ムッシュKの日々の便り

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横浜「ゲーテ座」Ⅳ

 横浜・山手の外人墓地には、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの外国人が眠っている。「ゲーテ座」をつくったヘフトもその一人だが、激動の時代の日と居留民の動向を綴った回想録『ヤング・ジャパン(Young Japan)』(翻訳は「東洋文庫」刊)の著者ジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black)の墓もここにある。イギリス人の彼は、妻や息子とともに幕末の日本へやってきた。
 スコットランド生まれの海軍士官だったブラックはオーストラリアに渡って事業に乗り出すが失敗。帰国途中たまたま立ち寄った日本に強い印象を受け、この異国がすっかり気に入った。日本人が印象的で、その歴史や組織だった社会構造、そして独特の宗教にも興味をひかれたのだった。
 最初は長崎にいたジョン・ブラックは1865年5月には横浜へ移り、新聞「ジャパン・ヘラルド(The Japan Herald)」の編集に参加、経営権を譲り受けて主筆として健筆をふるうようになった。当時の外字新聞を見ると、祖国の動向や日々のニュースのほかに、横浜で開かれるバザーや古道具市の広告が目につく。來日する外国人が増え、家具や品物をここで買いととのえたのである。
 ブラックの回想録では、居留地で娯楽について自分たちで種々の催しを企画した様子が描かれている。ジョン・ブラックは歌が大好きで、オーストラリアにいたときもそうだったが、横浜で集まりがあると、歌を歌ったり朗読を行ったりした。彼は素人とはいえ名の知られたテノール歌手で、これはのちのブラック親子の活動を考える上で見逃せない点であった。
 『ヤング・ジャパン』には、彼らが開いたアマチュアの慈善音楽会が思わぬ効用をもたらしたエピソードが紹介されている。開港後の横浜には「浮浪者」と呼ばれる外国人が存在した。多くは港で船を降りると酒浸りになり、出港する船にも帰らない。そうして居留地をうろつき、偶然知り合いになった船員に酒や飯をおごらせる。しまいには海岸の村にあらわれて人びとをゆすったりした。開設された各国の領事館でも資金がなくて、こうした厄介者に手を焼いていたとき、慈善音楽会が大盛況で、その利益を彼らの帰国費用にあてたというのである。
 ジョン・ブラックはやがて英字新聞の発行だけでなく、ポルトガル人F・ダ・ローザの全面的な助力をえて、明治5年(1872年)には日本語の新聞「日新真事誌」(The Reliable Daily Newsを日本語に訳したもの)を創刊して、イギリス流の新聞を日本に根づかせようとした。最初は木製の活字を用い、のちにはダ・ローサの奔走で、鉛活字で印刷するようになった。
 新聞は日本の言論界で認められるようになり、ブラックは板垣退助や後藤象二郎といった自由民権運動の中心人物と知り合い、明治7年(1874年)1月18日号に、自由民権派が前日左院に提出した民撰議院設立県白書を掲載した。これはブラックのスクープだった。
そして彼は、「新聞」を通して啓蒙するだけでなく、横浜や東京で集会があると日本人の聴衆を前に演説をするようになった。このころには息子のヘンリー・ジェイムズ・ブラック(Henry James Black)も日本語が上達し、弁士の役がつとまるまでになった。彼ら演者をつとめる集会には、1000人もの聴衆が集まることもあったという。
 こうしたブラック親子の活動は、明治新政府にとって目障りなものであった。そこで政府は巧妙な手を打った。まず父のジョン・ブラックを、明治7年に左院の行政部門の顧問に任命し、「日新真事誌」を左院の官許機関紙とした。左院というのは明治4年に設けられた太政官の構成機関の一つで、立法について審議して、その議決を正院に上申する機関であった。ブラックの見識をぜひ役立てて欲しいというのが表向きの採用理由だった。
 だがジョン・ブラックの在任は長くは続かなかった。体制の中に一度は取り込んだ上で、明治政府は翌明治8年6月、「新聞紙条例」を改正して、日本で外国人が新聞の発行人となることを禁じた。そしてこの年9月、ジョン・ブラックの左院顧問の職を解いてしまった。こうしてブラックは新聞発行から手を引かされた上に官職まで奪われてしまったのである。
