ムッシュKの日々の便り

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元政(1)

 思い返してみると、中村真一郎氏に初めてお目にかかったのは、1979年秋のことであった。大学の同期で岩波書店の編集者だった野口敏雄氏に連れられて、東京港区青山の仕事部屋を訪ねたのだった。中村氏は熱海に自宅があり、仕事や東京での用事のために青山にもマンションをもっていた。訪問の目的は、すでに書きあげていたステファヌ・マラルメに関する原稿を見ていただき、出来ればどこかの雑誌に発表する仲介をお願いするためだった。野口氏が、「それなら中村真一郎さんに頼んでみようと」連れていってくれたのである。中村氏はその場で目を通し、すぐに青土社の「ユリイカ」に推薦してくれた。こうして原稿は『ユリイカ』1979年11月号の「マラルメ特集」の一篇として掲載された。「『芸術の異端、萬人のための芸術――マラルメ世界の誕生』(同誌、pp.146-157)がそれである。
 このときの話で強く印象に残っているのは、東大のフランス文学科の授業は本来研究者を育てるために行われるべきなのに、いまはそれが行われていないと強く批判されたことだった。ネルヴァルの研究者・翻訳者としてデビューされながら、36歳のとき東大と明治大学の講師を辞して、作家生活を選んだことへの複雑な気持を垣間見る思いがした。
 もう一つは、『雲のゆき来』(筑摩書房、1966)がもっとも好きな作品で、ぜひフランス語で出版されるといいと思うと伝えると、自分としても会心の作の一つだといって嬉しそうな顔をされたことである。
 『雲のゆき来』は、著者が江戸初期の僧侶・詩人、元政(1623-68)を探求する経緯と、友人の紹介で偶々知り合った新人女優、楊嬢(マドモワゼル・ヤン、父はドイツ人の学者で母は中国人という設定)との道行きがない交ぜになって進行する物語である。
 著者が元政の名前を知ったのは30年も前に読んだ芥川龍之介の本だった。その漢詩集をあらためて読んで興味を惹かれる。
 「彼のどれも似たような詩句を、次つぎと読み進めているあいだに、私はいつのまにか、単純で自由な不思議な快い世界へ、自分の心が運ばれて行っているのに気がついた。それは確かに「詩的体験」だった。――・・・詩的体験とは言葉の響きと映像との調和が読者の心のなかへ生まれさせるひとつの夢だろう。そして元政上人は三世紀後の一文士の或る夜の心のなかに、確実に言語によって別世界を開いてくれたのだ。」(同書、15頁)
 元政(げんせい)は出家前の名前を石井元政(いしい・もとまさ)といった。石井家は九条家に仕えた地下官人の家柄だったが、元政の兄が彦根藩に出仕し、姉も藩主の側室になったことから、元政自身も十三歳のときに彦根藩士となった。しかし二十六歳のときに思うところがあって出家し、日蓮宗の僧侶となった。その後、洛南の深草に隠棲して瑞光寺を建て、仏道に精進するとともに多くの詩文を著して、その名は広く知られるようになった。
 遺稿の詩文集『艸山集』巻十六に、次のような詩がある。

  愛山又出門  山を愛しまた門を出ず
  投杖倚松根  杖を投じて松根による
  秋水界平野  秋水 平野をさかいし
  暮煙分遠村  暮煙 遠村をわかつ
  露昇林際白  露昇りて 林際白く
  星見樹梢昏  星見えて 樹梢くらし
  自覚坐来久  おのずから覚ゆ 坐して来ることの久しきを
  蒼苔已有痕  蒼苔 已に痕あり

