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横浜「ゲーテ座」Ⅰ

 前回のブログでは明治・大正の東京にあった牛鍋屋「いろは」のことを書いたが、当時の牛鍋を味わおうとすれば、横浜市中区末吉町に店を構える「太田なわのれん」を訪ねることである。ここは明治元年(1868年)、高橋音吉がはじめて牛鍋屋を開いて以来、伝統の味をまもっている。
 音吉は最初、牛肉を串に刺して焼いたものを出していたが、やがて生の牛肉を醤油か味噌のタレで煮て、臭みを葱で消すなどの工夫を凝らすことを考えつき、やがてこれが「太田の牛屋」と評判になった。「太田」の入口には当時用いられた底の浅い鉄鍋が飾ってある。
 横浜には開港直後から外国人が住む居留地(settlement)が設けられ、そこには学校、病院、教会、競馬場、ビール工場、劇場などがつくられて西洋風の街が出現した。それらは関東大震災で灰燼に帰したが、面影はいまも偲ぶことができる。そんな一つが「ゲーテ座」である。
 いま山手の外人墓地の隣に岩崎記念館「ゲーテ座」があるが、横浜に居留した外国人の社交場であった劇場「ゲーテ座」は、もともとは本町通り68番地にあった。本町通りが元町の高速道路にぶつかる左手前のあたりで、「旧ヘボン邸」の標識がたっている近辺である。
 幕末に横浜へやってきた居留民は娯楽に飢えており、自分たちで芝居を演じては楽しんだ。これはどの開港場も同じで、欧米列強のアジア進出にともない、イギリス人やフランス人が住みついた港町には、アマチュア・ドラマチック・クラブ(ADC)がつくられるのが常だった。1833年にはシンガポールで最初の素人芝居が行われ、1850年には上海でADCが最初の芝居を上演した記録が残っている。
 安政5年(1858年)7月29日、日米修好通商条約が締結されて横浜に居留地がつくられると、まずは港に停泊中の軍艦の乗組員たちが陸に上がって音楽を演奏し、やがて芝居をみせて人気者になった。
 横浜の劇場の歴史については、イギリス近代演劇が専門の升本匡彦『横浜ゲーテ座―明治・大正の西洋劇場―』(横浜市教育委員会、1978年)が詳しく、この貴重な研究をもとに横浜の芝居の歴史をたどってみることにする。
 横浜の居留地には慶応元年(1865年)に、ロイヤル・オリンピック劇場(The Royal Olympic Theater)が出現した。ただ劇場とはいえ、これは空き倉庫を借りた臨時のもので、ここで1865年から66年にかけて、イギリス軍将兵がしばしば芝居を演じ、音楽会なども催された。横浜居留地の中国人は欧米人の日本進出にともないやって来たが、彼らは欧米人に先だって、自分たちが娯楽を楽しむ劇場を居留地135番につくった。これが「同志戯院」で、のちには「和親戯院」とも呼ばれ、普段は賑やかな音曲の中国芝居が演じられたが、ときには欧米のアマチュア・クラブもここを借りて自分たちの芝居を観せたのである。
 こうなると自分たち専用の劇場がほしくなるのが人情である。そこでオランダ人の商人ノールトフーク・ヘフト(M.J.B. Noordhoek Hegt)が、本町通り68番地にあった彼の事務所の裏に、慶応2年(1866年)に劇場の設備をもった倉庫を建て、アマチュア劇団もここで芝居を上演するようになった。
 当時横浜で刊行されていた英字新聞「デイリー・ジャパン・ヘラルド(The Daily Japan Herald)」の慶応3年(1867年)3月の紙面に、新劇場建設のための出資を呼びかける記事が載っている。
 「コンサートや演劇、その他の公演が行われる劇場の建設の必要性が長きにわたって痛感されてきた。小さな劇場の建設は、単に居留地のアマチュアたちの芝居や音楽の才能を発展させるだけでなく、世界中からプロフェショナルを呼ぶことを可能にする。これによって居住者やこの地を訪れる多くの人たちに、夏の数カ月のあいだの娯楽と楽しみを提供することが期待される」として、建設資金を調達するためにヨコハマ劇場株式会社を設立して、一株25ドルで320株を発行して、8000ドルの資本金を集めるとしている。
