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詩画集 Quelques poemes(詩篇いくつか)

 音楽評論家の蘆原英了に次のような文章がある。
 「私の母の弟の藤田嗣治がパリへたったまま、世界大戦になって音沙汰が知れなくなってしまった。一九一九年、ベルサイユ条約が結ばれてから、少しずつ叔父の様子が知れてきた。それから間もなくの頃、私たち兄弟のところへ叔父から小さな品物が送られてきた。兄のところへは叔父が挿画を描いた薄い詩集が届いた。日本の局紙を四、五枚、葦のような草で綴じた、ほんとに十頁くらいのものだったが、その一枚一枚に叔父の、それこそ細い細い線で、女の顔や雪景色などが描かれていた。それははじめて見る叔父のパリへいってからの絵で、きわめて新鮮なおどろきを与えられた。これが後のフジタの独特の線画になるわけだが、墨一色で、なんともいえぬ美しさであった。
 その詩集の著者が小牧近江さんで、俳句のような短い詩が一頁に二、三行ずつあった。この詩集はたしか三十部ぐらいの限定版であったと思う。(中略)この詩集はわが家では戦災で焼けてしまった。・・・小牧さん自身、もうこの詩集を持っておられないとのことであるから、この詩集の稀覯価値はたいへんなものであると思う。」
 これは小牧近江の『イソップ三代目』(第三文明社、1973年)の「あとがき」に載ったものである。小牧近江(1894 -1978)については、2011年10月28日のブログ「ハノイ再訪」や2012年1月5日の「反戦小説としての『肉体の悪魔』」で紹介したが、本名を近江谷小駉(おうみや・こまき)といい、プロレタリア運動の魁となった雑誌『種蒔く人』の創刊者としてしられる。
 彼は1910年(明治43年)夏、16歳のときに暁星中学を中退して、ブリュッセルで開かれる第1回万国議員会議に出席する代議士の父栄次に連れられてフランスに渡り、アンリ四世校の寄宿生となった。だが帰国した父は事業に失敗し、仕送りが途絶えて授業料も払えなくなり、放校されてしまった。その後はパテ商会で働きながら、無料の夜間労働学校に通い苦学を続けた。そのうちに父の知人である石井菊次郎大使の口利きで、大使館で受け付けなどの雑用係として働くことになった。
 1914年6月には、大使館での仕事のかたわら、パリ大学法学部に入学することができた。ただこの年8月3日に第一次大戦が勃発。開戦後、旬日のうちにドイツ軍は国境をこえてフランスに侵攻した。大使館では急遽在留邦人を集めて戦況報告会を開き、会合には100人ほどが集まった。そこには商社の関係者にまじって、滞仏中の作家島崎藤村や在仏1年目の画家藤田嗣治などの顔があった。アヴニュ・オッシュにあった大使館には、石井大使、佐分利貞男二等書記官、杉村陽太郎外交官補など8名が勤務しており、情報の収集に大わらわだった。
 大使館としては非常時に在留邦人が危険なパリから退去することを望み、帰国する者には400フラン、他の地へ移住するなら200フランを貸し付けると伝えた。これによって多くの邦人が帰国するかロンドンなどへ避難したが、藤田嗣治は絵を描くためにフランスへ来たといって、パリに残る決断をした。そして集会の帰りがけに、それまで描きためた大切なスケッチブックを近江谷に預けたという。大使館にいる彼に託した方が少しは安全と考えたのであろう。このとき藤田は27歳、近江谷20歳で、彼らがいつ、どのようにして知り合ったのかは、詳細は不明である。ただこのエピソードからみて、二人が大戦前に知り合っていたのは間違いない。
 開戦から1カ月後、日本大使館は戦火を避けて、フランス政府とともにパリから南西部にあるボルドーへ移り、近江谷もパリを離れたために折角入学した大学へはしばらく通うことができなかった。
 パリに残った藤田は画家仲間の川島理一郎と14区の場末、シテ・ファルギエールに住んでいたが、開戦で日本からの送金が途絶え生活は困窮した。冬になると暖をとるためにキャンバスの枠を燃やすほどで、絵もさっぱり売れなかった。
 膠着状態が続いた戦争は、翌1915年になると英仏連合軍側が優勢となり、フランス政府や各国外交団もパリにもどった。近江谷もそれにともなって大学に復学し、1918年にはパリ大学法学部を卒業して学士号を得ることができた。
