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ムッシュKの日々の便り

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天井桟敷の人びと(4)

 プレヴェールは1943年2月17日、ディシナ社と2本の映画を製作する契約を交わした。『フュルナンビュル座』の準備を進めていたカルネとプレヴェールには、映画を構成する要素が多く、登場人物も大勢になることが予想された。
 ドビュローとフレデリック・ルメートルの舞台を描くのには、彼ら二人のスターを取り囲むさまざまな人物を登場させる必要があった。そのため映画は通常の長さではとても納まりきらない。『悪魔が夜来る』の成功をうけて、プロデューサーのポールヴェは、大抵のことは認めてくれたが、採算が確保できるかが最大の問題であり、映画の長さは直接これに関係した。二人から話を聞いたポールヴェは、このテーマで時代を異にする2部からなる映画を製作することにした。
 契約を結んでからは、プレヴェールは本格的に脚本に取りかかった。今度の作品はこれまでのような原作の脚色ではなく、シナリオも台詞もすべてオリジナルなものを創作しなければならないが、それだけにやり甲斐もあった。
 『フュルナンビュル座』のテーマは彼に馴染みの世界だった。1830年代の芝居の世界は遠い過去ではなく、子ども時代に垣間見たものだった。18歳のときサッシャ・ギトリが演じる『ドビュロー』の舞台を観ていた。さらに彼が25歳のとき、ジャン・エプスタイン監督の映画『ロベール・マケールの冒険』が上映され、これは19世紀の芝居の世界で起こった史実をもとにした作品だった。
 1823年7月、アンビギュ=コミック座で初演された三幕物のメロドラマ『アドレの宿』は、ならず者の主人公ロベール・マケールがさまざまな悪事を働くが、最後は天罰が下るという勧善懲悪の芝居だった。ところがこの芝居でフレデリック・ルメートルが演じたマケールが人気者となり、復活を望む声が多く寄せられたことから、ルメートルを中心にした新たに四幕六景の『ロベール・マケール』が上演された。これはマケールと相棒のベルトランが次々に引き起こす騒動と、彼らが繰り返す政治や社会批判が人気を呼んで大ヒットとなった。
 ロベール・マケールは社会の既成秩序に反抗する一典型として、バルザック、ヴィクトル・ユゴー、フロベールといった作家も感心を寄せ、エプスタインはこの芝居をもとにして1929年に映画を製作したのである。
 プレヴェールがこの映画を通してロベール・マケールの存在を知り、どれほど興味を惹かれたかは、親友のイヴ・タンギーの結婚式の証人になったとき、マケールの扮装をまねて右目に黒い眼帯をしていたことでも分かる。プレヴェールはやがて『フュルナンビュル座』のシナリオに、ルメートル役の役者が劇中劇の『アドレの宿』の場面で、ロベール・マケールを演じる場面を挿入することになる。
 19世紀の芝居の世界は、若いときに舞台俳優を志したプレヴェールの父の世代にまでつながっていた。芝居の世界に生きる夢がかなわなかった父は、一時息子が跡を継いでくれることを望んだように、フレデリック・ルメートルやドビュローの世界は、父を通して彼の子ども時代まで続いていたのである。
 プレヴェールは、19世紀の20年代から30年代の「犯罪大通り」の人間模様を描くために、ドビュローとルメートルという実在した演劇界の大立物に加えて、第三の人物ラスネールを見つけ出した。そのモデルになったピエール=フランソワ・ラスネールは、1800年12月にリヨンで生まれ、少年のころから窃盗などの犯罪を重ね、父親に「お前の行く末はギロチン台だ」といわれた。
 長じては刑務所入りを繰り返し、そこから雑誌にシャンソンや詩、あるいは時事評論を投稿して一部の人たちに注目され、最後は金を奪うためにパリで老婦人とその息子を殺害して逮捕された。そして裁判では父親の予言通りにギロチンで処刑されたのだった。プレヴェールはこのラスニエールを物語に登場させることで、犯罪大通りのもう一つの側面、悪と破壊の情念を表現しようとしたのである(実在の彼については2012年2月20日のブログ「ピエール=フランソワ・ラスネール」を参照)。
 そしてこれら三人の人物の運命を結びつけ、複雑にからみあわせる役として、どうしても一人の女性を生み出す必要がった。プレヴェールがこの役柄を思いつくのに大きな影響をあたえたのが、妖艶な女優アルレッティの存在だった。
