ムッシュKの日々の便り

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ベルリンの壁崩壊(2)

 ことの発端は、ハンガリーでの環境破壊反対の小さな動きだった。
 ドナウ川はスロバキアから国境をこえてハンガリーへと流れるが、両国はドナウ川の航路の改修、水力発電所とダムの建設について協定を交わした。スロバキアは上流のカブチコヴォに、ハンガリーは下流のナジマロシュにダムを建設する計画で、工事は一般には知らされないままひそかに進められた。だが1980年になって事実を知ったジャーナリストのヤーノス・バルガが、雑誌「ブバール」に、ダム建設がドナウ川の破壊につながるとの警告記事を発表し、友人の映画監督が厳重に警備された工事現場を撮影することに成功した。やがてこれがダム建設を中止させ、さらには共産主義政権を倒壊に追い込む運動のスタートとなったのである。
 私たちの取材に対して、ヤーノスはダム建設に反対した理由を、「スロバキアに出来る予定のダムによって、ドナウ川がハンガリーへ流れ込む地帯にひろがる河川沖積湿地帯の地下水の水位低下をまねき、生態系に悪影響をあたえることが分かった。さらにこれによって15万ヘクタールの森が水に沈み、川の流れが遅くなるため、大量の沈殿物が発生して水源として使えなくなることが分かったからだ」と語った。
 ドナウ川はブダペスト市民をはじめ500万人の飲み水をまかなってきた。しかし「青きドナウ」と讃えられた川は褐色に濁り、この頃になると水道の水源を遠く離れた山地に求めざるをえない状態となっていた。
 ヤーノスの論文が雑誌に載ると露骨な弾圧が加えられた。素人の調査に基づくもので科学的根拠を欠くとして、以後論文の掲載は妨害され、ヤーノスには監視がついた。しかし彼はあきらめなかった。ジャーナリストの職を辞し、環境問題の勉強を始めるかたわら、1984年2月に、「ドナウ・サークル」という団体をつくり、地下出版物を発行して支持者を増やしていった。
 ベルリンの壁が崩壊する以前、東欧諸国の環境破壊はどこも深刻な状態だった。しかし共産主義政権下では、西側に追いつき追い越せのスローガンのもとに、それは無視されていた。
 ベルリンの壁が開かれてしばらくすると、西ベルリンの空気が臭くなった。原因は青い排気ガスをまきちらして走りまわる排気量595CCのプラスチック製のトラバントなど東ドイツ製の車だった。排気ガス浄化装置をつけていない上、ガソリンの質が劣悪で、空気はたちまち汚染されてしまったのである。
 チェコの首都プラハから北へ80キロ、東ドイツとの国境に近いモストは東側でもっとも汚染された街といわれた。街の運命が一変したのは、近くから褐炭の層が発見されたときからである。これがチェコ最大のエネルギー源とされ、街の近くには巨大な露天掘りがいたるところで行われた。褐炭は石炭のうちでも炭化度が低く大量に掘り出す必要があり、しかも層が薄いために採掘場はどんどん移動する。その度に畑や森がつぶされた。ついに露天掘りの現場がモスト市に迫ると、市街そのものが3万5千人の住民もろとも移転することになった。新たにつくられたモスト市は人口が7万人に増え、周辺に褐炭を利用する火力発電所、重化学工業の施設が続々建設され生産が競われた。その結果がすさまじいばかりの大気汚染である。北ボヘミヤ地方だけで年間凡そ100万トンの二酸化炭素が排出された。
 モストからさらに北へ20キロほど行った森林地帯では、木々が白骨のように白く立ち枯れていた。向いの山でも背後の山でも、枯死したモミの木が幽霊のように立っている光景は異様だった。しかも白骨化した森は延々百数十キロにわたって続いていた。酸性雨の被害なのは明らかだった。
 モミは「ボヘミヤの女王」と呼ばれ、名高いチェコ製ヴァイオリンの貴重な材料だが、こうした被害が材料の確保に影響をあたえているということだった。これらの東側の環境破壊は壁崩壊後の取材で分かったことで、「文藝春秋」1990年9月号に、「『壁のむこうの』環境破壊」と題して書いた通りである。
 話をドナウ川の環境汚染に戻せば、ヤーノスたちは「ドナウ・サークル」という環境保護団体を立ち上げて、運動は次第に市民の関心を呼ぶようになった。彼らはダム建設中止を政府に要望し、ドナウ川と恐竜の名前をもじった「ドナザウルス」と題した活動の記録をビデオにした。これは共産主義政権下では公開を禁じられたが、やがてビデオ・レンタル店にも置かれるようになった。
 最初は百人規模だったデモが、千人、1万人と集まるようになり、1988年夏には10万人をこす人たちが、「ダム建設の是非を国民投票に」と叫んで行進した。これは1956年の「ハンガリー動乱」以来最大のデモとなった。そし10月、盛り上がる世論を押さえきれずに、国会でダム建設の是非を問う議論がおこなわれ、投票に際しては19人が反対、31人が棄権した。政府の政策には満場一致の賛成が原則の国会で公然と反対の声があがったことは体制側に強い衝撃をあたえた。
 ハンガリーでは、東ヨーロッパ経済相互援助機構(COMECON)の国以外に、西側との貿易が盛んに行われて市民は比較的豊かな生活を送っていた。共産主義政権下でもブダペストの幾つかの有名レストランでは、白手袋をしたボーイが客たちにサービスし、自慢のトカイ・ワインを味わうことができた。
 改革派が実権をにぎった社会主義労働者党は、共産主義とは相いれない株式市場を開設し、個人企業の創設を促進する新たな法律を制定し、固定価格を廃止して自由価格の導入を奨励した。こうした一連の経済改革が政治にも影響をあたえずにはおかなかった。
