ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

小牧近江のヴェトナムⅣ「国民新聞記者」

 国民新聞に入社する際に型通りの面接があった。面接員の一人である営業部長が、「君の奥さんは日本人ですか。以来、わが社の外報部員はみな外人を妻君にしているが、フランスに十年もいて、なぜ君は独りで帰ってきたのかね?」と訊いた。小牧は「あまり候補者が多すぎて、どれを連れて来てよいかわからなく、“公平”を期してみんな、やめることにしてきました」と答えると、くすくす笑いが起って面接は無事終了となった。
 入社後に配属されたのは外報部で、通信社が送ってくる外電を読んで記事にすることが主だが、国内の外国人関連のニュースの取材も手がけた。
 1928年(昭和3年)3月、二人のフランス人飛行家、デュドンヌ・コストとル・ブリが世界一周の途中来日したことがあった。前年にはリンドバーグが初の大西洋横断飛行に成功して、飛行機による世界一周競争のブームが巻き起こっていた。もっともフランス人の二人は、サンフランシスコから日本へは解体した飛行機を船に乗せてきたのである。
 彼らが横浜港に着いたのが3月31日。間もなく国民新聞主催の歓迎会が満開の桜のもと上野公園で開かれ、小牧近江は接待役を仰せつかった。式典では最初に望月逓信大臣が挨拶をしたが、小牧が通訳することになった。大臣の挨拶は漢文口調で巻紙に長々と書かれていた。それを即興で通訳するのは、いかにフランス語が達者な小牧でも心もとない。会場を見まわすと、旧知のフランス大使館の通訳官ボンマルシャンがいるのを見つけて、大臣の挨拶の要約を翻訳してもらった。
 ところが通訳をはじめると、フランス語のメモが一陣の風に飛ばされてしまった。小牧はあわてずにそれを拾い集めて通訳をつづけた。式典の様子はラジオで中継されており、それを聴いた友人たちは、「じつに落ち着いたものであった」とほめてくれたという。
 このフランス人飛行士の来日については後日談がある。二人の飛行士が立川の飛行場から次の目的地へ飛び立つ日に、それを記事にするために出かけると、警戒が厳重で新聞記者はだれも近づけない。フランス大使館づきの武官ルノンドー大佐をみつけた小牧は、彼に、自分の名刺の裏に日本国民への挨拶を書いてもらってほしいと頼んだ。やがて大佐がもってきてくれた名刺には、鉛筆で「日本の国土を去るにあたり“朝日”を通じ、全国民の皆さんにあつく御礼申し上げる」と書かれていた。小牧は“朝日”を消しゴムで消して、“国民”と書き直し、その写真が翌朝の新聞に出た。スクープだったが、“国民”のところだけは筆跡があきらかにちがっていた。
 こうした活躍はあったが、一年ほどたった1928年5月、国民新聞が東京日日と合併することになったのを機会に退社を決意した。
d0238372_12424256.jpg 国民新聞は1890年(明治23年)に徳富蘇峰が創設した新聞で、一時は東京の五大新聞の一角を占めていたが、関東大震災の被害が大きく、社業は傾いた。1926年(大正15年)、甲州財閥の根津嘉一郎に出資をあおぎ、その結果副社長として送り込まれた河西豊太郎と蘇峰の関係がぎくしゃくしたものになっていた。
 もとは平民主義を唱えていた徳富蘇峰も時勢の変化とともに右傾化し、経営的にも行きづまって合併に追い込まれたのである。小牧が採用されたのは、彼の語学力やパリ大学法学部出身という経歴を買われたのだったが、主義主張は水と油であった。合併騒ぎは踏ん切りをつける潮時であった。こうして小牧はまた浪人生活にもどった。
 1920年代、世界も日本も大きな変化に直面した。1923年10月、ドイツのハンブルクでは共産党が蜂起したが、警察によって鎮圧され、11月にはミュンヘンでヒトラーたちが一揆をくわだてて失敗。ヒトラーは逮捕されて禁固5年の判決をうけた。これらはこの年1月に、フランスとベルギーの軍隊がルール地方に侵入し、占拠するという事件の余波であった。第一次大戦後に過酷な講和条件を飲まされたドイツ国民のあいだには憤懣が鬱積しており、社会は左右両極に分裂する様相をみせていた。
 中国では1921年7月1日に共産等の創設大会が開かれ、急速に勢力をのばしつつあった。1923年になると、国民党を率いる孫文はソビエトと連携し、共産党と共存して、工業と農業の発展に力をいれるという3つの政策、「連ソ、容共、扶助工農」を決定して国民党の改組を宣言した。翌1924年1月には国民党の第1回大会で、国共合作が承認された。
