フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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小牧近江のヴェトナムⅤ「フランスの植民地」

 木村鋭市はパリ講和会議のときの代表団の一員で、小牧はそのときから彼を知っていた。『ある現代史』には木村の思い出が書かれている。
 「パリ講和会議の年は、スペイン風邪が大流行でした。ある晩、廊下〔代表団が宿舎にしていたブリストル・ホテルの〕を通ると、部屋でうなり声がします。ドアをあけるとベッドの上で木村鋭市書記官がうなっていました。“二十一か条”とうわごとをいっているわけです。こんな人を死なしては“国家の損”だと感じた私は、好きな酒をやめ、三晩夜通し看護し、水でひたいを冷やしました。」
 木村はその後、外務省アジア局長、チェコスロバキア公使などを歴任し、小牧が築地本願寺で出会ったときは、外務省を退いて国策会社「台湾拓殖会社」の顧問をしていた。
d0238372_20381995.jpg 台湾拓殖会社は1936年(昭和11年)6月の帝国議会で制定された台湾拓殖法と、その後に公布された同法施行令によって、本社を当時の植民地台湾の台北に置く半官半民の国策機関であった。同社の人員や事業内容ついては、同社の社員だった三日月直之の『台湾拓殖とその時代』(葦書房、1993年)にくわしいが、巻末に掲げられている「台拓役職員名簿」(昭和18年10月1日現在)によれば、社長は加藤恭平で、木村鋭市は顧問の筆頭に名をつらねている。
 日本は満州の維持と経済的開発に力をそそぐ一方で、植民地台湾の経営と、南方地域に進出している企業を支援する役割を台湾拓殖会社に担わせたのである。こうして欧米諸国の監視のなかで、日本は仏印(フランス領インドシナ)、タイ、イギリス領マレー、オランダ領インドシナなどへの進出をはかった。台湾拓殖の出先機関の一つとして仏領インドシナに置かれていたのが「印度支那産業」で、支店をハノイとサイゴンに設けていた。
 築地本願寺での再会から数日して木村を会社に訪ねると、印度支那産業のハノイ支店がフランス語に堪能な人材を求めており、この際思い切って行ってみてはどうかという勧めであった。トルコ大使館を三月末でやめてから生活に困っていた小牧は、この申し出を喜んで承諾した。
 問題は旅券の入手である。申請をするとさっそく警視庁から横やりがはいった。だが今回は台湾拓殖会社という国策会社の正社員としての赴任であり、父の友人でパリの困窮時代に面倒をみてくれた内務大臣の田辺治通を訪ねて事情を説明した。田辺はその場で警視総監に電話をしてくれ、家に帰ってみると留守の間に管轄の警察署から警視庁に出頭するように連絡が入っていた。警視庁に行ってみるとすでに旅券は発行されているという早手回しだった。こうして小牧近江は1939年(昭和14年)8月、晴れてヴェトナムの地を踏んだのである。
 出発の際にこんなことがあった。フランス大使館通訳官のボンマルシャンに別れの挨拶に行くと、門出を祝福してくれ、君のような人間にとっていまの日本は住むところではないと激励してくれた。そして出発の日には、わざわざ東京駅まで花輪とブドー酒を持って見送りに来てくれた。
 小牧が乗った汽車が大船へ着くと、大佛次郎がホームで彼の名前を大声で呼びながら探していた。大佛とは同じ鎌倉に住んでいて交流があった。大佛は盃と日本酒の壜を持ってきていて、それで二人は乾杯した。気持としてはヴェトナム行きは「逃亡する」思いだったから、大佛の好意は身にしみた。
 フランスはナポレオン三世の時代にインドシナの植民地経営にのりだし、1859年にはサイゴン(現ホー・チミン)を占領し、以後その支配を北と西に拡大していった。そして二十世紀になるころには、インドシナ全域を支配下に置き、北部のトンキン、中部沿岸地帯のアンナン、南東部のコーチシナ、南西部のカンボジア、一番西側のラオスの五つの地域はフランスの植民地とされた。
 このうちカンボジアとラオスはもともと独立した共同体として存在してきた。山や川、人跡未踏のジャングルによって、二つの地域は外部からの侵入を受けなかったのである。一方、北のトンキン、中部のアンナン、南のコーチシナは、海陸ともに交通の便がよいために同質となり、統一されやすかった。
 この三つの地域が統一されたのは18世紀末のことで、皇帝ジアロン(嘉降)がこれらの地方を支配し、この地方全体をヴェトナムという古い名前で呼んだのである。これは「遠い南の国・越南」、つまり中国の南という意味であった。
 フランスはインドシナ一帯を征服すると、ハノイに植民地総督府を置き、フランス本国から総督と軍隊を派遣してインドシナ全体を支配した。フランスはこのとき「ヴェトナム」という呼び方をやめて、トンキン、アンナン、コーチシナという区分を地図に記し、住民すべてをアンナン(安南)人と呼んだ。住民に独立を保っていた時代を思い起こさせないための措置であった。
 ヴェトナムは中国の影響のもとで独特の家族制度や官僚制度を保っていたが、フランスはこうした伝統をうちこわした。なかでもフランスが打ち込んだ大きな楔〔くさび〕が、中国式にかわるフランス式教育の普及だった。漢字のかわりにフランス語を教え、現地の言葉であるヴェトナム語をローマ字化した。