 元政がある日の夕暮れ時に瑞光寺の山門を出て、近辺を散歩したときの情景だが、同時にそれは自の来し方をかえりみた感慨ともなっている。
 『雲のゆき来』の語り手は、元政のこうした詩を読んだ感想を次のように述べている。
「平明で目立たないような表現が静かに次つぎと眼の下を流れ過ぎて行く間に、そのたゆまぬ囁くような響きが、心を優しく慰めてくれる、そういう喜び、とでも云ったら、幾分か私の体験の性質を伝えることになるかも知れない。そして、その響きには独特の山林の気のようなものがあり、人気のない谷間の道を、遠い陽に照らされながら、どこまでも同じように風景の続くなかを歩いているのに似た快感といったら、更に私の感動の性質に近付くような気がする。」(同、17頁)
 元政は意図して平明な言葉で身辺の情景や感慨を詠ったが、そこには帰化人で詩人の陳元贇の影響があった。元政は37歳の万治2年(1659)に、前年亡くなった父親の遺骨を納めるために、79歳の母を連れて身延山詣での旅にでた。その途次、次姉の嫁ぎ先であった尾張藩士川澄氏のもとで、尾張藩に使えていた陳元贇と出会った。旅の様子を記した『身延道の記』には、八月十五日に、川澄の家を訪ねたことが、「夜なかばかりに。名古屋のゆかりのもとに。門うちたゝきてみる。みなよろこぼひていねすなりにけり」と書かれていて、その翌日、
 「十六日。ひたけておく。けふはこゝにやすみてといへは。つれ〱なぐさめにと。明人元贇をよぶ。やかてきたりぬ。このくにゝ年へて。言葉よくかよへり。いとめづらいき物がたりして、太祖の事などくづし出たり。皇明通紀をよむこゝちす。我名をとふを。元政といへば。わが兄弟なりとたはふる。」(『深草元政集』第一巻、98-99頁、古典文庫、1977)と記されている。両者の名がともに元ではじまることから「私たちは兄弟だ」と元贇が冗談をいったのである。このとき元贇73歳、元政37歳だった。
 こうして交友がはじまり、二人は京都と名古屋の間を幾度か往復して、四年後には両者が唱和した詩を集めた『元元唱和集』が版行された。そこに収録された五言古詩「李梁谿ガ酒ヲ戒ムルの詩ヲ和ス」の序に、「蓋シ性霊ヨリ流ルル者ハ徳有ルノ言也。模擬ヨリ出ル者ハ必ズシモ徳有ラザルノ言也。性霊ヨリ流ルル者ハ整斉ナラズト雖モ痕ナシ。模擬ヨリ出ル者ハ是レ整斉ナラズト雖モ未ダ必ズシモ痕ナクバアラズ。」(『詩集日本漢詩』第十三巻、370頁、汲古書院、1988年)と説かれている。
 ここでいう「性霊」とは精神を指すが、「模擬」と対比されていることから、真似ではない自分の心の純粋なあり方の意味に用いられている。その根拠としてもう一文をあげれば、『艸山集』巻二の「南紀の澄公に復する書」では、「余、細かに公の此書を読むに、皆な性霊より流る。模擬より出る者に非ず。」とあって、その後に同じ文言が繰り返され、そして、「余、文章を知らずと雖も、此二つの者において、暗中に模索しても亦た知りぬ可し。何となれば言は即ち心の跡なり。跡に因つて心を求むれば、中〔あた〕らずと雖も遠からじ。此に由つて之くを言へば、文章を好む者の道徳を本とせずして、徒らに古人の唾餘を拾うて以つて巧みを得たりと為るは、恥づべきの甚だしきなり。」(同書、50頁)と敷衍されている。
 元政は陳元贇と交際するなかで、明の詩人、袁中郎(袁宏道、1568-1610。三兄弟の真ん中なので中郎と称せられた)の存在を教えられて、その詩集『袁中郎詩集』を読み、袁が説く「性霊説」の詩論を知ったのである。
 袁中郎は、兄の宗道、弟の中道とともに「三袁」と呼ばれた優れた詩人で、彼らは王土視の神韻説や沈徳潜の格調説に対抗して「性霊説」を唱えた。明の時代には、詩の格調を重視して盛唐の詩を模倣する擬古的な詩論が流行していた。これに対して袁中郎たちは、詩で大切なのは詩人の心の霊妙な働きであって、格調などという外的表現形式を模倣することではない。性情の自由な流露と自然な表現を尊ぶことこそが詩作の要諦だと主張した。
 元政がどれほど『袁中郎全集』に熱中したかは、『艸山集』の巻十四、「燈に対す」で次のように述べていることからも分かる。
 
  病來耿不寐  病來 耿として寐られず 
  対燈背佳月  燈に対して佳月に背く
  臥読袁中郎  臥して袁中郎を読み
  欣然摩短髪  欣然として短髪をなでる
  影暗呼添膏  影暗くして呼びて膏〔あぶら〕を添うれば
  灼々花新結  灼々として花新たに結ぶ
  (後略)
 
 消えそうになった燈に油をつぎ足し、燈火を明るくして、寝ながら夜通し『袁中郎全集』に読みふけったというのである。こうした読書が元政本来の詩精神と呼応して、身近なものを自在に詠う、それまでなかった詩興を誕生させた。
 例えば「清貧」と題した詩。

  濁界人皆苦  じょく界 人みな苦しむ
  清貧我獨安  清貧 われひとり安し
  竹風堪避暑  竹風 暑さを避くるに堪え
  柴火足防寒  さいか 寒をふせぐに足り
  放志太空窄  志を放てば 大空せまく
  容身一榻寛  身をいれるに 一榻〔とう、寝台〕ひろし
  糟糠猶不厭  糟糠 なおいとはず
  百味盡盈盤  百味 ことごとく盤にみつ
  
 元政の生涯は17世紀前半、徳川幕府の基礎が固められた時期にあたるが、世紀を同じくする漢詩人たち、祇園南海、新井白石、荻生徂徠、服部南郭たちが専ら唐詩を手本にしたのに比べるときわめて異質である。それはやがて来る18世紀の、菅茶山、市河寛斎、柏木如亭といった日常的リアリズムを重視する詩人たちの先駆であり、江馬細香もまたその驥尾に付した存在だった。
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by monsieurk | 2011-11-30 00:42 | 漢詩
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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