 失意のジョン・ブラックは病をえたこともあって、翌年4月、妻を連れて一時的に日本を離れて上海に向かった。日本に一人残った息子のヘンリーはこのとき18歳で、日本の生活にも慣れ、日本語も日本人と同じように話せるようになっていた。
 記録によると、彼は両親が日本を離れた3カ月後には、浅草の芳川亭という寄席で、西洋奇術を披露している。これは柳川一蝶斎という手品師との共演で、その後ヘンリーは何度も寄席の舞台に上り、流暢な日本語のせいもあって人気者となった。
 当時は政治結社が数多くつくられ、彼らは頻繁に演説会を開いて、自分たちの主義主張を大衆に説いていた。演説会には娯楽の一面もあり、毎回大勢の聴衆が集まったのである。変わり種のヘンリーはよく演説会に呼ばれるようになった。
 そんなある日の演説会で、彼は当時一流といわれた講釈師の松林伯圓と出会った。白圓は講釈師といっても、自分の芸を大衆を教育する有効な手段であると考えているような人物だった。そのため伯圓は新作の講談をつくり、そのなかには外国の話を翻案して取り入れたものも数多くあった。明治4年(1871年には、コロンブスの伝記をもとにした話を高座にのせて、世界一周旅行をテーマにした「世界一周オチリア草紙」という講談をつくっている。興味深いのは、この世界一周をテーマにした講演が、フランスの作家ジュール・ヴェルヌの有名な『八十日間世界一周』が日本で翻訳出版されるよりも8年も前に行われていることである。ヴェルヌの原作は1873年にパリで出版されているから、ほぼ同時期に日本とフランスで同じような発想が生まれていたことになる。
 記録によると、ヘンリー・ブラックが講談師として舞台にあがった最初は、明治11年(1878年)12月のことである。場所は横浜の馬車道にあった富竹座で、伯圓が自分の高座の飛び入りとしてヘンリーを舞台に乗せたという。このときヘンリーはイギリスのチャールズ一世の事跡とジャンヌ・ダルクの物語を講談に仕立てたものを語った。どちらもヨーロッパでは有名な人物で、おそらく日本で初めて取り上げられたものである。
 前年は西南戦争が起こり、田原坂の激戦で官軍に敗れた西郷隆盛たちが鹿児島で自決し、勝利した官軍は11月に帝都東京に帰還するという激動の時代であった。さらに世間では大久保利通殺害や竹橋騒動が起こり、そうした雰囲気のなかでヘンリーが取り上げる西洋の政治講談は大いに民衆の関心を呼んだ。
 ヘンリーはその後も積極的に演説会を開き、松林伯圓と一緒に舞台から民衆に語りかけた。当時の新聞記事によると、ヘンリーがとりあげたのは「ナポレオン論」、「日本開化の害」、「日本政体論」、「治外法権」、「証拠裁判の説」、「吉原を廃すべきの論」、「コレラ予防の説」などで、いずれも文明開化を進めよとしている日本社会の急所となるようなテーマであった。
 だがヘンリーの演説会も順調とはいかない事態が持ち上がった。明治12年(1879年)4月5日、政府は集会条例を制定して、ヘンリーたちが催すような大勢の聴衆を相手に、政治を話題とする集会を禁止する手段に打って出た。このために4月末に箱根で開催を予定していた演説会は中止させられてしまった。
 こうして文字が読める知識層を新聞という媒体を通して覚醒させ、批判精神を植えつけようとした父のジョンのこころみも、話し言葉を武器に、演説という形で新しい海外の知識を伝え、大衆を啓発しようとした息子ヘンリーのこころみも、両方とも明治政府の干渉によって挫折せざるをえないことになったのである。
 ヘンリーはこのころ「快楽亭ブラック」という芸名を名乗るようになった。「やまと新聞」は、「落語家中に一種毛色の変わったところをもって売り出した英人ブラック氏は、昨今おいおい弟子が増えるにつれ家号がなくては不都合なりとて、今度、快楽亭と称号を付したるよし」と伝えている。
 ヘンリーが亡くなったのは大正12年(1923年)9月19日。関東地方を襲った大地震の直後のことで、彼が愛してやまなかった横浜や東京はこの大地震で灰燼に帰した。

 ブラック親子については、放送大学の特別講義「ジャーナリストの父、落語家の息子」でも述べたことがあるが、横浜「ゲーテ」座とも関連する事柄として採録した。
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by monsieurk | 2013-06-19 22:26 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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