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小牧近江のヴェトナムⅥ「印度支那産業」

d0238372_145284.jpg ハノイに着いて早々、小牧近江のフランスに対する立ち位置をはからずも示す出来事があった。到着して一週間ほどたったある日、支店長に連れられてナムディンへ出張することになった。ナムディンはハノイの南東75キロにあり、近代的な設備を誇る紡績工場があった。
 ナムディンに着いたのは昼ごろで、駅前のホテルで昼食をとっていると、軍楽隊の演奏が聞こえてきた。そして安南服を着た大官たちが駅を目指して駆けていく。ホテルの食堂にいる人に尋ねると、新らたにハノイに着任するカトルー総督が乗った列車が、ハイフォンからハノイへ向かう途中ナムディン駅にも停車するのだという。好奇心から窓の外を眺めていると、やがて列車がホームに入ってきて、フランス国歌ラ・マルセイエーズが演奏された。それを耳にした小牧は思わずその場で立ち上がった。同行していた支店長は妙な顔をしつつもこれにならった。
 食堂には大勢のフランス人がいたが、国歌が演奏されても最初はだれも立ち上がらなかったが、日本人の二人が立っているのを見て、まずフランスの軍人が立ち、やがて一般市民も立ち上がった。小牧のとっさの行動は、フランスの総督に敬意をあらわすものではなく、本来は革命歌であるラ・マルセイエーズへの親近の情から出たものであった。この小さな出来事がその後、小牧の仕事に思わぬ結果をもたらすことになった。
 小牧にあたえられた社宅に住んでいた前任者は、ヴェトナム特産の漆をあつかう貿易商を装っていたが、じつは特務機関に属する人物で、フランス側にはこの情報は筒抜けだった。しかも社宅はフランス軍の兵舎の前にあり、代わって入居した小牧も当然監視されていたのである。
 この日のナムディン行きにもフランス警察の尾行がついていて、小牧がフランス語に堪能なこと、他のフランス人が起立しないのに、彼が真っ先に起立したことなどは、総督府に逐一報告されていた。この内輪話は後に親しくなったフランス人の警察官から知らされたのである。
 統計によれば、1939年当時のフランス領インドシナの人口は2145万人。そのうちヨーロッパ人は4160人となっている。ちなみに総督府が置かれたハノイを含むトンキンの人口は809万6000人で、ヨーロッパ人は4万1600人であった。ヨーロッパ人の多くは宗主国のフランス人で、なかには1920年代にインドシナへ来て、植民地の現実を目にして、1925年6月にはハノイで反植民地主義の新聞「ランドシーヌ」を創刊した作家のアンドレ・マルローのような者もいたが、大多数のフランス人は植民地で一旗あげることをもくろむ人たちだった。圧倒的少数の彼らがヴェトナム人の上に君臨する構図は1930年代末でも変わらなかった。
 ハノイに着任した直後は、小牧には決まった仕事もなく、時間があればフランス人と交際することに努め、夜はダンスホールに通い彼らと酒を飲んだ。流暢なフランス語に加えて、パリ大学で学び、法学士の称号をえている経歴が分かると一目置かれるようになった。
 この時代、植民地にいるフランス人には、地方の大学を出たものはいても、パリの大学を出た者はほとんどいなかった。ハノイのフランス人弁護士会会長のラールは数少ない一人で、民法の権威であるブラニュール教授の講義をともに聴講したことがわかると、小牧を厚遇してくれるようになった。
 印度支那産業だけでなく、ヴェトナムに駐在する日本の商社が直面していた問題が、総督府から現地での労働許可をえることだった。さらに日本の会社が仕事をする場合、フランス国籍をもつ人間を三人以上雇用することが義務づけられていた。小牧も赴任直後は観光ヴィザで滞在していたが、間もなく労働許可証を取得し、印度支那産業の全社員14名の労働許可証を更新することができた。この点でも小牧がナムディンでとった行動やフランス人との交際が大いに役立った。これには赴任してまもなく知り合ったフランス人社会の有力者であるバロンドーの助力があった。
 小牧がヴェトナムに到着して一カ月も経たない9月1日、ヒトラーのドイツは突如ポーランドに侵入、3日にはイギリスに次いでフランスも宣戦を布告して第二次大戦がはじまった。ドイツの同盟関係にある日本への、フランス総督府のしめつけは当然厳しくなった。
 日本との連絡用の電報は、これまでのように日本語ではなくフランス語でしか打てなくなり、本社からの電報も同様だった。こうした作業は小牧の独壇場となった。余談だが、1973年2月、ヴェトナムとアメリカとの間に和平協定が締結されたとき、北ヴェトナムで取材をした経験があるが、東京のNHKとの連絡や取材した記事の送稿はすべてフランス語で行わなければならなかった。記事をフランス語で書いて、それを郵便局へ持っていき、検閲を受けた上で東京のNHKへ打電してもらうのだが、日本語が理解できる検閲官がいないため、すべてをフランス語で行う必要があったのである。
 第二次大戦下のヴェトナムでは為替の管理も厳しくなり、日本から印度支那産業への送金も不自由になり、いきおい現地で資金を調達する必要にせまられた。このときもインドシナ銀行総裁のガネーや総支配人ペランとの関係が大いに役に立った。 
 小牧は仕事が暇なときには、インドシナの歴史や民族史を勉強するために、ハノイにあるジャン・フィノ博物館や極東学院(L’Ecole franҫaise d’Extrème –Orient)をよく訪れた。極東学院はフランスがインドシナを植民地としたあと、ポール・ドゥメール総督が、インドやビルマでイギリスが行っている植民地政策にならって、1898年に設立したものである。
 言語研究のほかに、インドシナの考古学上の貴重な文物を調査し、目録をつくってそれを保護し、解読することを仕事としていた。なかでも重要だったのはカンボジアに残る一群の石造寺院の調査であった。
 ある日、小牧が極東学院を訪ねた折りに、司書の金永鍵と出会った。金は慶応義塾大学の松本信広教授に師事し、しかも滞日中に「文芸戦線」から分かれたプロレタリ雑誌「戦旗」の購読者で、この雑誌に書いたことがあるということだった。小牧は彼を通して、グエン・ヴァン・タム、カイ・フンといったヴェトナム人作家や評論家、詩人たちと知り合うことができた。彼らは「今日社」という文芸運動を展開しており、これはかつて小牧たちが始めた「種蒔く人」と同じような性格のものであった。
 彼らはヴェトナムの現状を理解するのに役立つフランス語で書かれた本を次々に紹介してくれた。こうして小牧はヴェトナムの人たちの独立運動にかかわるようになった。
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by monsieurk | 2013-07-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(1)
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Commented at 2013-07-31 15:34 x
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