フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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ロバート・キャパ(6)

 キャパはスペイン内戦が終わると、ヨーロッパを離れてアメリカに渡り、やがて「ライフ」の専属カメラマンとなった。以下に、先にも引用した『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』(青土社、2007年)から再度引用してみる。
 《第二次世界大戦は全世界をまきこんだ、二十世紀最大の出来事であった。この戦争では各国の報道カメラマンによって膨大な数の写真が撮られ、戦争の現実と人びとの苦しみを記録した。
 ロバート・キャパが、連合国軍のノルマンディー上陸作戦を撮影した写真は、それらのなかでも歴史に残るものとなった。彼はあの日、2台のコンタックスを用いて、浜辺で展開される戦闘場面を、35ミリ・フィルム2本、72コマの写真に撮った。そして岸から離れようとしていた上陸用舟艇に駆け寄り、それに乗せてもらって母船にもどった。キャパはこの船でポーツマスに着くと、イギリス陸軍の広報担当将校にフィルムを託して、「ライフ」社のロンドン支局に届けてもらった。
 フィルムが「ライフ」の届けられたのは7日の夜であった。写真を次の号に間に合わせるには、ロンドンで現像して検閲をすませて、翌日の飛行機に乗せなくてはならない。「ライフ」の現像係りは、すぐに現像にかかった。一刻を争う作業だった。ネガが現像液から引き上げられたとき、すばらしい写真であることが分かった。あとはプリント作業である。ところがここで間違いがおきた。時間を急ぐあまりに、乾燥キャビネットを高温にしてネガを入れ、扉を閉めたままにしておいた。これで空気の循環が遮断され、フィルムの感光乳剤がとけてしまったのである。救いだせたのは11カットだけだった(キャパ自身は自伝『ちょっとピンボケ』で、106枚の写真を撮り、8コマが生き残ったと書いている)。しかも、写真は少しブレていたが、これがかえって写真に緊迫感をあたえていた。》(同書、154頁-155頁)
 キャパがDデイで撮った写真が撮られた経緯については、当時「ライフ」のロンドン支局の写真編集者だったジョン・G・モリスが〔彼はその後、「マグナム」、「N・Y・タイムズ」の著名な写真編集者となる〕、その回想録『20世紀の瞬間、報道写真家―時代の目撃者たち』(光文社、1999年、John G・Morris“GET THE PICTURE”、random House、1998年)のなかで、詳細を明かしている。
 ノルマンディー上陸作戦の取材には、各通信社のために12人、「ライフ」のためには6人のカメラマンの枠が認められた。ただしDデイに進攻するアメリカ歩兵部隊の第一陣とともに上陸するのは4人だけとされ、「ライフ」は2カ所の取材地点を、ボブ・ランドリーとロバート・キャパに確保した。以下が、モリスが回想する顛末である。
 《水曜日〔1944年6月7日、Dデイの翌日〕の夕方6時半ころ、キャパの撮影したフィルムがそちらに向かったという電話での第一報がドーバー海峡の港から入った。「1、2時間後にはお手元に届くはずです」とはじけるような声がしたかと思うと、回線が途絶えた。(中略)
 夜の9時近くになって、メッセンジャーが息を切らしながらキャパからの小包を手にして到着した。中にはキャパがイギリス国内とドーバー海峡横断時に撮影した35ミリフィルムが4本と、120フィルム(2 1/4×2 1/4インチ)が12本入っていた。走り書きのメモによると、進攻時の模様はすべて35ミリフィルムに収められており、激戦だったという。またキャパ自身は退避の負傷兵と一緒に誤ってイギリスに戻ってきてしまったので、またノルマンディーに引き返すところだという。