 この方針のもとで中国での反日抗争は激化し、1925年5月15日、上海の共同租界で学生2000人あまりが、日本の内外綿紡績工場の労働者が虐殺されたことに抗議して、租界の返還と帝国主義打倒を叫んでデモを行い、これに対してイギリスの警察隊が発砲してこれを弾圧する事件がおこった。いわゆる5・30事件である。デモは各地に飛び火し、列国は共同租界に戒厳令を敷き、対立は深刻になっていった。
 第一次大戦で敗戦国となったトルコでも、1920年4月には臨時政府がアンカラに樹立され、8月にはムスタファ・ケマルが独立戦争をおこした。翌年、ケマルはソビエトとのあいだで軍事協定をむすび、1922年9月にはイスミルへ入城。11月スルタン制を廃止し、1923年にはアンカラを首都とするトルコ共和国の樹立を宣言して、ケマルが大統領に就任した。
 小牧近江が駐日トルコ大使館の書記官から、大使館の業務を手伝ってほしいと頼まれたのは偶然の出会いからだった。このとき鎌倉の稲村ケ崎に住んでいた小牧は、1929年の夏のある日、由比ケ浜であった酒宴の席でトルコ大使館のセラハッティン書記官と知り合った。彼は通訳を探していて、フランス語が堪能な小牧に大使館の仕事を手伝ってくれないかと話をもちかけた。一度は断ったが、後日、今度は自宅を訪ねてきて、「毎朝一、二時間でよいから勤めてくれ。新聞を読んで、その要旨を大使に話すだけでよい」と執拗に迫った。小牧は彼が持参した「ラクー」というトルコ酒が美味いこともあって、最後には承諾した。聞くと「ラクー」はケマル大統領が愛飲しているということだった。
 こうして1929年9月から1938年3月まで、足かけ9年におよぶトルコ大使館勤務がはじまった。最初は一日数時間という約束も、すぐにフルタイムの勤務となった。
 1929年10月の世界大恐慌にはじまり、1931年9月18日の関東軍による柳条湖での満鉄爆破事件に端を発した満州事変、1933年の日本の国際連盟脱退、1936年2月の「ニ・ニ六事件」、そして1937年7月には日中戦争がはじまった。この激動の時代を、「日本の中の外国」ですごせたことは、小牧にとっては幸いだった。給料はアンカラのトルコ政府から直接支給されていた。
 ただ小牧はこの間も「文芸戦線」に文章を発表し、1930年11月には『異国の戦争』(日本評論社)、1934年にはシャルル・ルイ・フィリップの短編集『ビュビュ・ド・モンパルナス』を翻訳して新潮社から刊行するなど執筆活動は活発に行った。
 小牧はあいかわらず要注意人物であり、大使館の勤務中にも特高の刑事が顔をだした。トルコがソビエトと親密な関係にあり、両国大使の交流も盛んだったことから、彼がトルコ大使館を隠れ蓑にして国内の地下活動とモスクワとの連絡役をはたしているのではないかという疑念をもたれたのである。
 そうした要監視人のわずらわしさを一挙に解消したのが、ニ・ニ六事件の際のトルコ大使館の本国への報告だった。日本に着任して間もないヒュスレフ・ゲレデ大使は、親日派の書記官の報告にもとづいて、事件の直後に、「東京平常のごとく平静、詳細後便」という公電をうった。これを傍受していた憲兵隊が小牧のもとにやってきて、「トルコ大使館の電報は一番光っていた」と感謝されて、以後、特高は大使館に足を踏み入れなくなったという。
 1890年(明治23年)9月、トルコ帝国の木造の軍艦エルトグロール号が紀伊半島沖の熊野灘で波浪のために沈没、587人の溺死者を出した。このとき地元の漁師たちが懸命の救助にあたったことがあった。ゲレデ大使の最大の目的は、紀州樫の崎に眠っているトルコ兵たちの慰霊塔を建てることであり、小牧はこの件で中心となって働いた。そして慰霊碑が完成したのを機にトルコ大使館を退職した。三度目の浪人生活であった。
d0238372_12425357.jpg 駐米大使斎藤博が、任地アメリカで死去したのは1939年2月26日のことである。緊張をます日米間の折衝に身心を削ったすえに結核をわずらい49歳の若さで亡くなったのだった。アメリカ大統領ローズベルトは斎藤の努力を多として、国賓としてその遺骨を軍艦で日本に送った。d0238372_12424867.jpg遺骨を乗せた軍艦は4月17日に横浜港に入港、大勢の人びとに迎えられた。小牧はこの様子をたまたま床屋で髭を剃らせていてラジオで聞いた。斎藤博とはパリ講和会議のときに同じ新聞係りとして働いた仲であった。
 それから間もなく外務省葬が築地本願寺で執り行われ、焼香に訪れた小牧は旧知の木村鋭市に声をかけられ、これをきっかけにヴェトナムへ行く道がひらけれることになった。
[PR]
by monsieurk | 2013-07-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/19308765
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31