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ムッシュKの日々の便り

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マラルメと印象派Ⅰ マネ擁護

 エドゥアール・マネの作品が官展(サロン)から出点を拒否された事件は、マラルメに絵画について考えさせる機会をあたえることになった。その結果は、「1874年の絵画審査員会とマネ氏(Le Jury de peinture de 1874 et M. Manet)』として、雑誌「文学・芸術復興(La renaissance littéraire et artistique)」の4月12日号に発表された。官展が開幕した直後のことで、審査委員会のあり方に託して絵画の本質を論じた文章は、マラルメ独特の屈折した文体にもかかわらず多くの読者の注目を集めた。
 マラルメはまずマネの絵画が不当に拒否された事実を指摘する。
 「官展が近づくにつれて、好奇心でわくわくしていた人、また新しいアトリエに目を向けていた絵画愛好家は、ここ数日、まったく突然、絵画部門の審査委員会が、マネ氏が送った三点のうち二点を退けたことを知った。
 多くの人たちにとって、たとえ彼が群衆の一人であれ、今年は一つの秀でた才能の完全な発現を学びえないことは、大きな落胆だった。一方、新しい標的を不倶戴天の敵と狙う人たちは、こう叫ばざるをえなかった。『彼らはなぜ送られてきた作品全部を拒否しなかったのか?』と。
 私はといえば、前者と感情を同じくする。そして後者の叫びにも無条件で同意する者だ。」
 官展の審査委員会は三点のうち二点を拒否し、《鉄道》だけを採用したのだが、マラルメはこうした中途半端な態度を、筋の通らないものとして論断するのである。
 「もしも彼らが官展を訪れた人たちから、(どう言葉に表現してよいか分からない啓示の場合と同じように)人を不安に陥れる絵を目にする機会を取り上げて、その輝かしい特質によって、人びとが徐々に征服されるがままにしておく危険を遠ざけたいと望むなら、目的によっては好ましい権力を、完全かつ絶対的に行使する勇気をもつべきなのだ。群衆の趣味を支配するという、ここしばらくは忘れられていたが、それ自体は昔からある習慣を、なぜ中途半端に、三分の二だけ持ち出すようなことをするのだろう?(恐らくは、それで芸術を救う気なのだ。)」
 皮肉で、揶揄するような調子にもかかわらず、マラルメは真剣である。彼が自分をかつてマネを擁護したボードレールに自らをなぞらえていたことは容易に想像でき、とくに観衆の視点から問題をとらえようとする姿勢にそれはあらわれている。マラルメによれば、この問題の焦点は、審査委員会がはたして自分たちの判定を大衆におしつける権利があるか否かである。時代の流行に敏感な大衆の好みこそが、よき絵画を選択するのであって、」権威によってそれを無理やり捻じ曲げようとする審査委員会のやり方は不当なのではないか。マネ拒絶事件の本質をマラルメは鋭くえぐりだす。
 「マネ氏はアカデミーにとって(不幸にも、わが国では公的な秘密会議をこう呼ぶので、それに従っているわけだが)、絵画についての考えと同様、その実現した点からも〔マネ氏の絵は〕危険なのである。つまり、彼の見者(voyant)の眼が、絵画のある種の手法にもたらした単純化は、見かけのやさしさに誘惑されやすい愚者どもを魅了することができるから〔危険〕なのだが、絵画における誤りの最たるものは、それが絵具と〔それを溶かす〕香油でつくられているという、この芸術の起源を覆いかくすことである。公衆(public)はといえば、自分たちの多様な個性がそのまま再現されているのを前にして釘づけとなり、もはやこの背徳的な鏡から眼をそらすことも、天井〔画〕の寓意的な素晴らしさや、風景画〔が描かれているため〕に深められた羽目板の数々、つまり理想的で崇高な『芸術』に、もう一度眼を向けなおすことは決してしない。万一、現代的なるものが、永遠なるものを損なうようなことにでもなったら!
明らかにこれが審査委員会を構成するメンバーの大多数の考えである。・・・」
 ここに表明されているのは、素朴なまでの公衆への信頼である。彼らはすぐれた絵に接する機会さえあたえられれば、本物を見分ける能力を本質的にもっている。しかもその趣向は時代とともに確実に変化する。いまや過去の寓意画や風景画では満足せず、産業革命をへて爛熟期にさしかかった十九世紀中葉の社会の諸相を、忠実に描いた風俗画に魅せられずにはいられない。彼らは教会や美術館の天井を飾る寓意画や壁にかけられた古色蒼然とした風景画などは見向きもせずに、「自分たちの多様な個性がそのまま再現されている作品を前にして釘づけとなり」、自らの姿を映す鏡のような現代風俗画の前を離れようとはしないというのである。それにもかかわらず、絵画の専門家を自認する審査委員たちは、大衆の趣向が変化したことも知らずに、過去の価値基準を後生大事に守っている。
