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ムッシュKの日々の便り

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エピクロスの神(4)

 エピクロスは生涯に多くの著作を残したが、そのほとんどは失われてしまった。ただ、紀元3世紀ごろのディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertios)は、その『著名な哲学者たちの生涯と意見』の第10巻すべてを使って、エピクロスの生涯を述べた上で、彼の三つの書簡と、断片40条を集めた「主要説教」を紹介している。後世の人たちは、これによってエピクロスの思想を知ることができたのである。
 エピクロスはサモス島に移住していたアテナイ人の父母のもとで生まれた。父は子どもに読み書きを教える先生だったが、当時のギリシアで、教師は女性や家内奴隷と同じく社会的な地位が低く、経済的にも恵まれなかった。
 エピクロスは12歳、ないし14歳のときに哲学の勉強をはじめたとされる。その後、成年とされる18歳でサモスからアテナイへ移ったが、2年間の兵役義務をはたすためと考えられる。これは紀元前323年のことで、この年の夏、アレクサンドロスが遠征の途上バビュロンで没し、これを機にアテナイをはじめギリシア各地で武力蜂起がはじまった。しかしこの反マケドニア運動は1年足らずで弾圧され、マケドニアの軍政がさらに厳しさを増す結果に終わった。この間のエピクロスの動向は伝わっていない。
 ディオゲネスなどによると、エピクロスは35歳のころ、わずかな金で小さな土地を買って家族と住み、そこに多くの弟子を集めた。この集まりは「庭園学校」と呼ばれ、彼らは平静な心境を求めて哲学研究に努めたとされる。
 ディオゲネスの第10巻におさめられている3つの手紙、「ヘロドトス宛ての手紙」、「ピュトクレス宛ての手紙」(エピクロスの真作か否かについて議論がある)、「メノイケウス宛ての手紙」は、エピクロスの思想をよく伝えている。「ヘロドトス宛ての手紙」では、まず宇宙とその構成要素について次のように述べる。
 「(a)まず第一には、有らぬもの(ト・メー・オン)からは何ものも生じない、ということである。なぜなら、もしそうでないとすれば、何でもが何からでも任意に生じるということになって、種子は全く必要でないことになるだろうから。(b)もしまた、ものが見えなくなったとき、それはそのものが消滅して有らぬものに帰した(全くなくなった)とすれば、あらゆる事物はとうになくなってしまっているはずである。なぜなら、それが分解されていったさきのものは、有るものではないのだから。(c)さらにまた、全宇宙は、これまでもつねに、今あるとおりに有ったし、これからもつねに、そのとおり有ろう。(中略) 全宇宙は物体と場所とである。」(岩崎允胤訳)
 エピクロスが説くのは唯物論の基本命題である。何ものも「有らぬもの」からは生まれず、「有らぬもの」へと滅びることもない(nil e nilo, nil in nilum)。「有るもの・物体」は恒にあるという、物体とその運動の不滅性の主張である。そして物体についてこう定義する。
 「物体のうち、或るものは合成体であり、他のものは合成体をつくる要素である。そして、これらの要素は、――あらゆるものが消失して有らぬものに帰すべきではなく、かえって、合成体の分解のさいには、或る強固なものが残存すべきであるからには、――不可分(アトマ)であり、不転化である、つまり、それらは、本性上充実しており、どんなものへも分解されてゆきようがないのである。したがって、根本原理は、不可分な物体的な実在(原子)でなければならぬ。」(同)
 これはデモクリトスの原子論をうけついだものだが、エピクロスはデモクリトスの考えを発展させ、原子(アトム)に固有の重さをあたえた。原子はこの重さによって落下し、自己運動をする。さらに原子は落下する途中で、まったく定まらない時と場所で――つまり偶然に――わずかに方向がずれる(グリーンブラットが強調するswerve)。この考えは原子の運動に偶然という契機を導入したもので、事物の運動は必然と偶然の統一であるとした。そしてここから自由意志も生じる。
 エピクロスはこの原理を魂(プシュケー)にも当てはめる。魂はアトムから成る物体であって、人間という集合体全体に行きわたっており、身体ともよく共感している。もし魂が身体につつまれていなければ、魂は感覚をもつことはないだろう。逆に、魂が身体を離れ去ったときには、身体は感覚をもたない。魂と身体は隣接し、互いに共感しあっているから、身体にも感覚という付帯的能力をあたえることになったのである。
 こうしたエピクロスの思想から、「メノイケウス宛ての手紙」に述べられるような死生観が生まれることになる。
 「死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものも悪いものもすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいして限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。(中略) 死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとってなにものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも関わりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものにはもはや存しないからである。」(同)
 当時のローマ帝国内にはさまざまな信仰があり、なかには悪人や救われない者が死後において地獄の刑罰をうけるといった教義もおこなわれていた。エピクロスはこうした妄説を一蹴するものであったが、新たに登場したキリスト教は、この死後という観念を取り上げて、永遠の脱地獄という不安と恐怖を強調して宣教に利用した。これは死が人間にとって最終的なものであるという考え以上に、人びとの心を激しく揺さぶった。しかしデモクリトス以来の原子論をうけついだエピクロスにすれば、「無からは何もの生じない(ex nihilo nihil)」のであって、神による「無からの創造(ex nihilo creatio)」という観念的主張は虚妄でしかない。
 「天界・気象界の諸事象の起こるのは、普通には、或る存在〔神〕が、不死性とともに完全無欠な至福性を有するものでありながら、しかも同時に、公的な任務をもち、これらの事象を現に主宰しているためか、あるいは、これまで主宰してきたためである、と考えられているが、そのように考えるべきではない。というのは、骨折り仕事や気遣いや怒りや恩恵などは、至福性と合致せず、むしろ、弱さや恐怖や隣人への依存などの存するところに生じることだからである。」(同)
 つまりエピクロスの神は、それ自体が至福の存在であるという本性上、万象を創造することには無関心であり、ましてや人間の生死、幸不幸などには見向きもしない存在なのである。
by monsieurk | 2013-03-19 20:30 |
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