 藤田の方はこれより前の1917年6月、シェロン画廊で初の個展を開くことができた。展覧会をしきったのはフェルナンド・バレーで、藤田が結婚したばかりの相手だった。近江谷はこのとき画廊を訪ねて、二人の交流は再開した。
 1918年11月11日終戦。翌19年1月からパリで講和会議が開かれ、日本は戦勝国の一員として西園寺公望を首席全権とする代表団を送り、近江谷も語学の能力を買われて代表団に採用され、松岡洋右の下で新聞係として働いた。彼はこのころロマン・ロランの平和主義を通じて左翼思想に共鳴しており、新聞係のなかでは「ボルシェヴィキ」の渾名で呼ばれていた。
 パリ講和会議が1919年6月に終わると、近江谷は帰国を考えるようになった。そのとき藤田から一つの提案があった。二人の交友の記念に詩画集をつくろうというのである。近江谷の詩に藤田が挿画を描く。出版はフランソワ・ベルヌアール(François Bernouard)が興した「ラ・ベル・エディシオン(La Belle Edition)」が引き受けてくれることになった。
 ベルヌアールは生涯に400を超える本やプラケット(小冊子)を出版したが、当時のプラケットには、デユヒィ、ドラン、ローランサン、マチスなどが挿画を描いたものがあり、この名門出版社から無名に近い日本人の本が出版されたのは驚きである。藤田は初の個展に次いで、この年の秋の「サロン・ドトンヌ」に6点の絵が入選して、パリ画壇にデビューしたから、目利きのベヌアールが先行投資の意味で企画したのかも知れない。こうして詩画集《Quelques poèmes》が世に出ることとなった。巻末にナンバーを入れた210部の限定出版だった。
 冒頭の蘆原英了の記述にあるとおり、近江谷駉(小牧近江)の蔵書から、この記念すべき詩集は散逸してしまったが、近年になって孫の桐山香苗さんが精巧なレプリカ(複製版)をつくり、私にも一冊下さったのである。
 表紙には、Quelque poèmes / par Monsieur / Komaki Ohmia / décorés par Monsieur / Foujita./ se trouve / A LA BELLE Edition ? / 71, Rue des Saits-Peres, 71 / A PARIS とある。A5版(21.0×14.0cm)、表紙を含めて20ページ。ヤシ科の植物の繊維で中綴じした冊子には、各ページに近江谷のフランス語の詩と藤田の線描が、12ページにわたって1点づつ印刷されている。
 表紙にdécorésとあるとおり、藤田の素描は詩の内容とは直接関係なく、本を飾るイメージの役割をはたしている。写真で複製したように、一筆がきのような繊細な線で、女性の横顔、子どもを抱く母親、傘をもって綱渡りをする女、牡丹、鴨、馬、牛などを描き、漢字で「嗣治」の署名している。
 近江谷の詩はどれも数行の短いもので、写真のページの詩は、「en baisant / mes yeux mouillés / vous avez bu / tous mon sang / vous oublierez / est-possible? (涙で濡れた私の瞼に / くちづけしながら / 貴女は私の血をすべて / 飲みほした / 貴女はそのことを忘れてしまう / そんなことはありうるだろうか?)というものである。句読点を省いた詩が、ガラモン体を模した美しい活字で印刷されている。
 近江谷駉は、この詩画集を土産に1919年12月帰国の途についた。そして故郷である秋田県土崎で友人とともに『種蒔く人』を創刊し、日本にヨーロッパ反戦思想を紹介する。そしてパリでは「コマキ」と呼ばれていたことから、姓と名を逆にした小牧近江のペンネームを用いることになる。
 藤田はサロンでの成功をきっかけにパリ画壇へデビューをはたすが、彼を一躍有名にした白地に面相筆による線描を生かした画風は、そもそもこの小冊子からはじまったのである。その意味でもこの詩画集は貴重である。

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by monsieurk | 2012-10-26 08:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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