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小牧近江のヴェトナムⅠ「一枚の写真」

 20世紀は第一次大戦からはじまるといわれる。
 日本は第一次大戦に連合国側で参戦し、大きなダメージを受けないまま、戦後五大国の一つとして世界に乗りだすことになった。じつは日本が今日も抱える国際化の原点が、第一大戦後にパリで開かれた「パリ講和会議」にあると考えて取材したことがある(『ドキュメント昭和、世界への登場、第1集「ベルサイユの日章旗」』、角川書店、1986年)。
d0238372_11523697.jpg 取材の過程で外務省飯倉公館で一枚の写真をみつけた。日本が参加した最初の国際会議に出席した代表団を撮影したもので、場所は宿舎にした「ホテル・ブリストル」の中庭。撮影日は会議が終わった1919年6月30日で、パリ講和条約が調印された2日後のことである。
 このときの日本代表団は64名で、その多くはパリのほか、ロンドン、ローマなどヨーロッパ各地に駐在する外務省のスタッフであった。このほかに医師、タイピスト、日本料理の板前などを入れれば総勢106名にのぼった。
 代表団の首席全権は元老西園寺公望、69歳。次席全権に牧野伸顕58歳。明治の元勲大久保利通の次男で、実質的な全権代表をつとめた。写真にはこの二人をはじめとして、大正、昭和をリードする外交官、政治家の多くが顔をそろえている。
 講和会議の目的は、ドイツなど敗戦国への制裁だけでなく、この場で戦後の世界秩序の大枠を決めようということであった。戦後処理だけを念頭においていた日本にとっては予想外の事態であった。講和会議では、総会をはじめさまざまな分科会が設置され、期間中に開かれた大小の会議はのべ1646回にもおよんだが、準備のない日本代表団は、領土問題と人種差別問題に関する以外はほとん発言せず、ついにはメンバーだった五大国による首脳会議の場にも呼ばれなくなる有様だった。
 会議を取材したアメリカ人ジャーナリストのエミール・ディロンは、『講和会議の内幕』という著書のなかで、「彼らは滅多にフットライトを浴びることなく、自国の利害に関係する事柄に鋭い関心を示すほかは、つねに沈黙を守り、事態の推移を眺めていた」と書いている。日本代表団はやがて「サイレント・パーナー」と呼ばれるようになり、若手の代表団員も先輩に対して同じような感想をもった。ただ彼らの悲憤慷慨も酒が入った席だけで、対外的にはサイレント・パートナーであることに変わりはなかった。
 こうした外交団のなかに小牧近江がいた。写真の最後列左から二人目が彼で、このとき24歳だった。彼は本名を近江谷駉(おうみや・こまき)といい、1894年(明治27年)5月11日、秋田の土崎港で生まれた。
 父、近江谷栄次は代々の家業を営むかたわら、若いときから政治に関心をもち、満30歳のときに衆議院議員に初当選した。かねてからフランス贔屓で、子どもや眷属11人を、フランスのカトリック系マリア会の宣教師たちが運営する東京の暁星学園に進学させた。
 駉も曉星で寄宿生として学び、1910年(明治43年)に、ベルギーのブリュッセルで開かれた万国議員会議に出席する代議士の父に連れられて、17歳でヨーロッパへ渡った。 シベリア鉄道経由でパリに着いた彼は、パリの名門校アンリ四世校に寄宿生として入学し、ブリュッセルでの会議を終えた父は帰国したが、駉は父親の帰国後もフランスに残った。
 学校では同学年の少年たちよりも年長だった彼に、まもなくピエール・ド・サン=プリという友人ができ、ピエールの家にしばしば呼ばれるようになった。ピエールの父はセーヌ県裁判長次席で、母は元首相である大統領エミール・ルーベ(首相のときドレフュス事件が起こった)の娘という名門であった。
 帰国した父栄次は事業に失敗し、そのために送金も途絶えて授業料も滞納するようになり、学校は止めざるをえなかった。しかし幸いにも逓信省から在仏大使館へ出向してきていた人の斡旋でパテ商会で働くことができ、仕事を終えると夜間の労働学校へ通った。やがて父の知人だった石井菊次郎大使のおかげで、大使館で仕事の口を得ることができた。その後、駉は働きながらパリ大学法学部に入学して民法を学び、1918年6月には卒業試験に合格してして学士号をえることができた。
 こうして彼はパリで第一次大戦を経験したのだが、これらの経緯については、『異国の戦争』(日本評論社、1930年。のち「かまくら春秋社」)や『ある現代史~“種蒔く人”前後~』(法政大学出版局、1965年)にくわしく記述されている。
 そんなある日、駉はピエールの兄ジャン・ド・サン=プリが書いた戯曲『ラ・パンシオン(寮にて)』を、パリ6区オデオン通りにある古本屋兼貸本屋の「書物の友の家」のショーウインドーで見かけた。ここはアドリアンヌ・モニエが開いていた店で、多くの作家たちも出入りすることで有名だった。
 そしてこの発見をきっかけに、ふたたびド・サン=プリ家を訪れたことから交遊が復活したのだった。ジャン・ド・サン=プリは詩を書くとともに、「La Vie ouvrière(労働者の生活)」社に出入りする反戦活動家で、ロマン・ロランに傾倒していた駉も、このころアナーキスト系の新聞「Le Journal du Peuple (人民新聞)」の記者ボリス・スヴァリーヌを通して反戦集会に参加し、レモン・ルフェーヴルやジャン・ロンゲといった活動家と知り合いになった。
 その一方で彼は、1919年1月に「パリ講和会議」がはじまると、代表団の現地雇員として、はじめはフランス人運転手たちの取りまとめ役を命じられたが、やがて外務省から来た松岡洋右が率いる新聞係の一員として働くことになった。
 新聞係は全部で7人、手分けして毎朝40種類ほどの新聞に目を通し、主要な記事を切り抜いて全権たちにまわす仕事のほか、内外記者団への対応や他国の代表団との会合のアレンジなど広報・渉外を担当した。
 じつは先に触れた取材の過程で、駉が残した貴重な写真アルバムを見つけたのだが、現在は鎌倉文学館に保存されている。これは代表団の仕事ぶり記録した唯一の写真資料で、さらにもう一つ駉たち新聞係のメンバーがフランス語で書いた「八時間労働日誌」も見つかった。この日誌には新聞係で働く一人一人の写真にあだ名が書き込まれていた。
 伊藤真一書記官、いつもしかかめ面をしていることから「哲学者」。仕事に夢中の野本盛一書記官は「失業者」、ロシア革命に関心を持ち、事務所にまで左翼関係の本を持ち込む駉自身は「ボルシェビキ」。これは外務省から来ていた斎藤博の命名だった。そして他国の代表団や外国人記者との会合をこなし、ほとんど事務所にいない松岡洋右新聞課長は、その神出鬼没振りから「コメット・彗星」であった。
 ドイツの賠償問題、民族自決、国際連盟の創設などを決めたパリ講和会議は1919年6月28日をもって終わり、日本代表団は帰国したが近江谷駉は、その後もパリに残った。(続)

 (「小牧近江のヴェトナム」はしばらく続くが、資料蒐集の面で秋田市在住の天雲成津子さんの助力を得た。天雲さんは小牧近江や金子洋文の研究者である。)
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by monsieurk | 2013-07-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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