軍たちが、私たち取材陣を笑顔で迎えてくれた。彼らは手に手にシャンパン・グラスを持ち、私たちにもすぐにグラスが配られた。
 「じつはパリでアメリカとの間で停戦協定が調印されることになった。それを皆さんと一緒に祝いたいと思って来ていただいたのだ。」これが最初のスピーチだった。その後は要人たちが私たちの中に入ってきて乾杯し、誰彼となく握手をする光景が繰り広げられた。カメラマンは建物に入ったときから一部始終を撮影していた。
 私がボー・グエン・ザップ将軍と握手をしていると、ファン・バンドン首相が近寄ってきて、耳元で「Ce qui finit bien, c’est bien.(終わりよければ、すべてよし)」と流暢なフランス語で囁いて、にっこり笑った。
 当時のハノイでは街のいたるところの街路樹に拡声器がくくりつけられており、午前10時に重大発表があると知らされていた人びとが、木の下に集まっていた。
 やがて拡声器から、「パリで行われていた会談で、レ・ドク・ト代表とアメリカのキッシンジャー博士が和平協定に調印した」というアナウンスが流れた。それを聞いていた老人、菅笠の農民、兵士、アオザイ姿の女性など、集まっていた人びとの顔に涙が伝った。そして誰いうとなく、「ホアビ・ゾイ(平和がきた)」という言葉が、さざ波のように聞こえてきた。
 私たちはこうした光景をすべて取材したが、問題はこれをいかに早く日本へ届けるかである。幸い翌日の午前中に、ハノイからラオスのビエンチャンまで飛ぶソビエト・アエロフロートの定期便があり、そこから先タイのバンコクまではチャーター便を確保して、夕方バンコクに着いた。すぐフィルムを現像し、衛星回線を使って東京のNHKに送り届けたのは1月25日の日本時間夜11時。こうしてハノイの光景を深夜の最終ニュースに滑り込ませることができたのだった。
 このときのハノイ取材では、いくつも発見があった。フランスの統治が終わって30年以上すぎたこのときでも、学校では子どもたちが見事なフランス習字で文字や数字を書いていた。
 暑いヴェトナムではシエスタ(昼寝)の習慣があり、これは戦争の間も守られていた。昼食が終わると家の窓には簾などの覆いがかけられ、みなが睡眠をとる。これは戦場でも同じで、シエスタの間は戦火がやんだという。
 ある日、現地の新聞にこんな記事が掲載された。兵士となって戦闘に参加した北ヴェトナムの数学の教師が銃後の恋人にあてた手紙を、南ヴェトナム軍兵士が戦場で拾い、それが北の恋人のもとに送られてきたというのである。手紙には、「ぼくはいま戦場にいる。そして君のことを思う。ぼくが祖国のために戦死したら、どうか友人の何某と結婚して幸せになってほしい」と書かれていた。手紙の主は恋人のもとには帰ってこなかったという。 
 またある日、宿泊先の「トンニャット」にアエロフロートのクルーが、大量の桃の花とともに到着した。聞くと、旧正月を祝うのに欠かせない桃の花は、南ヴェトナムから送られたものだということだった。烈しい戦火を交えながらも、北と南の交流は途切れることはなかったのである。
 だがヴェトナム戦争はこのときの和平協定では終結せず、結局、1975年4月に北ヴェトナム軍が南のサイゴンに無血入城してようやく終りを告げたのだった。

 そのときから35年、ハノイの変貌ぶりは劇的だった。懐かしい「トンニャット」は元の名前の「メトロポリタン」となり、豪華なホテルに生まれ変わっていた。外務省も場所こそ同じところにあったが、建物は一新されていた。ただフランスが統治していた時代の建物や街並みはそのままで、調査の目的だった小牧近江の自宅があった Boulevard Carnotは、通りの名前がPhan Dinh Phungと変っていたが、同じ78番地に瀟洒な建物を見つけることができた。彼が勤めていた「印度支那産業」や「日本文化会館」も70年前の場所に現存していた。「日本文化会館」の入っていた建物は、いまヴェトナム教育省になっている。
 小牧近江がいた当時の地図や新聞などを国立図書館で探したが、フランス語を話す若い女性の司書の協力で貴重な資料の数々を探し出すことができた。最後に司書の女性は、資料を保存するのに、「コンピュータ用のメモリー、USBを持ってきたか」と訊ねてきた。持っていないと答えると、すぐにCD―ROMに焼いて提供してくれた。30数年前の記憶に引きずられて、コンピュータの普及に思い至らなかった自分を恥じた。
by monsieurk | 2011-10-28 20:29 | 取材体験
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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