 1989年10月、ハンガリー社会主義労働者党は党名を「ハンガリー社会党」と改め、党内では「複数政党制」を認めるかどうかが議論され、東側でははじめてこれを認める決定がなされた。ただ新たに生まれる政党を公式に「政党」と認めることは時期尚早だった。それは一党独裁というにマルクス・レーニン主義の大原則に違反することになり、近隣諸国の反発や反対が目にみえていた。そこで彼らは新党の名前に一工夫が加えた。新党を、「・・・クラブ」、「・・・運動」と呼ぶことにしたのである。
 こうして市民の間から先ず「民主フォーラム」というグループが立ち上げられ、最初の政治団体が結成された。これには環境保護の運動を担ってきた人など多くの知識人が参加した。街のカフェでは誰もが「民主主義」について公然と議論していた。
 これには前年11月に、改革派のネーメト・ミクローシュが首相に任命されたことが大きくかかわっていた。ネーメトはこのとき40歳。アメリカのハーヴァード経営学大学院(ビジネス・スクール)に1年間留学した経済の専門家で、穏やかな見かけの陰に信念と粘り強さを秘めていた。
 ネーメトと二人三脚を組んだポジュガイ・イムレは、対照的に思ったことを口にする人物で、ブダペスト大学で政治社会学を教え、テレビに出演して堂々の議論を展開した。政権の中枢に入って政治改革を担当することになったポジュガイは、「共産主義を変えるときだ」という持論を隠さなかった。一方で党書記長のカーロイ・グロースは、ネーメトやポジュガイが主導する急激な改革には慎重な態度を崩さなかった。
 共産主義に終止符を打つのはそれほど簡単なことではなかった。ハンガリーは1958年の苦い経験に悩まされ続けてきた。その年、自由をもとめる市民が武装蜂起して共産主義政権の打倒をはかった。そして武装蜂起を鎮圧するために送り込まれたソ連軍の戦車を相手に、ブダペストで数週間にわたる激しい市街戦が繰り広げられた。この動乱で2万5000人が死亡し、20万人が国外に亡命した。当時のハンガリーの政権も民族主義の立場から蜂起した民衆を弾圧するために手を貸したのである。
 ネーメトやポジュガイにとって、この轍を踏まずに改革を実現するには、なによりもゴルバチョフの了解をとる必要があった。彼らは1988年の暮れから89年の初めにかけて、外部の協力を得ることなく、できるだけ目立たないように黙々と変革への準備を進めた。その上でネーメトはゴルバチョフに手紙を送り、3月第1週にモスクワで秘密に会談する約束をとりつけた。ネーメトがこの時期を望んだのは、3月後半にカーロイ書記長が同じくモスクワを訪問することになっていて、それ以前にゴルバチョフの意向をただす必要があったからである。
 最初20分の予定だった会談は3時間におよんだ。ネーメトの回想によれば、彼が考えているハンガリーの民主化計画について話すと、不意をうたれたゴルバチョフは、動揺し怒りだしたという。総選挙の実施については、それは社会主義に対して一撃を加えようとするものであり、「そんなことをしたら、正しい社会を創造するという党の権利を踏みにじることになる。その判断を一般大衆に委ねるなんて・・・そんな成り行き任せは駄目です」といった。ゴルバチョフは改革推進派だと考えていたネーメトの予想に反して、彼は根っからの社会主義者だった。だが最後にゴルバチョフは口調を変えると、「しかし、同志ネーメト、その責任者はあなたです。私ではありません」と言った。ハンガリーの進むべき道を決めるのはソ連ではなく、ハンガリー自身だということを意味した。
 ネーメトは単刀直入に訊ねた。「もし総選挙の日付を発表し、選挙を実施したら、ソ連は1956年と同じように介入しますか」。ゴルバチョフは一瞬のためらいもなく、「ニエット(いいえ)」と答えた。そして、かすかに笑いながら、「少なくとも、私がこの椅子に坐っている限りは」とつけ加えたという。
 1989年5月1日のハンガリーのメーデーでは、首脳たちが並んでパレードを検分する式典の代わりに、「人民のピクニック」を実施することになった。公園にテントが持ち込まれ、食べ物や飲み物が準備された。党主催のピクニックには数万人の人たちが集う予定だったが、実際には千人しか集まらなかった。閣僚も首相のネーメト以外は誰も顔をみせなかった。
 逆に「民主フォーラム」など新たな政党が催した集会には10万人をこえる人たち参加し、お祭り騒ぎになった。ジャズバンドの演奏の合間には、皆が改革計画について議論し合った。党主催のピクニックでは、書記長のカーロイがネーメトの率いる内閣を槍玉にあげて、社会主義の大義を裏切るものだと非難した。だがネーメトは動じなかった。
 翌5月2日の朝、ハンガリー政府は、西隣のオーストリアと接する国境沿いに設置されている電流の通じた鉄条網の一部を切断した。経済的に維持できないというのが表向きの理由だったが、その意図は明らかだった。
 ネーメトのこの発言から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社の手で配信された。イギリス首相チャーチルが「鉄のカーテン」と称したものが、初めて破られた瞬間だった。
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by monsieurk | 2011-11-03 23:59 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
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