 これは識字率を高める役をはたしたが、実際はこれまで村落に一つはあった寺子屋が廃止され、そのため学校の数は激減して、人びとが教育をうける機会が極端に減った。その一方でフランスの学校で教育され、フランス的思考を学び、フランス人社会に地位を得たいと望む少数のヴェトナム知識人を生み出した。しかしその彼らも平等に扱われる機会がないことを知っていて、フランスに反抗するエリートに育っていったのである。
 ローマ字のアルファベットを学んだ彼らは、それほど苦労せずにフランス語が読めるようになった。こうして第一次大戦後、西欧化されたインテリ階級を中心に、政治への参加、基本的自由の行使、新聞の発行、外国への移動の自由、フランスの大学への入学の機会を求める声が起った。
 これに加えて中国の革命運動の影響があった。孫文は日本に学んだ近代化路線とロシア革命の影響のもとで、1923年2月広東で革命政府を樹立した。この孫文の率いる国民党と、その革命運動は周辺に大きな波紋をおよぼし、インドシナのナショナリズム運動も盛んになった。中国国民党はインドシナにも勢力をのばし、サイゴンの中国人街ショロン地区に支部をおくとともに、学校を開いた。こうした情勢のなかで、インドシナ各地で若いインテリ層を中心に「若いアンナン」と呼ばれる運動が組織されたのである。
 小牧近江が赴いたヴェトナムの情勢はさらに複雑な様相をていしていた。
 1939年9月1日にはじまった第二次大戦で、ドイツ軍は翌年1940年5月にはフランスの防衛線であるマジノ線を突破、6月14日パリを占領した。ボルドーに撤退したフランスのルブラン大統領は、レノーに代ってペタン元帥を首席に指名した。そして6月22日、ドイツから屈辱的な休戦協定が提示され、ペタン政府これを受諾した。
 ドイツは戦争を継続しているイギリスからフランスを切り離すために、北海と英仏海峡の沿岸部すべてを立ち入り禁止地区とし、残りのフランスはドイツ軍の直接統治下に置く北の占領地域と、ヴィシーに移ったペタン政府の権限がおよぶ自由地域とに分けられることになった。北アフリカの植民地アルジェリアやインドシナなどアジア・アフリカの広大な海外領土はフランスに任せるのが得策と判断され、ヴィシー政権の管轄とされた。
 この事態をフランス統治から脱する好機と考えるヴェトナムの知識人が少なくなかった。そして日本は交戦中の中国に接するヴェトナムに足場を築く機会ととらえたのである。
 フランス総督府はドイツと同盟関係にある日本に対する警戒感が強く、明らかに親中国であった。そのためハノイにある日本総領事館や、この地に進出していた商社は仕事に支障をきたすほどだった。そんなかで、国策会社の台湾拓殖の子会社である印度支那産業は比較的順調に業務を遂行していた。
 小牧近江は台湾の基隆〔キールン〕を経由して、ハイフォンへ行く船でヴェトナムにむかった。ハイフォンはトンキン湾に面していて、中国国境に近いヴェトナム有数の港であった。海岸沿いには多くの倉庫が並び、そこには中国国民党の蒋介石軍を支援するためにアメリカやイギリスが送り込んだ物資が大量に保管されているとみられた。
 ハイフォンからハノイまではおよそ100キロ。汽車で二時間ほどの旅であった。列車はソンコイ川流域の平原を進み、車窓には水田やきび畑が広がっていた。ソンコイ川の鉄橋をこえるとハノイの市街だった。ソンコイ川は薄い赤茶けた色をした水が流れる大河で、フランス人たちはこれを紅河(Rivière Rouge)と呼んでいた。印度支那産業の事務所は、ハノイ駅に近いジャロン大通り(Boulevard Gialóng)街28番地にあり、自宅として社宅が用意されていた。
 2008年12月に、ヴェトナムでの小牧近江の足跡を調査するためにハノイの地を訪れた際に確認したのだが、ジャロン大通りは現在のTran Hung Dao通りで、かつて印度支那産業の社屋だった建物は健在で、いまは病院になっている。また社宅のあった場所は不明だが、小牧がまもなく家族と住んだカルノー大通り(Boulevard Carnot)78番地の家は庭のある瀟洒な2階建てでの建物で当時のまま残っていた。カルノー大通りは、Phan Dinh Phungと呼び名は変わっているものの、道の両側に街路樹が植わった大通りで、自動車やオートバイが行きかっていた。
 先にも引用した三日月直之『台湾拓殖会社とその時代』の巻末に掲載されている役職員名簿には、「仏領印度支那」として、「ハノイ支店」の項に、支店長参事 堤秀夫、支店長代理副参事 奥田松太郎、同 柳生真澄、調査課長副参事 近江谷駉とある。ハノイ事務所の人員は全部で44名、そのうち女性は技手の4名である。このほかに仏領インドシナ全体では、ハイフォン事務所に2名、北部仏印綿花試昨場に5名、仏印米・ジュート試作場に4名、サイゴン支店4名、南部仏印綿花試作場に5名の社員がいた。
 これから分かるように、印度支那産業はフランス領インドシナで鉄鉱石やクローム鉱石などの鉱産物、米、綿花、南京袋などをつくるジュート(綱麻)を現地の農民に栽培させて、それを日本に輸入する役割をはたしていたのである。
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by monsieurk | 2013-07-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)