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ムッシュKの日々の便り

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エピクロスの神(3)

 1417年の恐らくは1月、ポッジョ・ブラッチョリーニはドイツの修道院を訪れた。それがどこだったかをポッジョは明らかにしていないが、研究者の間では、ベネディクト会のフルダ(Fulda)修道院だった可能性が高いとされている。8世紀に、ローヌ川とフォーゲスベルク山地の間にひろがる中部ドイツに建設され、裕福で代々学問を重んじる修道院だった。だがこの時期は衰退しつつあった。
 グリーンブラットは、ポッジョが訪れたのがフルダ修道院だったとすれば、そのときの様子は以下のようだったろうと想像している。
 「主任司書にアーチ型天井の広々とした部屋に案内され、司書の机に鎖でつながれた一冊の本を見せられたとき、ポッジョの胸は高鳴ったことだろう。その本は蔵書目録だった。ポッジョはページをめくっては熱心に目を走らせ、閲覧を希望する本を次々に指さした――図書館における沈黙の規則は厳格に守られていた。(中略)
 ポッジョの発見は、最も小さな発見を含めて、どれもきわめて重要性の高いものだった――何百年という長い歳月を経て出現したのだから、すべてが奇跡的な発見のように思われた――しかし、それらの発見はすべて、(現代のわれわれの観点からするとそうでもないのだが)あっという間に影が薄くなってしまった。それまで見つけた他のどの作品よりも、もっとずっと古い作品が見つかったからである。その写本の一つが、紀元前50年頃に書かれた長い作品で、作者は詩人で哲学者のティトゥス・ルクレティウス・カルスという人だった。その題名『デ・レルム・ナトゥラ(物の本質について)』は、ラバヌス・マウルスの有名な百科全書『デ・レルム・ナトゥラ』に驚くほどよく似ていた。しかし、修道士が書いたほうの作品は退屈で月並みな内容だったのに対して、ルクレティウスの作品は危険なまでに過激だった。(中略)・・・ポッジョにはすぐにわかっただろう。ルクレティウスのラテン語の詩は、びっくりするほど美しいと。そしてポッジュは、連れてきた筆写人に書き写すように命じ、すぐさまこの作品を修道院から解放したのだった。この本はその後、ポッジョの生きる世界をまるごと解体するのに一役買うことになるのだが、そんな作品を自分が世界に広めようとしているという予感がポッジョ自身にあったかどうか、定かではない。」(同書、65頁―67頁)
 このとき筆写されたのは7400行からなる六歩格(hexameter)のラテン詩で、6巻に分かれていた。そして詩全体はギリシアの哲学者エピクロスが論じた世界をうたっていたのである。このときポッジョによって発見された本は残されていないが、彼はニッコロ・ニッコリに写本を送り、ニッコリはそれをもとに美しい筆致でさらに筆写本をつくった。ニッコリは名筆家で、イタリック書体の創設者としても知られている。ニッコリの写本は50冊以上にのぼり、識者のあいだで珍重された。ポッジョはニッコリが彼のオリジナルの写本をなかなか返してくれないと嘆いているが、その後、ポッジョが送った写本は発見されて、いまはライデン大学に保存されている。
 ルクレティウスの生涯については、今日ほとんど知られていない。生年は紀元前94年、没年は紀元前54ないし51年、もう少し長く生きたとすれば紀元前40年代という説もある。そして彼はこの長篇詩を紀元前1世紀に書いたとされる。それというのも初期キリスト教がルクレティウスを敵視して、彼の生と死を貶めようとしていたからである。
