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パリの胃袋

 前回のブログで触れたパリ1区のレ・アル地区(les Halls)には、巨大なショッピング・センター、「フォーラム・デ・アール(Forum des Halls)」があり、地下5階レヴェルは3本のRER(郊外高速鉄道)と5本のメトロが乗り入れている交通の要で、毎日15万人の買い物客が訪れ、80万人がここを通過する。だが1969年、この地区の大改造計画が決まるまでは、ここにパリ市民の食欲をみたすための中央市場があったのである。
d0238372_22351068.jpg 歴史はシテ島に建つノートルダム寺院の建設よりも前にさかのぼる。1135年、「シャンポノ」と呼ばれる沼地だったこの場所に、ルイ6世(太っちょルイ)によってパリで最初の市場が設けられた。さらに1534年には、フランソワ1世が市場の周囲に柱を建てて屋根で覆い、本格的な屋内市場が出現した。このとき建てられた柱は1854年までそのまま使われていた。
 時代は下って18世紀になると、カミュ・ド・メジエールによって小麦市場(現在の証券取引所)が建設され、1789年の大革命のあとには、ジャック=ギヨーム・ルグランとジャック・モリノスの手で、イノサン修道院を解体した跡地に布地をあつかう市場がつくられた。
 そして1851年12月、共和制を否定してクー・デタを決行し、権力の座についたルイ・ナポレオンは、翌年の国民投票で圧倒的な支持を得てナポレオン三世として皇帝に即位した。それ以後20年にわたって第二帝政が続くが、この間フランスでも産業革命が進行し、都市への人口集中が進んで、パリは過密状態を呈した。それにもかかわらずパリの都市機能は中世以来さほど変わらず、不衛生、水不足、さらには犯罪の増加に苦しんでいた。
 こうした環境を変えるべく、ナポレオン三世はオスマンを県知事に任命し、道路や上下水道の整備など、パリの大改造に乗りだした。新しい中央市場建設もその一環で、建築家バルタールに、鉄骨とガラスでおおわれた10棟のパヴィリオンの建設を命じたのだった。ナポレオン三世はこのとき、「余に傘を・・・鉄以外のなにものでもない傘をつくれ」と言ったという。時代は鉄を用いた建築のブームで、東駅やセーヌ河畔のグラン・パレ、プティ・パレもこの時代に建てられたものである。
こうして誕生した中央市場は場所の名をとって「レ・アル」と呼ばれ、学問の中心である左岸のカルティエ・ラタンと同様に、中世以来同じ場所にあってパリ市民の胃袋を満たす役割をはたしてきた。  かつての中央市場の雰囲気を活写したのが、エミール・ゾラ(Ēmile Zora)の小説『パリの胃袋(le Vente de Paris)』(Charpentier et Cie、1873年)で、ゾラの連作「ルーゴン=マッコール叢書」の第3巻にあたる。小説の舞台はこの中央市場で、ここには活気と喧騒にみちていて、牛肉、豚肉、家禽、魚、野菜、果物、チーズなど各国各地からありとあらゆる食材が集まってくる。
 そうした市場に一人の痩せ細った若者が入り込む。彼はフロランといい、1851年のルイ・ナポレオンのクー・デタの折、無実の罪で南米ギアナに流され、苦難の末に脱走に成功してパリにもどって来たのである。異父弟クリュの世話で市場で働くようになり、やがて海産物部門の監督官になる。
 市場で働く人たちは彼の素性を知らぬまま最初は暖かく迎えるが、やがてその行動を胡散臭く思うようになり、隙あらば追い出そうとする。理想の共和国を夢見るフロランは、現状に満足し、生活を守ることに汲々としている周囲の人びとの敵意に苦しむあまり、第二帝政そのものの転覆をくえわだてる政治的陰謀に加担するようになる。・・・
 ゾラはこうした物語を、中央市場を背景に描いた。たとえばこんな一節がある。フロランがクリュの妻で美人の誉れ高いリザを見つめるシーンである。
 「今リザはカウンターのうえの肉越しに見えていた。前には白い陶器の皿が並べられ、そのうえにアルルやリヨンのソーセージの切りかけ、牛の舌、塩漬けにして煮た豚肉、ゼリー寄せにした豚の頭肉、開いたリエットの壺、蓋があいてたっぷりの油をみせているイワシの缶詰などが置かれている。左右の棚にあるのは、豚のレバーのパテ、頭肉のパテ、淡いバラ色のハム、それに幅広い脂肪層のしたに血のしたたるような肉を見せているヨークハムなどだ。そのほかにも丸い皿や楕円の皿があって、そのうえには舌の詰め物、トリュフが入ったガランティーヌ、ピスタチオ入りのユールなどが並べられている。さらに彼女のすぐそばの下の棚には、背脂を刺し込んだ子牛肉、レバーのパテ、ウサギのパテなどが黄色い陶器の鉢に入っている」(朝比奈弘治訳、藤原書店刊)。引用すればきりがない。
 中世から数えれば900年にわたり、この地にあった中央市場をパリの南の郊外ランジス(Rungis)に移すことが決ったのは1962年。建物の老朽化がすすみ、さらにパリの中心部を占めているため、交通の障害になるというのが理由だった。取り壊し作業は1969年にはじまり、やがてこの地に巨大な穴が出現した。
 最初のパリ滞在中は、毎日のようにこの穴を見て暮した。取材に出かけるときは大抵レ・アルを通ったし、調べ物をするための国立図書館はすぐ近くのリシュリュ通り(rue Richelieu)にあり、さらに19世紀末から20世紀初めにかけて刊行された前衛雑誌を多く持っている古本屋がすぐ近くにあったからである。もちろん美味いレストランも多いこともその理由だった。
 1972年にはじまった解体工事が終わり、そこに現在見るフォーラム・デ・アール(Forum des Halls)が出現したのは20世紀末のことである。なお解体されたバルタールのパビヨンの一部はノジャン=シュル=マルヌに移築され、もう一つは・・・・横浜の港が見える丘公園のフランス山(旧フランス領事館のあった場所)に移されている。
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by monsieurk | 2012-11-11 10:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)
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