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ムッシュKの日々の便り

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Good-bye Mr. Chips

 Public Schoolは、英語と米語では意味が異なる。アメリカでパブリック・スクールといえば公立の学校を指すが、イギリスでは、一部の有名な私立学校を意味する。イギリスのパブリック・スクールは、12、3歳から18歳の学生を対象にした学校で、イギリスの教育の本質を理解する上で欠かせない存在である。
 パブリック・スクールの起源は14世紀ないし15世紀にまでさかのぼり、最初は教会の僧を対象に教育が行われていた。それが17世紀に入ると、貴族階級の子弟を中心として、大学の予備的な学校としての役割を担うようになった。原則として全寮制で授業料も高く、その上に寄宿料もかかるから、誰でもが行けるといった学校ではない。
 こうした条件から、イギリスのパブリック・スクールには上流階級(イギリスではいまも貴族の称号が存在するなど階級社会が生きている)の子どもが多く入学してきた。学校には、最高責任者の校長以下の教員と、「ハウス・マスター」と呼ばれる先生がいる。ハウス・マスターは学生が生活する幾つかの寮に所属して、学生たちと起居をともにし、学生の訓練にあたる教員を指す。ハウス・マスターの優劣が寮の気風に強い影響をあたえるともいわれ、その点でも、パブリック・スクールにあっては大変重要な存在である。
 パブリック・スクールの特徴は、こうした制度のほかに、学校を終えたあとの人生でのさまざまな試練に耐えられるように、精神と肉体を厳しく鍛錬することにあるといわれる。このためにいわゆる「スパルタ式教育」が実践される。実際にイギリスのパブリック・スクールで学生生活を経験した池田潔は、その『自由と規律』(岩波新書、1949年)のなかで、「自由を尊重するイギリス人が、あえて教育のために自由を奪うことで、学生に自由の意義と規律の必要性を理解させようとしている」と書いている。
 こうした厳しい規律と集団生活のなかで、学生は自制することの大切さや、事に当たっては率先して行う勇気を植えつけられる。ナポレオンを破ったイギリス軍の多くはパブリック・スクールで教育された人たちだった。彼らは学校で、「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)」の精神を叩き込まれていた。これはもともとは「貴族であることの義務」という意味で、社会的な特権(それは先天的なものではなく、教育の機会などに恵まれて社会のリーダー的存在になった人の)を持つ者には義務と責任があり、それをまっとうしなくてはならないという考えである。
 彼らは戦闘では将兵の先頭に立ち、自らの命を賭して戦った。対ナポレオン戦争のとき、あるいは1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦のときも、貴族出の者や大学を卒業した人たちの戦死が一番多かったのはイギリスだった。その結果、第1次世界大戦後のイギリスの社会は、一時リーダーとなる人材の不足に悩まされたほどであった。
 こうした自己犠牲の精神は、寮での団体生活やスポーツのなかで養われる。イギリスのスポーツといえばラグビーとサッカーが代表的だが、とくにラグビーはパブリック・スクールを代表するスポーツで、ラグビーでは全体の勝利のために個人を犠牲にしなければならない場面が多く生まれる。こうした体験のなかから、個人的利害や肉体の苦痛を乗り越えて、チームの利益に貢献する精神が身についていくといわれる。日本でも先の戦争の直後までは、高等学校(いまの大学の教養課程)では寮生活が一般的だった。学生たちは寮で生活をともにしながら勉強し、人生論をたたかわせて互いに切磋琢磨した。
 J・K・ローリングのファンタジー小説『ハリー・ポッター』のシリーズや、それを映画化した作品で、主人公のハリー・ポッター、ハーマイオニー、ロンたちが魔法を学んでいる学校は、イギリスのパブリック・スクールの姿を模したものである。映画でハリーたち学生や先生たちが一堂に会して食事を摂る場面があるが、実際のパブリック・スクールでも、伝統を感じさせる食堂に皆が集まって食事をする。
 ところで、私が最初にイギリスのパブリック・スクールの存在を知ったのは、高等学校2年生のときの英語の副読本だった。1年生のときの副読本は、ゴールズワージー(John Galsworthy)の『りんごの木』(“The Apple tree”, 1916)で、2年生ではイギリスの作家ジェームズ・ヒルトン(James Hilton)の『チップス先生さようなら』(“Good-bye Mr. Chips ”、 1934)を読んだ。当時教科書として使った植田虎雄解説注釈の研究社小英文學叢書(昭和28年)を探し出したが、幼い字で沢山の書き込みがある。