 公衆に重要な役割をあたえようとするマラルメの主張は、たとえばボードレールが、「1864年の官展」で開陳してみせた、新しい芸術の擁護者として新興ブルジョアジーに期待するという考えを進展させたものである。公衆を構成するブルジョアは、ボードレールにとっても、マネやマラルメにとっても同時代をともに生きる人びとであり、なによりも彼ら自身がブルジョア階級に属していた。マネの絵の新しさは、技法上の革新性に加えて、描く対象の新しさにもあった。マネは周囲で展開する十九世紀半ばのパリの生活、なかでも気心の知れたブルジョアたちの風俗を積極的に画題としてとりあげた。
 そしてもう一つ注目すべきなのは、絵が鏡と見なされている点である。絵は群衆が自らの姿を認める姿見であり、群衆とは絵を観る存在であるとともに、絵のなかに描かれる対象でもある。そしてこの二重性こそが、群衆が現代的なもの主人公の証なのだ。
 マラルメは官展に提出された三点について論じるなかで、とくに群衆を映す鏡として《オペラ座の仮面舞踏会》をとりあげる。
マラルメと印象派Ⅰ マネ擁護_d0238372_1523321.jpg 「オペラ座の舞踏会の一隅を描くこと、この大胆は行為を実現するにあたって、避けるべき危険はなんだったのか? 服装ともいえない仮装の不調和な喧騒。いつの時代、どこの国のものとも分からない、しかも造形芸術にたいして、生きた人間がとるさまざまな姿勢の目録を提供するでもなく、そこにはただ泡をくった身振りがあるばかりである。だから仮面は、絵のなかではまるで新鮮な花束のようにいくつもの色彩でもって、黒い燕尾服を基調とする単調さをやぶる役割だけをはたしている。仮面は見る人たちの目から消えうせ、人びとはオペラ座の休憩室を漫歩する男たちが立ちどまっているこの真面目な光景のなかに、現代の群衆の姿をしめす出会いを観ることができるのである。しかしその群衆の姿は快活さをそえる明るい色どりなしには描ききれないものである。非のうちどころのない美学であって、作品の色彩についていえば、〔燕尾服という〕現代の制服が強要する〔黒一色という〕困難さが、黒のさまざまな色調のなかに見いだされる色階の甘美さのうちに解消されていることに、ただただ驚嘆するほかはない。燕尾服と黒い仮装服、帽子と仮面、ビロード、羅紗、繻子と絹。仮装によって加えられた生き生きとした色彩がなぜ必要だったか、眼はようやくに気がつく。眼はまず、ほとんど排他的に男だけからなる一群がつくりだす、厳粛で、調和の取れた色彩の魅力にひきつけられ、引き止められたあと、ようやく〔仮装服の〕華やかな色彩を見わけるのである。だから絵画としては、無秩序や顰蹙を買うようなもの、画布の外へはみだすようなものはここには何もない。それどころか、これこそが絵画芸術に望まれる手段だけを駆使して、現代のあらゆる視像(ヴィジョン)を定着させようという高貴なくわだてなのだ。」
 マラルメの文意は、その特徴である反語的な用法のために必ずしも分かりやすくはないが、論旨は明快である。《オペラ座の仮面舞踏会》でマネが描こうとうとしたのは、時代の刻印を捺された群衆の姿である。主役はシルクハットと燕尾服に身をかためたブルジョアたちであり、さまざまなポーズを示す男たちにうかがえるのは、ブルジョア社会の特徴である「無名性」への志向である。画面いっぱいに描かれている無数のシルクハットと燕尾服は、「真っ黒で醜い現代の衣服にもそれなちの美しさがある」とボードレールが述べたように、この時代の制服であって、この制服をまとった男たち、「ほとんど排他的に男のみから成り立っている一群」は、互いに入れかえることができる、いわば平等な存在である。
 マネはこの作品を制作するにあたって、友人たちにポーズを頼み、それぞれの姿を画面忠実に再現した。眼を画布に近づけて仔細に眺めると、たしかに描かれた人物の一人一人に、マネを取りまく友人たちの容貌を見分けることができる。ただ友人たちの肖像を集めたはずのこの絵では、登場人物の個性ははぎとられ、ブルジョア社会の一員であることを示す燕尾服をまとった画一的な姿に描かれている。
 これを同じように群衆を描いたギュスターヴ・クールベの《画家のアトリエ》(1854-1855)と比べてみると、その特徴は一層明らかとなる。
マラルメと印象派Ⅰ マネ擁護_d0238372_1523432.jpg

 クールベの絵にあっては、カンバス中央に描かれた絵筆をもつ画家自身を中心に、右半分にはクールベの芸術を理解し、支援してくれる人々の顔を識別することができる。そこには批評家のシャンフルーリ、彼が信奉した社会主義者のプルードン、クールベの庇護者で蒐集家のアルフレッド・プリュイアス、そして本を手にしたボードレールなどが描き込まれている。そして反対側の左手には絵に無理解の司祭、猟師、道化役者、草刈り人夫などが、その特徴とともに描かれている。
 マネに頼まれてポーズをした一人であるテオドール・デュレは、彼の特徴はわずかに、「片方の耳と髯の生えた方頬」だけが生かされただけだと語ったが、デュレが美術批評を生業とすることを示すようなものは、絵からすべて捨象されてしまっている。そしてこの点にこそマネの絵の斬新さがあったのである。
by monsieurk | 2012-12-25 08:00 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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