 暗室主任のブラディが、そのフィルムを助手のデニス・バンクスに渡して現像させた。まだ現像液で濡れたままのフィルムに目を通したカメラマンのハンス・ワイルドが、私に電話をかけてきた。35ミリは粒子が粗いが、一見したところ「すばらしいぞ!」と叫んでいた。それを聞いて、わたしは「コンタクト〔ベタ焼き〕がほしい。急いでくれ、急いで、急いで!」とはっぱをかけた。(中略)
 数分後、デニスが階段を駆け上がって転がり込むようにしてわたしの部屋に入ってきた。泣きじゃくっている。
 「だめにしてしまいました! だめに! キャパのフィルムが全部だめになってしまって!」
 思いがけない事態に、あわててわたしは彼と一緒に暗室に駆けつけた。現場での説明によると、いつものように床の電熱コイルで暖房して、乾燥キャビネット代わりに使っている木製ロッカーの中にフィルムを吊るしてのだが、急ぐようにとのわたしの指示もあって、ドアを閉めきりにいていた。すると換気がされていなかったので、フィルムの感光乳剤が溶けてしまったというのだ。わたしはその4本のフィルムを、1本ずつ頭上にかざして点検した。
 そのうちの3本は何も見えず、手の下しようがなかった。しかし4本目は映像のはっきりしている部分が11駒あった。おそらく35ミリのすべての映像を代表するものだろうが、粒子が粗いという欠点が――暗室での事故が、それを増幅させたかもしれないが――かえって効果を増して、それらは過去に撮影された最も劇的な戦場写真に数えられるようになったのである。
 その連続写真はキャパが歩兵部隊と共に海水につかって歩きだしたところから始まり、浜辺のあちこちに据えられた対戦車障害物の脇を越えて前進し、それらの障害物がじきに左右に倒れてゆく兵士の墓石と化していく様子をとらえていた。これだ、これだ、これで申し分なし。というわけで、Dデイは永久にこの一組の写真を通して記憶されることになった。》(モリス、14頁-16頁)
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 キャパの写真は無事検閲を通過して、大西洋横断航路の航空機発着場になっていたスコットランドのプレストウィックを経由してワシントンに運ばれ、ニューヨークの「ライフ」に届けられ、1944年6月19日号(第16巻25号)に、以下のキャプションとともに掲載された。『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』の記述に戻れば――
 《「上のもの〔波のなかを匍匐前進する兵士の写真〕と以下6頁にわたって掲載されている写真は、『ライフ』の写真家ロバート・キャパによって撮影された。彼は最初の部隊に同行していた。上陸の最初の報告では抵抗は小さかったとされたが、彼の写真は戦闘がいかに激しいものだったか、ドイツ軍の防衛がいかに頑強だったかを示している。彼の最良の写真は、地獄のような敵の砲火のなかを、あがきながら進むアメリカ軍兵士がノルマンディー海岸に到達するところを撮影したものである。」
 「ライフ」のニューヨークの編集部はキャパの写真について、「その瞬間の激しい興奮が、写真家キャパのカメラを震わせ、写真にブレをもたらすことになった」というキャプションをつけていた。さらに責任者は最初のうち、写真がだめになったのはカメラを海水で濡らしたせいだと語っていた。こうした不誠実な編集者の姿勢はキャパを怒らせるとともに、撮影した写真の権利をカメラマン自身が確保する必要性を痛感させたのである。
 のちに「マグナム・フォト」と名づけられる写真通信社〔写真家による共同エージェント〕の構想が、キャパの主導で生まれたことはよく知られている。彼は「ライフ」がスタッフ・カメラマンの撮った写真のネガと著作権をすべて管理する体制に不信と不満をいだいていた。キャパはもはや「ライフ」の専属カメラマンになる気はなかった。
 彼は自分の写真が、世界中の雑誌に売れるようになることを望んでいたし、その使用方法を自分で管理したいと考えていた。それには志を同じくする仲間で、写真通信社をつくることである。そうなれば高い報酬を請求でき、通信社の運営経費を差し引いても、十分にやっていけるはずであった。この計画を打ち明けられた、カルティエ=ブレッソンやジョージ・ロジャー、それにシムも同意していた。