 『チップス先生さようなら』は、こんな場面からはじまる。
 「年をとってくると、(もちろん病気ではなくて)、どうしても眠くてうつらうつらすることがある。そんな時には、まるで田園風景の中に動く牛の群れでも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。秋の学期が進み、日足も短くなって、点呼の前だというのに、もうガス燈をつけずにはいられないほど暗くなる時刻になると、チップスが抱く思いはそれに似たようなものであった。チップスは、老船長のように、過去の生活から身に沁みた色々の合図でもって、いまだに時間を測るくせがあった。道路をはさんで学校と隣り合ったウィケット夫人の家に住んでいる彼にしてみれば、それも無理ない話、学校の先生を辞めてから十年以上もそこで暮らしていながら、彼とこの家の主婦とが守っているのは、グリニッチ標準時間というよりは、むしろブルックフィールド学校の時間であった。
 「ウィケット奥さんや」
と、チップスはいまだに昔の快活さを失わぬあのひきつるような甲高い声で呼びかける。
 「自習の前にお茶を一杯欲しいものですな」
 年をとってくると、暖炉のそばに座って、お茶を飲み、学校から聞こえてくる夕食や点呼や自習や消燈を知らせる鐘を聞くのは悪くないものだ。チップスはその最後の鐘が鳴り終わると、きまって時計のネジを巻き、火除けの金網を暖炉の前に立てかけ、ガス燈を消し、その上で探偵小説を持って寝床に入るのだった。」(菊池重三郎訳、新潮文庫、5-6頁、1956年)
 これが学校の教師をやめて10年がすぎたときのチップス(本名はチッピング)の生活ぶりである。彼は教師をやめたあとも、学校のすぐ隣にあるウィケット夫人の家に下宿することをやめなかった。
 彼が最初にブルックフィールド校に、ラテン語の教師として赴任したのは22歳のときだった。架空のブルックフィールド校は、パブリック・スクールの典型のような学校で、チップスはここが気に入り、以後65歳で退くまで、学生たちとともにすごしてきたことになっている。彼の謹厳実直な振る舞いは、最初のうち学生たちに敬遠されていた。しかしある年の休暇中に、旅先で知り合ったキャサリンとの結婚をきっかけに、彼は変わりはじめる。そして陽気なキャサリンは日曜日ごとに学生たちを自宅に呼んでお茶をご馳走し、夫と生徒たちの間の垣根を取り払う。チッピング自身も教室で冗談を言うようになり、学生たちからは「チップス」の愛称で呼ばれるようになった。それでもこうした幸福な日々は長くは続かず、キャサリンはお腹に子どもを宿したまま亡くなってしまう。その後チップスは学校一筋の生活を送る。
 「四十になると、彼はここにすっかり根をおろして、生活を心から楽しんだ。五十になると、首席教師になった。六十になると、まだ若年の新校長のもとで、彼はブルックフィールドそのものであった。・・・」(同書、14頁)
 チップスは、65歳で一度教師の職を退くのだが、第1次世界大戦が勃発して、教師や卒業生の多くが出征するようになると、彼は校長としてふたたび学校に呼び戻される。その後戦火は拡大し、イギリス本土もドイツ軍の空襲をうけるようになる。そしてある日、講堂に集まった学生たちを前にして、チップスは教え子やかつての同僚たちの名前の載った戦死者名簿を読み上げるという、胸のつまる思いを味わわなければならなかった。・・・

 『チップス先生さようなら』の作者ジャームズ・ヒルトンは、ランカシャー県のリーという町の生まれで、父親がロンドンで先生をしていた関係から、幼いときにロンドンに移り、そこで小学校教育を受けた。その後、パブリック・スクールの名門の一つであるリース校に入った。大学はケンブリッジで、歴史学を専攻した。
 こうした経歴からも分かるように、『チップス先生さようなら』には、リース校での体験が十分に生かされているといわれる。学生への愛情にみちていて、洒落の名人であるチップス。このイギリス人気質のあふれた老教師と学生との交流を描いた作品は、パブリック・スクールの実態を描き切った傑作と評価されている。ぜひ英語の原文で味わって欲しいものである。
 なお、ヒルトンはこの小説を33歳のときに書いた。「ブリティュシュ・ウィークリー」という雑誌から、クリスマス特集号の付録に載せたいという依頼があり、彼はこれをなんと4日間で書き上げたという。その後この小説は2度ほど映画化された。とくに1939年に、ロバート・ドーナットがチップスを、グリア・ガースンがキャサリン役を演じた映画は原作の趣きをよく表現している。いまはDVDになっているので、これも観ることができる。
by monsieurk | 2011-12-08 00:45 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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