 次いで明治元年(1868年)6月27日付けの新聞「ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル(The Japan Times Overland Mail)」は、新しい劇場が生まれたことを伝えている。だが残された資料からは、この劇場がどこにつくられたかは分からない。
 横浜の居留地でイギリス人やフランス人のアマチュア劇団が結成されたのは、慶応3年(1867年)のことであった。明治元年9月の「ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette)」紙によると、欧米人の居留民の合計は570人で、内訳はイギリス人260人、アメリカ人80人、フランス人60人、ドイツ人70人、オランダ人50人、その他50人となっており、それが2年後の1870年には942名に増えている。居留民の他にも、1863年以降は居留地警護の名目でイギリスとフランスの軍隊が駐屯しており、アマチュア劇団は芝居好きの居留民に加えて、駐屯する将兵や横浜の港に錨をおろした船の乗組員もメンバーだった。
d0238372_081919.jpg 明治3年(1870年)12月には、先の資本金募集が功をそうして、本町通りに石造り平屋の新たな劇場が完成した。場所は本町通り68番地、ヘフトが芝居も上演できる倉庫をつくったのと同じ場所で、最初のものとの関係は目下のところ不明だが、これが最初の「ゲーテ座」だった。
 新聞「ファー・イースト(Far East)」の12月16日号には、次のような記事が載っている。
 「アマチュア劇団は、バーレスク『アラディン――素敵な悪漢――』と笑劇『可愛い坊や』をみごとに上演して、シーズンと新劇場の幕をあけた。
 とくにアマチュア劇団のために建てられ、非常に有利な条件で貸しだされるこの劇場は、間取りが十分にとられ、音響効果も良好である。舞台は十分に広いので、劇団はどのような作品も上演できるであろう。大道具や小道具類は数も多く、立派である。
 劇団員の大部分は私たちの古くからの友人で、私たちはしばしば好意的な批評を行なってきた。初日の意気込みと成功は、彼らがすでに得ている支持をさらに増す良い兆しとなるに違いない。・・・
 イギリス第10連隊第1大隊の軍楽隊が幕間に演奏した。しかしバーレスクの劇中音楽は、コラード・アンド・コラード社の素晴らしいピアノによって伴奏され、この種の芝居で聴きなれたどの演奏にも優る出来ばえであった。バーレスクが終わったとき、観客は全員大変楽しい一夜をすごしたと語っていた。」
 ところで、ここまで劇場の名前を通称通り「ゲーテ座」と書き、実際いま山手の外人墓地の隣にある岩崎記念館「ゲーテ座」の案内板にも、〈The Goethe Theatre〉と書かれているが、これは明らかに間違いである。外国人居留民が楽しんで通ったのは、「The Gaiety Theatre」であり、正確には「ゲイェティ」と発音すべきものである。英語のgaietyとは、「楽しみ」、「陽気」、「華美」などの意味で、さしずめ「有楽座」といったところだろうか。
 当時ロンドンにあった有名な「ゲイェティ座」を懐かしんで命名したもので、この劇場は、「エンパイア座」、「アルハンブラー座」と並ぶ人気劇場の一つで、一流の俳優たちはこれらのうちのどこかに出演して、流行だったオペラ・コミックを演じて芝居好きのロンドンっ児を楽しませた。なお、いま「ゲーテ座」が建つ山手256、257番地に「ゲイェティ座」が移ったのは明治18年(1885年)のことである。
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 故国を遠く離れて極東の港町に住んだ人たちは、天井から吊るされたガス灯がゆらめくもとで、自分たちの仲間が演じる芝居に、望郷の念をひととき忘れたのである。(続)
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by monsieurk | 2013-06-10 22:26 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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