 この事実からも分かる通り、彼の名と作品は同時代の人たちには注目されていた。キケロは紀元前54年2月11日付けの弟クィントゥスに宛てた手紙で、「ルクレティウスの詩は、君が手紙で書いていたように、素晴らしい才能に溢れているが、それでいて非常に芸術的だ」と述べている。またローマ最大の詩人ウェルギリウスは『田園詩』のなかで、「事物の原因を見つけることができた者は幸いである。そしてあらゆる恐怖と容赦ない運命と貪婪なアケロン(冥府の川)の轟音を踏みつけることができた者は幸いである」と書いている。これは明らかにルクレティウスを指しているが、ウェルギリウスは信仰心が篤く、その代表作『アエネイス』は、まさにルクレティウスの思想に対抗するために書かれたものであった。
 これらに加えて、ルクレティウスの『物の本質について』が当時広く読まれていた証拠が、1750年になって見つかった。ナポリ湾に臨むレジナは、紀元79年8月24日に起きたヴェスヴィオス火山の大爆発で、ポンペイなどとともに火山灰に埋まったが、この地にあった古代都市ヘルクラネウムが見つかり、ある別荘跡から黒焦げになった多くのパピルスの巻物が発掘された。これらを慎重に復元してみると、その一つが『物の本質について』であることが分かったのである。
 6巻に分かれた詩はきわめて綿密な構想のもとに書かれていて、宇宙の構成要素である原子と虚空、原子による世界の現象の説明、霊魂の本質と死すべき運命などをテーマにしつつ、物質世界のあり方、人間社会の発展、性の危うさと快楽、さらに死について説いている。とりわけ異彩を放つのは、そこに述べられている神に関する記述である。その点をグリーンブラットは、次のように要約している。
 「ルクレティウスがもたらした疫病の一つの簡潔な名前――彼の詩がふたたび読まれはじめたとき、たびたび向けられた非難の言葉――は、無神論である。だが、じつはルクレティウスは無神論者ではなかった。神々は存在すると信じていた。しかし、神々は神々であるがゆえに、人間や人間のすることにはまったく関心がない、とも信じていた。神は神々であるがゆえに、永遠の生命と平和を享受し、その生命と平和が苦悩や不安によって損なわれることはなく、人間の行為など神にとってはどうでもよいことだ、とルクレティウスは思っていた。(中略)
 ・・・もしも神々の荘厳な美しさに惹かれて神殿を訪れることにしたとしても、「平和と平穏のうち」に暮らす神々の姿を夢想するだけなら、害にはならないだろう(6巻78行)。しかし、これらの神々を怒らせたり、なだめたりすることができるなどとは一瞬たりとも考えてはならない。行列祈祷、動物の生け贄、熱狂的な踊り、太鼓やシンバルや笛、大量の真っ白なバラの花びら、去勢された神官、幼子の神の彫像。このような崇拝儀式は、それなりに荘厳で感動的なものではあるが、すべてまったく無意味である。なぜなら、そうした儀式によって彼らが触れようとしている神々は、われわれの世界から完全に切り離された、別の世界にいるからである。」(同書、228頁―229頁)
 ルクレティウスは本質的には無神論者であったといえる。そして彼はこの考えを古代ギリシアの哲学者、エピクロスから得たのである。彼は第1巻の冒頭近くで、エピクロスを、こう讃えている。
 「人間の生活が重苦しい迷信によって押しひしがれて、
  見るも無残に地上に倒れ横たわり、
  その迷信は空の領域から頭をのぞかせて
  死すべき人間らをその怖ろしい姿で上からおびやかしていた時、
  ひとりのギリシア人(エピクロス)がはじめてこれに向かって敢然と
  死すべき者の眼を上げ、はじめてこれに立ち向かったのである。
  神々の物語も電光も、威圧的な空の轟も
  彼をおさえなかった。かえってそれだけいっそう、
  彼のはげしい精神的勇気をかりたてては、自然の門の
  かたい閂をはじめて打ちやぶることに向かわせた。
  そこで宗教がこんどは踏みつけられてくずおれた
  ・・・・・・
  これによってこんどは宗教的恐怖が足の下にふみしかれ、
  勝利は私たちを天にまで高めた。」(De rerum natura、第1巻、62-79行、藤沢令夫、岩田義一訳)
by monsieurk | 2013-03-16 20:29 |
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