 彼は最初からアルレッティの出演を想定して、ガランスという謎にみちた魅力的な主人公をつけ加えることにした。『フュルナンビュル座』のシナリオの骨格は、こうして次第に固まっていった。
 プレヴェールの回想によれば、ヴァレットの小修道院付属の住居で、プレヴェールを中心に、美術担当のアレクサンドル・トロ-ネ、作曲家のジョゼフ・コスマはアイディアを出し合いながら、シナリオ制作の作業を行った。占領下で、いつ警察のユダヤ人探索の手が伸びるかもしれない緊迫した状況のなかで、彼らは一カ所に集まって生活しつつ仕事を進めたのだが、これが団結を強め、仕事の濃度を高めるのに役立った。      
天井桟敷の人びと(4)_d0238372_838445.jpg プレヴェールがあるシーンのストーリーを書くと、そのシーンに合わせてコスマが音楽をつくり、メロディーをその場でピアノで聞かせる。メロディーに合わせて、プレヴェールがまたストーリーを変えていくというやり方だった。そしてトローネがこれに相応しい舞台装置のデッサンを描く。それがまたプレヴェールの想像力を刺激した。こうした相互作用の効果は抜群だった。
 南の自由地域とパリの間を一番往復したのはマルセル・カルネだった。1830年代の「犯罪大通り」の風俗や歴史を知るのに欠かせない資料を、パリに関する豊富な歴史資料を所蔵する「カルナバレ博物館」へ行って集めてくるのが彼の主な仕事だった。こうして集められた材料は仕事場に変わった食堂に集められ、みながそれを活用した。
 プレヴェールとトローネの友人である画家のマイヨが衣装を担当することを引き受けた。彼にはこれが最初の映画の仕事だったが、さまざまなアイディアを出した。女主人公ガランスのハート形のイヤリング、ナタリーが首のまわりつける十字架、バティストのぴったりした服、ラスネールのしゃれた服装。だがそれもエドゥアール・ド・モントレー伯爵の前では輝きを失ってしまう・・・こうした登場人物を象徴し、プレヴェールが考える物語の展開に意味をあたえることになった。さらにマヨの彼の妻は服飾店のランヴァンの勤めていて、布地のストックを融通してくれることができた。
天井桟敷の人びと(4)_d0238372_8383779.jpg トローネの装置にはデッサンと建設で3カ月を要した。一番重要なのは「犯罪大通り」で、大勢の登場人物を仕込むために、80メートルの大通りのセットに加えて、その先にさらに20メートルのだまし絵の書割をつくる必要があった。トローネはこのための色彩による下絵を描いた。彼は建築家である前に画家だったから、装置はいつも模型ではなく絵で示された。
 このデッサンに基づいて、カンヌのラ・ヴィクトリーヌ撮影所では、『悪魔が夜来る』のセットに代わって、映画『フェナンビュル座』の巨大なセットが出来上がりつつあった。装置の組立はレオン・バルサックが指揮した。トローネは小修道院の住居を離れることができなかったからである。
プレヴェールは映画の封切り後の1945年4月、「アクシオン」誌上で、セシール・アゲの質問にこう答えている。
 「あなたはこの物語を書くのに長い時間を費やしたのですね。
 ――6か月。長い時間です。でも映画も長いものです。
 ――仕事はどんな具合に進めたのですか?
 ――共同で・・・いつもの通り。
 ――共同で?
天井桟敷の人びと(4)_d0238372_8383242.jpg ――そう、他の人たちと、同じ家で・・・監督のマルセル・カルネ、衣装をデザインしたマヨ、装置を担当したバルサックとトローネ、彼は働くのを禁じられていたんだが、そして音楽家のジョゼフ・コスマたちと一緒に。コスマもトローネ同様働く権利はなかったのだけれどね。彼らはみなこの仕事を愛していたし、そのやり方を心得ていた。・・・
 ――みなさんはお互いによく理解し合っていたのですか?
 ――奇跡みたいにね。シナリオが出来上がり、映画の準備が整ったとき、カルネが撮影をはじめたわけだ。それは恐ろしく困難な仕事だったが、彼はこれまで以上に見事にやってのけた。間違いなく最良の出来だった。彼は驚くべき監督だよ。その上、人間としてはとても謙虚なのだ。私は彼が大好きで、もう7本も一緒に映画をつくった。」
by monsieurk | 2013-04-10 22:30 | 映画
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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