フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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木村荘八「東京繁昌記」

d0238372_2256375.jpg 画家で随筆家の木村荘八の遺著『東京繁昌記』(演劇出版社版)を、池袋にある古書店「八勝堂」の販売カタログで見つけて入手した。横25・7センチ×縦32・3センチの箱入りの豪華本で、昭和34年(1959年)3月20日に、神田神保町にあった演劇出版社から刊行されたものである。
 木村荘八は前年の11月18日に癌で亡くなり、22日には青山葬儀場で、長年所属した春陽会主催で葬儀が行われた。68歳だった。彼はゲラに目を通して、完成を楽しみにしていた『東京繁昌記』を目にすることは出来なかった。
 「東京繁昌記」はもとは読売新聞の朝刊に、昭和30年6月22日から9月30日まで掲載されたもので、このときのタイトルは当用漢字の制限から「東京繁盛記」となっていた。さらに「号外」として、「戦後十年 東京風俗」が同年8月11日から14日まで4回掲載され、11月22日から12月31日まで32回にわたって、「師走風俗帖」が「続・東京繁盛記帳」の副題をつけて掲載された。
 これらが「読売新聞」に掲載されることになった経緯については、『東京繁昌記』の「序」で次のように書かれている。
d0238372_2301475.jpg 「今から三年前には間違いない、或る日のこと、僕は友人高木健夫(読売新聞・編輯手帖子)に手紙を書いた中に、・・・近頃又例の賽の神に憑かれたあんばいで、服部誠一の「東京新繁昌記」を読み出した、ところが、フト読み出したがそのままずるずるふかみへ曳っ込まれるようだ。ふかみとは・・・云々。それで僕の瓢箪の中に、コマも一匹〔瓢箪の中に馬が入っている図が描かれている〕しのぶようなんだがね・・・と、略図〔右の写真を参照〕をかいて――こいつが外へ飛出すと、心忙しくなる、云々。
 すると殆んど切返えすように高健子からそれも速達便の返事が届いて、君のその〔瓢箪の図〕の中の〔馬の図〕を今すぐ引張り出すことは出来ないかね。実は何気なく手紙のことを今日カイシャの社会部でK(景山社会部長)に話すと、いきなり乗り出して来て、そいつを貰えないか、というのだ。Kの性急なのはまた、出来れば来週からすぐ社会面のカコミへというのだが、云々(中略)
 そういう、トントンとした段取り・弾みで、ゆくりなくも僕の「東京繁昌記」は、読売新聞へ暫く連載という運びになったのだった。戯画が箴を成して〔「瓢箪から駒」の図〕となった。」
 「序」には、「瓢箪から駒」のたとえを戯画化した絵が挿入されていて、木村荘八の面目躍如といったところである。なお、「東京繁昌記」は『木村荘八全集第4巻、風俗(一)』に収録されているが、この「序」の部分は割愛されている。
 『東京繁昌記』は木村荘八の遺著となったが、これが貴重なのは、「東京繁昌記」の前に、「文学東京 名作の挿画を中心に」が置かれていることである。ここでは「名作の挿画」という副題の通り、荘八が手がけた、樋口一葉の『たけくらべ』、『にごりえ』、『わかれ道』、永井荷風の『濹東奇譚』、滝井孝作『無限抱擁』、森鷗外『雁』のために描いた挿画の代表作が、アート紙に別刷として収録されており、加えて、「たけくらべ絵巻について」、「濹東雑話『濹東奇譚』挿絵余談」、「文学東京」の三つの文章が収録されていている。
 「濹東雑話『濹東奇譚』挿絵余談」の一部を抜粋してみよう。
 「今度この小説の挿絵を引受けるに当って初めからぞっくりと全篇の原稿が完成されていたことは、挿絵冥利に尽きる喜びでした。その代り、又初めから背水の陣を覚悟の、難しいことでしたが、それは当り前として――予て私は挿画は本文に対する、浄瑠璃節の太夫と絃の関係でなければならないと思っていますので、出来るならば太夫より以上といってもいゝ程に、絃の挿画師はテキストに通暁しなければなりません。大多数の場合、殊に新聞の時には、これはたゞ望むべくして、実現出来ないことです。(中略)
d0238372_2256526.jpg ところが今度の私の場合の『濹東奇譚』は、どうでもファイン・プレー、少なくともフェア・プレーで乗切らない事には、挿絵師の一分立たぬコンディションに置かれました。予めテキストは初めから終り迄そっくりと揃って、どうこれに通暁しようとまゝに、そこに与えられていたのですから。云いかえればこれで多少ともましな挿画が出来なければ、絵は止めるに如きません。(中略)
