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ムッシュKの日々の便り

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画家ヴュイヤール XII 「ナタンソン夫妻」

 ヴュイヤールはこの頃、しきりに厚紙の上に油絵具や泥絵具をつかって描く試みを繰り返している。厚紙という素材は吸収性が高く、それだけ生の色が出にくいことに加えて、粉末状の絵具を油をつかわずに膠と水で溶くディステンパーの技法が、絵具が乾くのに一日、二日かかるためにすぐには次の色を重ねられないのに比べて、短時間で乾くために次々に色を重ねて、くすんだ色調を得られる利点があった。
 ヴュイヤールはこの技法をリュニェ=ポーが主宰する制作座の舞台装置を描く際に学びとったといわれている。1892年ころに制作された《部屋を掃く婦人》、93年作の《室内》、先に紹介した94年の《新聞を読むケル=グザビエ・ルーセル》などがそれである。
 これらの作品に加えて、カンヴァスに描かれたものとしては、《コルスティエールのアトリエ》(1891年)、《食後の画家の一家》(92年)、《画家の母と姉》(93年)、《公園》(94年)、《フェリックス・ヴァロトン》(94年)、《人のいる室内》(96年)、《ミシアとタデ・ナタンソン》(97年)、《屋根裏の部屋》(97年)といった作品の数々が、この時期のヴュイヤールが色面相互の関係や画面構成にいかに腐心していたかを示している。
画家ヴュイヤール XII 「ナタンソン夫妻」_d0238372_2148987.jpg画家ヴュイヤール XII 「ナタンソン夫妻」_d0238372_2148527.jpg

 画家はできるだけ描写的な側面を削ぎ落とし、いきおい画面は装飾的な傾向を強める。出来上がった絵はさらに抽象的なものが加わって、「装飾的」という形容ではおさまりきらない神秘的な雰囲気をただよわせることになる。
 そのよい例が《屋根裏の部屋》である。タデ・ナタンソン夫妻がヴァルヴァンにもっていた家の屋根裏部屋の情景を描いた作品は、全体が薄暗い青でおおわれている。青いガラスのランプシェードを透した光が屋根裏部屋の白壁を青く染めている。そのなかで、ランプの真上にあって、天上を十文字に区切っている太い垂木だけが、直接光をうけて茶色に光っている。画面左手、光の届かない部屋の隅にはピアノがあり、その上に影のような花束が置かれている。ピアノのかたわらには赤い錦織りの椅子、そのくすんだ赤だけが異色であり、天上を縦横にはしる垂木とともに、絵にアクセントをつける役をはたしている。ランプの置かれた机では、タデ・ナタンソンとミシアが向かい合って静かに読書に耽っている。
画家ヴュイヤール XII 「ナタンソン夫妻」_d0238372_2365187.jpg

 ヴァルヴァンのこの屋根裏部屋は、ヴュイヤールにとっては馴染みの場所であった。ナタンソン夫妻の別荘「ラ・グラングジェット(小納屋)」は、セーヌ河畔にあって、夫妻はよい季節になると、ここに滞在してはヴュイヤールやボナールたちを招待した。彼らはナタンソンが出版する雑誌「白色評論」にオリジナル版画を寄稿する常連だった。
 画面左に見えるピアノでは、ミシアがよくベートーヴェンやシューベルトの曲を弾いた。ミシアは天賦の才をそなえたピアニストで、リストには子どものように可愛がられ、ガブリエル・フォーレの弟子として将来を嘱望されていた。別荘の隣人だったマラルメは、暇さえあれば木靴を履いてやってきて、ミシアのピアノ演奏を聴くのを楽しみにしていた。
 ドビュッシーがマラルメの長篇詩「牧神の午後」に触発されて、『牧神の午後・前奏曲』を創作して、ソシエテ・デ・コンセールが初演したのも、ちょうどこの頃のことである。そしてミシアがドビュッシーの作品をよく弾いたのもこのピアノであった。
 1897年の夏、ヴュイヤールはナタンソン夫妻と一緒に、別荘で多くの時をすごした。ただし絵は、そうして目にする光景を再現したというよりは、画家が感じた歓びの翻訳とでもいうべきもので、象徴的なアンティミスムの真髄にまで昇華している。ここには純粋な何ものかが息づいている。
 ポール・シニャックはヴュイヤールについて、「彼は事物の色について信じがたい理解力をもっている。そこ〔彼のアパルトマン〕で観た多彩なパネル画は、まさにすぐれた画家の作品というべきもので、主調色は基本的に暗いのだが、常に明るい色の爆発を伴っていて、それがどこかで絵全体の新しい調和を回復させている。色調のコントラスト、巧みに仕上げられた明暗法(キアロスクロ)――こうしたものが色彩の配合に均衡をもたらしている」(木島俊介訳『ヴュイヤール』)と書いている。
 ヴュイヤールの微妙に変化していく同系色を使った大胆な画面構成は、当時のフランスの画家たちを虜にした日本の浮世絵、とりわけ北斎や広重の風景画の影響が著しかった。平面的で装飾的だといわれた浮世絵が、実際にはどれほどの空間性と色彩のレアリテをはらんでいるかを、彼らフランスの画家たちは直感したのである。
by monsieurk | 2012-06-16 23:37 | 美術
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