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小牧近江のヴェトナムⅢ「浪人時代」

 雑誌「種蒔く人」は1923年(大正12年)9月の関東大震災のために廃刊に追い込まれた。「種蒔く人」は毎号そのときどきの時流にあわせた形で編集しており、大震災の直前には朝鮮人問題をテーマとして、原稿をすべて印刷所に渡していたが大震災で印刷所は焼失、原稿もすべて失われてしまった。
 小牧近江と金子洋文は再建につとめたが、同人が集まった会議では意見がまとまらなかった。そこで震災後故郷の秋田に避難していた今野賢三に、「休刊の辞」と「朝鮮人虐殺に抗議」を書くように依頼した。その上で金子も秋田に戻り、「帝都震災号外」を印刷して、今野とともに汽車で東京に運んだのだった。
 その後、臨時号として『種蒔き雑記』を刊行した。内容は巻頭の「日本の労働者農民及び青年学生諸君に激す」のほか、入手した「青年共産主義インタナショナル宣言」の翻訳、さらに亀戸事件をあつかった「亀戸の殉難記」などであった。
 大震災の直後、戒厳令が出されるなかで朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人と中国人数千人が殺された。亀戸事件は震災の混乱のさなか、労働争議などで目をつけられていた南葛労働会の川合義虎、純労働者組合の平沢計七たち10名が亀戸警察に拘留され、9月5日の未明に千葉の習志野騎兵第13連隊の兵士によって殺された事件である。この事実は総同盟が調査して分ったもので、それをもとに金子洋文が作品にまとめたものであった。
 『雑記』の奥付には「転載許可」とわざわざ書き、プロレタリア文学雑誌「戦旗」がこれを転載したが、たちまち発禁処分をうけた。そしてこの『雑記』が、小牧近江たちが刊行した雑誌の最終号となった。
 小牧近江は文筆活動のかたわら3年数カ月外務省に勤務して、松岡洋右、広田弘毅など5人の課長のもとで仕事をした。この間、筆禍事件のために罰金刑をいい渡され、小牧が知るだけでも警視庁から3度追放令が出されたが、そのたびに勤務する課が変わるだけで首にはならなかった。小牧がパリ以来外務省幹部に知り合いが多く、日独講和会議への貢で勲6等瑞宝章を叙勲者だったことが幸いした。さらには霞ヶ関クラブの目が光っていて、彼を首にすれば批判にさらされることを外務省が嫌ったからである。しかし1923年、関東大震災の年の3月、外務省は人員削減を迫られ、彼も馘首された。
 小牧の私生活にも変化があった。大震災のあとの11月、見合をした前田福子と結婚して家庭をもった。震災のあとはしばらく親の家に居候していたが、パリ時代の知人の斡旋で当時の社会局長官から、ジュネーヴで開かれる第6回国際労働会議の政府側随員として出席するように要請された。会議には労働代表としてはじめて労働組合から鈴木文治が送られることになったが、フランス語で労働問題を論じられる人材がいず、小牧に白羽の矢がたったのである。
 彼はこうして1924年(大正13年)、久しぶりヨーロッパの地を踏んだ。会議での小牧の仕事は政府の声明や報告書の翻訳、そして会議の討議内容をノートにとることなどだった。そのうち委員に欠員がでて、正式の委員としてパン焼き業務の深夜労働の廃止を討議する小委員会に出席したりした。
 会議の終了後パリへ行くと、ジャン・ジョレス暗殺10周年を記念するデモがあり、それに飛び入り参加したりした。フランス社会党の創設者ジャン・ジョレスは第一次大戦に反対して、1914年7月31日、狂信的な国粋主義者の凶弾に倒れたのだった。
 そんなある日、フランス共産党の機関誌「ユマニテ」紙の編集部に立ち寄り、『種蒔き雑記』を一部贈呈した。以下は小牧の『ある現代史』の回想である。
 「同紙主宰で代議士の老カシャンの室へ、タイピストを一人つけて罐詰にされ、その抜萃を訳せといわれました。
 8月4日から3日にわたって連載しました。
 その時のこぼれ話しがあります。“ユマニテ紙”の経済記者のフルニエ君は私のパリ時代からの友人でしたが、談文学におよぶと、「戦後の新しい文学として、レイモン・ラディゲの“肉体の悪魔”を読んでみろ」というのです。