 アメリカに渡ったキャパは、ニューヨークに拠点をもつウイリアム・ヴァンディヴァートとも話しあった。最初は「ヘラルド・イグザミナー」のために写真を撮り、のちに「ライフ」のスタッフ・カメラマンとして活躍してきたが、このときは「ライフ」をやめて、フリーで活動していた。
 キャパ、ヴァンディヴァート、彼の妻のリタ、戦前のパリで「アリアンス・フォト・エージェンシー」を経営していたマリア・アイスナーは、1947年の3月か4月のある日、近代美術館の最上階にある会員制のレストランで食事をとりながら、写真通信社設立の最終的な打ち合わせをおこなった。この重要な会合の正確な日付がわからないのは、だれも正確なメモをのこさなかったからである。
 この日の話し合いで、通信社の事業内容や「マグナム」という名称が決まった。「マグナム(Magnum)」とは、ラテン語から派生した言葉で、「大きい」という意味である。シャンパーニュやミネラル・ウォーターの壜の形容などに用いられ、普通の2本分、約1・6リットル入りの壜を指す。この日テーブルにシャンパーニュの大瓶がのっていたのかもしれない。だれがこの名称の提唱者かも不明だが、戦争報道で名をなした五人のカメラマンがつくる通信社の名前にはいかにもふさわしかった。会合にはカルティエ=ブレッソン、ロジャー、シムが欠けていたが、彼らは構想に基本的に合意していたから問題はなかった。このときカルティエ=ブレッソンは、ジョン・マルコム・プ゚リニンと本をつくる仕事でアメリカ各地をまわっており、シムはヨーロッパにあって破壊された都市をさまよう多くの浮浪兒の姿を追っていた。ジョージ・ロジャーはキプロス島に住居を移したばかりで、「イラストレイテッド」誌の依頼で、北アフリカに出発するべく準備中であった。
 その後の話し合いをへて、共同組合形式の写真通信社は5月22日に、ニューヨーク郡の役所で登記手続きがとられた。「マグナム」の創立50周年を期して刊行されたラッセル・ミラーの『マグナム、報道写真、半世紀の証言』(Russell Miller:MAGNUM / Fifty years at the front of history―the story of the legendary photo agency, Secker & Warburg, 1997、木下哲夫訳、白水社、1998年)に、登記されたマグナム社の定款が、以下のように引用されている。
 (a) 写真、肖像、画像、絵画に関連する事業を行う。・・・写真家、画家、芸術家の用具、素材、道具の売買、写真ならびにあらゆる種類の芸術作品の売買にたずさわる・・・写真に関するあらゆる種類の業務を、世界のすべての地域において遂行する。
 この定款に示されている通り、自分たちの作品を含めて会員の作品の著作権を管理し、それを売買することで利益をあげると同時に写真家や芸術家の権利を確保しようとしたのである。そのなかにはカルティエ=ブレッソンがもっとも固執した、絶対にトリミングをしないことも、条件に入っていた。
発足にあたって、発起人(5人のカメラマンと2人の女性)は、初期経費をまかなうために、それぞれ400ドルを出資することにした。通信社は会員のために手配した仕事については40パーセント、写真家自身がとってきた仕事は30パーセントの手数料をとる。さらに再掲載分のコミッションは50パーセントときめられた。
 戦前にエージェントの経験のあるマリア・アイスナーが年俸4000ドルで、事務局長兼経理部長兼パリ事務所の所長、夫の契約事務をあっかっていたリタ・ヴァンディヴァートが8000ドルで通信社の代表兼ニューヨーク事務所長に就任することになった。
 さらに、写真家にはカバーをする地域が割り当てられることになった。これは注文仕事をこなす上で、土地勘のある場所が有利であり、また移動のための旅費の節約にもなるはずだった。ヴァンディヴァートはアメリカ合衆国を受けもち、シムはヨーロッパ、カルティエ=ブレッソンはすでに撮影の経験のあるアジアと極東、ロジャーが中東とアフリカを選んだ。キャパは世界中どこへでも移動して仕事をこなす自由を認められた。》(同書、155頁-160頁)