 さきにいったようにとに角これは「隅田川」がバックになる世界だから、如何なる場合にも川のこっち河岸にはならぬように、女にしても男にしても、同じ新開地でも中野や五反田にはならぬようにと、そう思い、いつも絵に煙の匂いがするように、溝ッくさく、何となく水に縁があるようにと思って・・・亀井戸で玉の井と同じような娼家をやっている者に遠廻しの知縁ながらつてが一軒ありましたので、これをぶちまけては色気抜きの元を切った話ながら、有体は、まずそこへ出かけて、先方の邪魔にならない、午後の一時から四時まで、このショーバイの家の構造を入口から、内所、二階、戸棚から便所の中まで、帖面にぎっしりと一冊写生したのが、最初の仕事でした。(中略)
 ――と、まず、手初めにそんなこの材料の第一課からケンキウしましたが、次に、玉の井の地図を買って、小説本文の「わたくし」があの界隈の交番の在り場に印をしたという。私もそれを踏襲してから、前後十回ばかり、本文の叙述にある通り、或いは玉の井稲荷であるとか支那料理店であるとか・・・・これを小説全篇に渉って判明する固有名詞の個所を、残らず歩いて(同時に写生して)見た上で、地図にそれぞれ書き込み、それから、その地図を机辺の座右に拡げながら改めてテキストを幾度も読んで・・・この場合こうかもあろうかと眼に浮かぶさまを一つ一つ挿絵に描きました。
 これ等の用意は凡そ僕にとっては元々好ましくこそあれ、一向苦にはならないもので、挿絵のうち、殆ど写生の、原品のまま役立ちそうな個所は、ただその製版された場合の効果を案じながら、すらすら描いて行きました。
 ただ主人公の「お雪」が登場するたびに、これはすらすら行きません。というよりも、そうすらすら行かせることは好まなかった。何か仕事の潔癖心のようなものがあったので、度々煙草を咥えて楽しみました。苦労もしました。」
 この文章は、朝日新聞への『濹東奇譚』連載が終わった直後に、雑誌「改造」に求められて執筆された。本文のほかに、多くのスケッチ画も収録されていて、名作誕生の舞台を垣間見せてくれる。
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 木村は先に引用した「序」でも、挿絵制作に触れて次のように回想している。
 「永井荷風先生の名作「濹東奇譚」に添えてかいた絵は、その時筆者が四十四歳だった力の加減を、ありったけさらけだした芸当だけの、コケの一念であるが、災いも三年経てば何とやら、永井先生も何かに書かれていたように、その後廿一年にして、この材料の土地(玉の井)は、昔の影の一木一草も無い、別の土地に変じてしまった。それで、僕の絵は、名作濹東奇譚成れる頃の江東をしのぶ画材としては、「大切な」ドキュマンとなったことは、せがれがお役に立ったわやい、のようである。コケは脱し難しとするも、一念の仕事は、しておけば何かしらイミは有るものと見えた。」
 肝腎の「東京繁昌記」の本文の方も、東京を愛してやまなかった木村荘八が、移りゆく風景、風俗を活写しており、ドキュメントとしても貴重である。「東京の民家」にこんな個所がある。
「東京の町では、その初めには、電柱の方が家屋や町よりも丈け高かったものである。中略)
 読者の敏感はすでに察知されたことと思うが、何故僕が今さららしく「東京」を記すについて路上の電柱の高さなどせんさくしているのだろう? ということは、僕はその時々の「町」の景観――従って美感――の構成を考える場合、東京の町の電柱の高さが持っている、或いは暗示する意味を、風俗については、その時々の「人」の背丈の高さ・身長と、同じ単位と、考えているからである。近い半世紀について考えても、その間の女子風俗を知ろうとするためには、女子の体位・身長の年代別推移からまず調べないことには、風俗の動きは割り出されて来ない。(中略)
 現に中央区本町の通りに相並んだ東京の町の景観を見て、そこに老いてたけ低い明治の祖母が、八頭身美人的明朗な現代令嬢と並んだ「姿」を連想するといって、怪しむものがあるだろうか。されば、八頭身令嬢の現代を考えるについては、先に立って、五頭身祖母の明治や、六頭身母の大正を考えなければならない。「佃島」はつまり東京の祖母の「身の上話」と思いたいのである。」
 木村荘八の『東京繁昌記』は、文と絵で東京の変遷を記録した貴重な資料であり、生前にはまとまった画集を持たなかった彼の画業を俯瞰できる格好の作品集でもある。
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by monsieurk | 2013-06-28 22:29 | | Trackback | Comments(0)