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by monsieurk
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ロバート・キャパ(3)

 2009年7月17日付けのスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」の電子版は、キャパの問題の写真は、実際にはセロ・ムリアーノではなく、そこから凡そ56キロ離れたエスペホ(Espejo)付近で撮影されたものだという記事を掲載した。さらにエスペホ付近で戦闘が行われたのは、1936年9月22日から25日だけであり、したがってこの写真は本当に前線からは離れたところで撮られたとする説を報じたのである。
 この報道をうけて、アメリカの「ニューヨークタイムズ」紙は、2009年8月18日号に、ラリー・ローターの、「有名な戦争写真に持ち上がった新たな疑惑」と題した記事を掲載した。これは「エル・ベリオディコ」の記事のもとになったスペイン・バスク地方の「パイス・ヴァスコ大学」のコミュニケーション学部教授ホセ・マニュエル・ススペレギ(JoseManuel Susperregui)の調査研究を要約したものだった。
 ススペレギは調査結果を、著書の『写真の影(Sombras de la fotografia)』のなかでで公表していて、キャパの「崩れ落ちる兵士」についての新事実を明かしていて興味深い。以下にラリー・ローターの記事の主要な部分を訳出してみる。                     

 《スペイン内戦中のロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は、撮影されてからほぼ四分の三世紀たったいまも、戦争写真のなかで最も有名な写真である。そしてもっとも議論を呼んできた写真でもあった。一人の兵士の死の瞬間のように見える写真はヤラセだった(faked)だという批判に絶えずさらされてきた。そして今日、スペインの一研究者による本が断言するところでは、キャパの賛美者や後継者が主張しているような場所、時期、そして、いかにして撮影されたかというという主張は、あり得ないというのである。
 パイス・ヴァスコ大学のコミュニケーション学部の教授、ホセ・マニュエル・ススペレギはその著書『写真の影』で、キャパの写真は、コルドバの北のセロ・ムリアーノで撮られたのではなく、凡そ35マイル離れた別の街の近くで撮られたと結論づけた。当時キャパがいたときは、ここは戦闘の前線からは離れており、ススペレギ氏は、「この《崩れ落ちる兵士》の写真は、この前線で撮られた他の一連の写真とともに演出されたことを意味する」と語っている。
 マンハッタンの「国際写真センター(ICP)」にはキャパの資料が保存されているが、そこの専門家たちは、ススペレギ氏の調査の見方の幾つかは興味深く、説得的でさえある。だが《崩れ落ちる兵士》のイメージは正真正銘のものであり、〔ススペレギ氏〕の結論にいきなり飛躍するのは躊躇するとしている。「難しいのは、人びとが言うように、もしここではなかったとしても、あそこであり、それは神によって、生み出されたものなのです」、「これを飛び越えるには、さらなる多く調査と研究が必要だと思います」と、センター所長のウィリス・E・ハーツホーンはインタビューで答えた。
 ススペレギ氏はその探究を、「崩れ落ちる兵士」と同じ状況で撮られた他の写真の背景を調べることからはじめたという。これらの写真では遠くに山の稜線が見える。そこで彼は、これらの鮮明なものを、E-メールでコルドバの周辺の街の図書館員や歴史家に送り、この風景を知らないかと訊ねた。するとエスペホ(Espejo)という地域から肯定的な返事が返ってきた。
 「私はこれが《崩れ落ちる兵士》に関係したものだとは、誰にも告げませんでした。というのも、この写真には思想的、感情的な問題が深くからんでいるからです」と、彼はビルバオの東部にある自宅での電話インタビューで言った。「しかし、一人の教師が送った写真を教室で見せたところ、一人の生徒がまさにその場所を知っていたのです」。
 ススペレギ氏がし残したことを取り上げたのはスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」だった。同紙は最近、エルペホに数人のリポーターを派遣した。彼らは写真を持ち帰ったが、それら写真では、現在の地平線がスペイン内戦がはじまって二か月も経たない1936年9月に撮られたキャパの写真の背景に写っているものとほぼ一致したのである。
 ICPのロバート・キャパ資料のキュレーター、シンシア・ヤングは、「崩れ落ちる兵士」がエスペホで撮影されたことを示す新たな証拠は、「強力であり、説得的ですらある」と語っている。そして彼女は、撮影場所に関して起こった混乱は、キャパが戦争カメラマンとしての最初の旅の間、「自分の写真のごくわずかなものにしかキャプションをつけず」、パリに戻って、エージェントや編集者が彼の写真を現像した時、「写真を撮った場所をほとんど思い出せなかった可能性が高い」とつけ加えた。「崩れ落ちる兵士」のネガの存在は知られていない。
 スペインの歴史家たちは、エスペホで激しい戦闘があったのは9月の終わりであって、22歳のキャパと、同僚で同伴者のゲルダ・タローがここに来たであろう、この月の初めには、いかなる戦闘も行われなかったと述べている。「9月末までは、ここでは一発の弾も発射されず、幾回かの空襲があっただけだ」と、このとき9歳だった村人の一人、フランシスコ・カストロは「エル・ペリオディコ」紙に語っている。「民兵は通りを散歩し、街の一番美味いハムを食べていたよ」。
 「崩れ落ちる兵士」に関する別の説明、ハーツホーン氏のように、同センターが賛意を示す説明の一つは、ハーツホーン氏のように、キャパの写真は、「戦闘の間に撮られたものではないが」、おそらくはキャパのために行われた訓練中、「訓練が実際の戦闘に変わった瞬間があり、この写真はその結果なのです」というものである。ハーツホーン氏は、「離れたところから民兵を狙った狙撃者(スナイパー)がいたという仮定はずっとあったのです」とつけ加えた。
 しかしススペレギ氏は、この意見は「完全に誤りだ」という。反対派の前線はここから遠く離れていただけでなく、この仮説を可能とするような「射撃能力は当時はなかった」として、コルドバの戦線で「狙撃銃が使われたという資料は、文書でも映像でも存在しない」と述べている。(中略)
 「崩れ落ちる兵士」の正統性に対する根拠に基づいた疑問は、1970年代の半ばに、フィリップ・ナイトリー(Philip Knightley)の著書『最初の 犠牲者(The First Casualty)』で出されたものだった。しかし民兵の死から20年後の1936年9月5日に、犠牲者がセロ・ムリアーノで死んだフェデリオ・ボレルというアナーキストの兵士だったと身元が確認されたことで、こうした論争に終止符を打ったように見えた。
 だがススペレギ氏はセロ・ムリアーノの場所を訪れて、そこが「一世紀をこえるような樹木が生い茂る森」で、キャパの写真に見られるような、ひらけた丘ではないことに気づいた。さらに彼の本では、あまり知られないアナーキスト系の雑誌に、1937年に発表されたフェデリコ・ボレルに関する記事を取り上げている。それによると仲間だった兵士が、ボレルは、「樹を楯にして射っていたが」、彼が殺されたときは、「楯にしていた樹の後ろで伸びあがり、乱れた髪が顔に落ちかかり、血が口から点々と滴っているのを見ることができた」とつけ加えている。(後略)》

 以上が、ラリー・ローターが「ニューヨークタイムズ」紙で要約している、「崩れ落ちる兵士」をめぐって明らかになった事実である。
沢木耕太郎氏は新著『キャパの十字架』で、海外でのこうした議論や調査、研究の成果を活用しつつ、新たな事実を見つけ出そうとした。(続)
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by monsieurk | 2013-02-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)