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ゴッホと浮世絵 II 「海のサント・マリー」

 ゴッホはパリで、仕事の上では大きな手応えを得たが、生活費のすべてを弟テオの世話になっている共同生活に気詰まりを感じていた。そうした中で1888年2月下旬、テオには黙って南仏のアルルへ旅立った。
 行き先がなぜアルルだったのか、はっきりした理由は不明である。パリよりも生活費が安くすむという思惑があったかも知れない。彼が以前から南フランスの陽光に憧れていたのは事実で、オランダ時代にアルフォンス・ドーデの小説『アルルの女』や、『タラスコンのタルタラン』を愛読していた。タルタランは大言壮語の豪傑で、その冒険譚は彼を魅了した。タラスコンはアルルの少し北にある小さな街である。だがそうした動機以上に、ゴッホを駆り立てたのは、南フランスの風光が日本に似ているという想いだった。
 書簡605(9月10日付)の一節にはこうある。
 「親愛なるテオ、君も知っての通り、私が南仏に来て仕事に没入したのには多くの理由があった。違った光を見たかった、もっと明るい空のもとで自然を眺めれば、日本人が感じて、描いたやり方が正しくつかめると思ったからだ。この強烈な太陽を見たかったのだ。なぜならこの太陽を知らなくては、ドラクロワの絵を描写や技法の点からは理解できないし、また北方ではプリズムの色は靄におおわれていると感じるからだ。
 これらはみなその通りだ。これに加えて、ドーデーが『タルタラン』で描いた南仏に寄せる自然な愛情もあった。ときどきは、大好きな友人や事物をここで見つけさえした。」
 ゴッホはアルルに着いたあとしばらくは宿屋住まいだったが、まもなく住処を見つけた。鉄道駅から街の城壁の門へ入って行く途中にあるラマルチーヌ広場に面した二階建ての建物で、左半分は食料品店、借りたのはその右半分だった。
d0238372_12344779.jpgd0238372_12345328.jpg

 ゴッホが絵に描いた通り外壁は黄色く塗られ、借りた方には居間と小部屋が二つずつあった。日当たりがよくアトリエに使うことにした。家賃は1カ月15フランだった。さらに1週間後には、ジヌー夫妻が経営するカフェ・ド・ラ・ガールにも部屋を借りた。
d0238372_12352100.jpg こうして生活の基盤を確保すると、ゴッホは南フランスの陽光のもとにある景色を求めて周辺を歩きまわった。気に入った風景に出合うと、イーゼルを立てて絵を描いた。葡萄畑、刈入れのすんだ麦畑、その麦畑の間を走る小さな汽車、農夫、跳ね橋、モンマジュールの僧院。僧院まではアルルの街から片道5キロの道のりだが、5月から7月初めの2カ月間に50回は通った。昼食は持参したパンと牛乳だけで済ませて絵に没頭した。このとき描かれた《仕事に出かける画家》は、第二次大戦の戦火で消失してしまった作品である。

                  *

 ゴッホが思い立って、カマルグ(ローヌ河口にひらけた大湿地帯)にあるサント・マリー・ド・ラ・メール(海のサント・マリー)へ出かけたのは5月30日である。ここはアルルから南西40キロにある漁村で、朝7時に乗合馬車でアルルを発って昼ごろに着いた。紺碧の海辺には百戸ほどの漁師の家が点在し、砂浜のなかにある墓地の足元を海が洗っていた。そして少し離れた街には場違いな大きな教会が建っていた。ゴッホは念願の地中海をはじめて眼にしたのだった。
 海のサント・マリーは古い伝承のある巡礼の聖地である。伝承では、聖母マリアの妹マリア・ヤコベと預言者ヨハネの母マリア・サロメ、そしてサロメの二人の妹マルタとマグダレナ、それに二人のマリアに仕えるエチオピア人のサラという娘が、エルサレムを追われて、帆も舵もない小舟で漂流した末に、この海辺にたどり着いたとされる。
 二人の聖女マリアの亡骸はこの地に埋葬され、9世紀頃に城砦となった教会におさめられていた。彼女たちを慕って毎年多くの巡礼者が訪れるが、サラは放浪の民ロマ(ジプシー)から聖女として崇められ、毎年5月にはヨーロッパ中からジプシーたちが幌馬車で集まって、浅黒い肌をしたサラの像をささげて海に入る祭りが行われる。
 30年ほど前にこの祭りを取材して、当時結成されたばかりの「ジプシー・キングス」の演奏と歌を衛星テレビで紹介したことがある。哀愁を帯びた彼らの音楽はその後世界的に大流行し、日本でも代表作「インスピレーション」がテレビドラマ「鬼平犯科帳」のタイトルバックにも使われるほどになった。
d0238372_1235734.jpgd0238372_12345811.jpg ゴッホが訪れたのは巡礼祭が終わり、静けさがもどった時期だったが、彼はここに6月初めまで5日間滞在した。そしてこの5日間がゴッホに決定的なものをもたらした。彼はこの間、葦ペンや鉛筆での素描に専念したが、自ら絵の根源となるものを会得したのである。
 「ここの海を見たいま、南仏に留まることの重要性をまた痛感している。もっと大胆に強烈な色を使わなければ。(中略)たとえ高くついても、南仏に滞在したいのは次の理由からだ。私たちは日本の絵が好きで、それから影響をうけた。それは印象派の画家すべてに共通することだが、日本へ行こうとはしない。つまり、日本に等しい南仏にするというわけだ。結局、新しい芸術の未来はここ南仏にあると考えるのだ。(中略)
 君(テオ)がここにしばらくでも滞在できたらうれしい。君はすぐにそれを感じとり、ものの見方も変わって、もっと日本人の眼でものを見て、色彩を違って感じるようになる。この土地に長く住めば、私は私の個性を抽きだせると確信している。日本人は素描をするのが早い。非常に早く、稲妻のようだ。それは神経がこまかく、感情が素直だからだ。
 私はこちらにきてまだ数カ月だが、パリでは1時間で、舟のデッサンを仕上げただろうか? 輪郭さえ出来上がらなかった。ところが、ここではペンが走るままに、苦もなく仕上がるのだ。」(書簡500)
 ゴッホはサント・マリーで、浜に引き上げられた漁船や海の風景、漁師の家、昔の城砦だった教会などを太く強い線で描いた。それは明らかに日本の版画から学び取った手法だった。そしてアルルに戻ってからは、自の内心がおもむくままに強烈な色彩とタッチで描き、《サント・マリー・ド・ラ・メールの風景》(クレラー=ミュラー美術館)、《緑の葡萄畑》(同)、《アルルの寝室》(ファン・ゴッホ美術館)などが制作されることになる。
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by monsieurk | 2012-06-27 12:50 | 美術 | Trackback | Comments(0)
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