ピカソとプレヴェール
プレヴェールが若い写真家のヴィレールを知ったのはピカソの紹介だった。ヴィレールは重いカルシュウム欠乏症を患い、5年もの間、南フランス、コート・ダジュールの避寒地ヴァロリスで入院生活を余儀なくされた。そして幸い快癒したとき、ピカソは新品のローライフレックスを贈り、ヴィレールが写真家として成功するきったけをつくったのである。
ヴィレールはピカソの素晴らしい肖像写真を幾枚も撮り、ピカソはこれにテクストを寄せてくれるようにプレヴェールに頼んだ。こうして生まれたのが三人の共作になる最初のアルバム『ピカソの肖像』だった。これは1959年5月に、ミラノのミュジアーニ書店から出版された。
3年後、画家と写真家と詩人は二作目のアルバムをつくり、パリ7区リュニヴェルシテ通り70番地で画廊を経営するベルグリューン(Heinz Berggruen)が刊行した。ベルグリューンはドイツ生まれのユダヤ人で、ヒトラーが政権を握った直後にパリへ来て画廊を開き、ピカソをはじめ多くの現代画家と親交をもった。彼は版画家浜口陽三の才能を見抜いて世に出した人物としても知られている。
誌画集のタイトルを考えついたのはプレヴェールで、ヴィレールは、「みなは夜についてはもううんざりしていたからだ」(『ヴァロリスのピカソ』)と述べている。これは陽光を愛するピカソを大いに喜ばせた。画家と写真家が協同した30点の作品は、紙やリノリュウムを素材にしたデクパージュ(切り抜き)を、写真家が撮った、風景、顔、樹木などの写真と重ねあわせたコラージュや、さらにそれをもう一度写真に撮ったものなどで、それにプレヴェールがテクストを書いた。テクストの前半を訳してみる――
昼間
もしこの世に「世界」の七不思議しかないのなら、それをわざわざ見に行く必要はないだろう。
海について、女性たちについて、あるいは太陽について語らなくても、石ころ一つ一つにも物語がある。個々の雑木には手つかずの森が、どの廃墟にもその万里の長城や、エトルタの断崖があり、そして道の小さな曲がり角には空中庭園がある。
人間の梯子はごく大雑把な道具で、男たちのなかの一番の禿げ頭の上のシラミの一番醜い奴だって、何ものかだ。
砂の極小の粒さえ自然の偉大さである。でも自然は誇大妄想ではない。それは自然だ。
そして自然はその緑の部屋のなかでは、写真家と画家に力を貸し、さまざまな装飾をまとった肖像、その色彩の反響のすべて、自然の演じるバレエのすべての登場人物が大きく育つのを助ける。
昼間・・・
写真家の名前はアンドレ・ヴィレール。彼がつくった背景では、朝日がゴルフ・ジュアン〔ヴァロリスがある地域〕で伸びをして、カマレ〔ブルターニュの場所〕の娘たちと一緒に沈む前に、ヴァロリスとカリフォルニアを横断する。
アナーキーな建築家は、石膏、米粒、小石、水鏡、地平線、雲、荷造りの箱、大聖堂のガラス、陸地、海、野ブドウ、伸び放題の草、アスパラガス、包帯、カーテン、雷に打たれたオリーブの木でオブジェをつくる。
振付師はパブロ・ピカソ、音楽家でもある。
彼は登場人物を、光と、ハサミと、ほかの場合同様、鉛筆と、筆と、手慣れた道具である仕事師の手、傑作を生み出す手とでつくった。
そして彼が歪曲したり、変形したり、そのまま描いたりしても、自然は恨みはしない。
自然は自然、秘密の自然、開かれた自然、自然のままの自然。
それは私生児だ。
昼間・・・
彼は、馬に乗った女が歌った曲、男が小鳥から、猫どもから、魔術師が闘牛から取り返した曲を奏でた。
彼は、既婚女性を美しすぎもせず、美しくなさすぎもせず、そのままの美しさで描いた。
そしてこの小さな牧神たち、この小妖精たち。彼らの名前を知りたいというなら、彼らはイックとニュック、あるいはウルビとトルビという。彼らがそこにいるのは、良いことは、郷愁に対するのと同じほど絶望に対するアレルギーに思えるからだ。そして彼らは何ごとにも一言意見を述べる。
ウルビ
おそらく、私はそうありうる者だ。
トルビ
多分、わたしはそれを疑う者だ。
イック
太陽の下には何も新しいらものはない。
ニュック
でも中では?
・・・・・
・・・・・
こうしてプレヴェールお得意の、地口や洒落、語呂合わせを駆使して風刺のきいた会話が繰り広げられる。このテクストがピカソとヴィレールの作品と相まって、シュルレアリスム風味が横溢する奇跡の一冊を出現させたのだった。1962年に1000限定で出版されたアルバムは、ロンドンの有名なサザビーやパリの競売場オテル・ドゥルオにときどき出品されるが、驚くほどの高額で落札される。