 キャパはこうしてその後も世界を飛びまわり、戦争の現実と被害をうける民衆の姿を追い続けた。その彼が取材中のインドシナで死んだのは、1954年5月25日である。地雷に触れた爆死だった。 《この年の春、日本で取材をしていたキャパのもとに、「ライフ」から取材依頼が舞い込んだのは4月末のことである。「ライフ」のスタッフ・カメラマンの母親が病気になり、その代わりにインドシナ戦争を取材してほしいということだった。提示された報酬は、30日間の拘束に対して2000ドル。それに東京からの旅費と2万5000ドルの保険金をかけるという条件だった。
 キャパは「カメラ毎日」(この年に創刊)のために、5月1日のメーデーを撮影する約束があり、取材を済ませるとその夜にバンコクへ飛び、そこでヴィザが下りるのを待った。ハノイに着いたのは5月9日で、激戦のあとディエン・ビエン・フーが、ホ・チ・ミンの率いるヴェトミンの手に落ちた2日後であった。キャパはハノイを拠点に戦時下の市民の生活や、戦闘場面を取材した。
 5月25日、ナム・ディンという街の郊外で、フランス軍の掃討作戦が行われるのを取材するために、二人の仲間とジープででかけた。この日の午後、キャパは野原を前進する兵士たち撮影するため、草の生えた堤防を上ろうとして、ヴェトミンの地雷を踏んでしまったのである。仲間が駆けつけたとき、キャパは仰向けになっていた。左足は吹き飛ばされ、胸がえぐられた状態で、かすかに息があった。すぐ救急車両で五キロ離れたドンキトンに送られたが、そこでキャパは死んだ。40歳。アメリカ人特派員としては、インドシナ戦争で最初の犠牲者だった。
 キャパ死亡のニュースは、数時間後にはパリとニューヨークに届いた。みなが衝撃をうけた。たまたまこの日、「マグナム」のもう一人の仲間であるヴェルナー・ビショフが亡くなったという知らせが、ペルーから届いたばかりだった。ビショフが地理学者と同乗していたステーション・ワゴンが山道を走行中に、路面で横滑りして500メートル近い下の谷底へ転落したのである。事故がおこったのは5月16日だったが、悲報がニューヨークに届いたのがこの日だった。「マグナム」は同時に二人のカメラマンを失った。とりわけキャパの場合は、創設以来の中心メンバーだっただけに打撃は大きかった。
 カルティエ=ブレッソンは、ちょうどローマでの仕事を終えてパリにもどったとき、このニュースを電話で聞かされた。電話を最初にとったのは妻のラトナだった。彼女はビショフの事故を知っていたから、電話が鳴るとすぐに受話器をとった。だが、伝えられたのは思いがけないキャパの死だった。カルティエ=ブレッソンは、彼女が、「なんですって? どうして? キャパが? まさか!」と叫ぶのを聞いたという。
 キャパが亡くなって一週間後の日曜日に、ニューヨークの教会でキャパとビショフの追悼式がいとなまれた。カルティエ=ブレッソンは、のちにキャパのことをこう書いている。
 「私にとってのキャパは、輝かしいマタドールにふさわしい衣装をまとっていた。しかし、彼はけっして殺しはしなかった。偉大なるプレイヤー。彼は旋風のなかで、彼自身のために十分に闘った。栄光の頂点にいるときに打ち倒されるように運命づけられていたのがろうか。」》(同書、200頁-202頁)
 キャパはインドシナでは、2台の35ミリ判レンジファインダーカメラで仕事をしていた。ツァイス・イコン製のコンタックスⅡaにはモノクロフィルムを装填し、東京で贈られた日本光学製のニコンS(当時は34×24ミリという特殊なサイズだった)にはコダクロームを入れていた。こちらのカラーフィルムで撮った最後の写真には稲田を堤防に沿って進む大勢のフランス兵の後ろ姿が写っていた。
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by monsieurk | 2013-02-27 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)