 この少年作家を読んでみると、主人公はアンリ四世校生であるのと、反戦気分もあるので、私は土井逸雄君とふたりで、夕食前の仕事としました。出来あがって夏の稲村ヶ崎海岸を散歩すると、波が立っていました。「どうだ、ものがものだから危ない、訳者を波達夫としようじゃないか」
 気の毒に“アルス”から出版された最初の“肉体の悪魔”はすぐに発禁になってしまいました。」(ブログ「反戦小説としての『肉体の悪魔』」2012.1.5を参照)
 引用文にあるとおり、『肉体の悪魔』は1925年10月に、北原白秋の弟北原鉄雄が創設したアルス社から出版された、夫を戦場に送り出している年上の女性と高校生の恋愛を描いた内容が時流を乱すとして発禁処分をうけたのである。
 小牧近江が翻訳したフランス文学としては、アンリ・バルビュスの『クラルテ』(佐々木孝丸との共訳、1923年4月、叢文社)、シャルル・ルイ・フィリップ『小さな町』(1925年10月、新潮社)に次いでこれが3冊目で、このあとにもカザノヴ『カザノヴ情史』(1926年8月、国際文献刊行会)などを翻訳した。
  「種蒔く人」が廃刊になったあと、プロレタリア文学の新たな受け皿として、1924年(大正13年)6月、雑誌「文芸戦線」が創刊された。小牧近江をはじめ、青野季吉、平林初之助、葉山嘉樹、黒岩伝治など13人が最初のメンバーだった。小牧は1926年1月の「文芸戦線」第3巻第1号に「排日主義者」を掲載して以後、26年に3本、27年は4月までに3本の論文を掲載した。
 この年4月、「汎太平洋反帝会議」が中国の上海で開かれることになり、アンリ・バルビュスから手紙がきて、自分も行くのでぜひ出席するようにといってきた。小牧は「文芸戦線」の編集会議で、雑誌の特派員の肩書きで派遣してほしいと要請した。この提案は了承されて、中国事情に詳しい里村欣三とともに行くことになった。旅費は朝日新聞と中央公論が原稿料の前払いの形で、150円ずつ出してくれた。
 このときの中国の政治情勢は混沌としていた。北伐を進める蒋介石軍は上海まで進出し、一方で国民党左派は武漢に独立した政府を樹立しており、コミンテルンから派遣されたボロディンは漢口にいてこれを指揮していた。さらに1921年に結成された中国共産党は、上海などで労働者を組織して蜂起の機会をうかがっていた。
 小牧たちの中国行は当然警戒された。下関で乗船するときには警視庁から出向いてきた特高が船客を一人一人チェックしたが、警戒の対象は主に同時期に漢口で開催される労働者会議への出席者で、小牧たちは無事に乗船できた。すると船内で東亜同文書院の新入生を引率して上海に行く一団をみつけ、彼らは先生になりすまして一行と行動をともにして警戒の目をのがれた。
 ただ上海では蒋介石の国民党軍による左派への弾圧が厳しく、上海旅行の目的であった反帝会議も中止された。小牧たちの周辺にも危険が迫り、いつ逮捕され、あるいはその場で射殺されるかもしれなかった。そこで二人は比較的安全なフランス租界に身を隠し、北四川路に書店を構えていた内山完造の紹介で、郁達夫、田漢、周作人といった人たちと連絡がとれ、中国人作家や知識人二十人ほどと話し合いを持つことができた。そしてこの交流を記念して「共同宣言」をつくり、帰国後これを「文芸戦線」第4巻第5号(1927年5月号)に、「太平洋の争奪戦と沿岸労働組合会議」と題して発表した。
 こうした文筆活動はしていたものの、小牧は基本的には失業者だった。子どもも二人に増え生活は苦しかった。そんな彼に徳富蘇峰の「国民新聞」への就職を斡旋をしてくれたのが、早稲田大学の仏文教授の山内義雄とその友人宝田通元であった。
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by monsieurk | 2013-07-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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