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小牧近江のヴェトナムⅦ「仏印進駐」

 フランスがドイツに敗れて屈辱的な休戦協定を結んでから3日後の1940年6月25日、日本の大本営は仏領インドシナにある蒋介石の国民党軍支援のための物資輸送網を根絶するために、監視員として陸軍、海軍、外務省出身の30名を派遣した。さらに3カ月後の9月22日には、フランス領インドシナ総督府とのあいだで軍事細目に関する協定が成立した。松岡=アンリ協定で、日本側はあくまで平和的な進駐の形をとろうとしたのである。
 翌9月23日午前0時を期して、中国側国境にいた南支那派遣軍第五師団が国境をこえて進攻すると、仏印軍の一部が激しく抵抗して戦闘となり、数百人の死傷者をだした。だが日本軍は25日には国境の町ドンダンとランソンを制圧し、26日には本隊の仏印支那派遣軍がハイフォン港に上陸した。
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 大本営の情勢判断としては、中国国民党軍の兵力は300万を数えるが、援蒋ルートを遮断し、本拠地である重慶への攻撃作戦によって蒋介石政権を抑えられると考えていた。陸軍内部にはアメリカやイギリスの反応を考えて慎重論も根強かったが、この北部仏印進駐には参謀本部第一部長の強引な指示があったとされる。
 四つの主な援蒋ルートのうち最大規模のルートが仏印から中国へむかうルートだった。このルートはハイフォンの港で物資を揚陸し、鉄道に乗せてそのまま北の中国国境沿いを北上して、主にアメリカから、さらに一部はフランスから武器や燃料などの支援物資が中国に送られていた。
 国境を越えて進駐した部隊には、軍属の西川捨三郎が同行していた。西川は大川周明が主宰する満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)に学び、卒業後はフランス語の能力を買われて、陸軍の軍属として働いていたのである。大川塾に学んだ者は西川だけでなく、欧米列強からのアジアの解放を信じてインドシナの地で活動するものが少なくなかった。
 日本軍の到着を目前にして、現地ではアンナン人からなる軍の反仏武装決起が計画された。中心はチャン・チュン・ラップ将軍が率いる復国同盟軍で、軍の編成を援助したのが印度支那産業の山根道一であった。
 小牧近江の回想録『ある現代史』には山根について、印度支那産業には、「山根道一さんなどという手腕家の先輩がいました。山根さんは、民族運動に同情をもち、物質的援助も行っていました」という記述がある。先に触れた三日月直之の『台湾拓殖会社とその時代』の「台拓役職員名簿」(昭和18年10月1日現在)の印度支那産業ハノイ支店の最後に、嘱託の肩書きで山根道一の名前が記載されている。
 山根は台湾拓殖の重役をつとめ、のちに特務機関を率いたように軍と関係を保ちつつ隠密裏に行動していたから、小牧が彼の具体的行動を知らなかったことは十分考えられる。山根はチャン・チュン・ラップが日本軍と連絡をとる手引きをするなど、積極的な事前工作を展開した。
 復国同盟軍には3000人のアンナン人兵士がおり、越境してきた日本軍と歩調をあわせて決起した。彼らは日本軍の先導役をつとめただけでなく、仏印軍の兵営に潜入して、仏印軍の兵力を削るべくアンナン兵の離反を画策した。
 だがこうした仏印軍との対立の激化は、日本政府の思惑とは異なっていた。少ない兵力でインドシナに橋頭保を築くのが目的である以上、仏印軍といたずらに事を構えるのは得策ではないと判断した陸軍上層部は、復国同盟軍の行動を見殺しにした。そのためチャン・チュン・ラップはフランス軍に逮捕され処刑された。
 日本軍の進駐後もインドシナの統治権はあくまでフランス側にとどまり、フランス軍と日本軍の共同警備の形をとった上で、最大限フランス側から対日協力を引き出そうとした。具体的には、軍隊駐留の認可、滞留経費の負担、貿易面での仏印から日本への輸出の拡大、日本製品の輸入に際しての関税の優遇措置などについて、交渉によって仏印側にこれを認めさせた。軍事面では、日本軍は軍事協定にもとづいて、フランス側から提供された飛行場を拠点に中国南部への空爆を強め、南部仏印への進駐後に太平洋戦争がはじまると、サイゴン北部の飛行場から発進した航空部隊が、マレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパレスを撃沈したのはよく知られる。
 日本の北部仏印進駐は、タイをのぞく東南アジアのほとんどの地域を領有していたイギリスやアメリカ、オランダの警戒と反発をまねいた。依然としてドイツと戦争状態にあったイギリスは、ヴィシー政権をドイツの傀儡政権として承認せず、承認したアメリカも日本の行動を認めなかった。そして日本の行動への対抗手段として、イギリス領ビルマにあらたに援蒋ルートを建設して支援を続けた。
 日本は進駐直後の9月27日、日独伊三国協定をむすび、間接的にイギリス、アメリカへ圧力を加えようとした。アメリカはただちに鉄屑の対日禁輸をきめ、翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などを制限品目に加え、蒋介石軍には対する資金や物資の援助を増大させた。
 日本軍は北部インドシナへの進駐についで、この年の夏、南部インドシナへも進出した。現地ヴェトナムでは、こうした日本の動きに抵抗する勢力が次第に姿をみせつつあった。ホー・チ・ミンを中心にしたヴェトナム共産党である。
 ホー・チ・ミンは1930年に、インドシナ共産党、アンナン共産党、インドシナ共産主義者同盟の3つに分裂していた組織を、単一のインドシナ共産党に統合することに成功し、フランス帝国主義、封建制、反動的なヴェトナム人資本家の打倒、インドシナの完全独立の達成、労働者、農民、兵士による政府の樹立、プランテーションなどの大土地を没収しそれを農民に配分し、民主的自由を確立し、普通選挙を実施し。男女の平等を確立などの10項目を掲げて、インドシナの独立を闘い取る方針の明確にした。
 こうしたインドシナでの共産主義者の活動は、カルト―将軍やあとを継いだジャン・ドクー提督のフランス総督府による弾圧にもかかわらず、労働者や農民のあいだに浸透していった。しかし彼らは日本の二度にわたる進駐によって、もう一つの敵に直面しなくてはならなくなった。しかも日本軍の方がよく組織されていただけに難敵だった。
 ホー・チ・ミンにとって厄介だったのは、1939年に突如ヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が結ばれたことである。日本はドイツと三国同盟を締結しており、ソビエトと日本は互いに慎重な寛容政策をとった。そしてコミンテルンも日本に対して中立的な姿勢に終始した。
 そのためこのときから、ホー・チ・ミンはコミンテルンの方針に忠実であるよりは、祖国の独立を第一とする民族主義者の色合いを濃くしていった。彼にとって国際共産主義は手段であって目的ではなかった。彼がコミンテルンの方針にしたがってきたのは、国際共産主義運動の枠内でしか、民族的自由を実現することはできないと信じていたからである。
 1941年初め、ホー・チ・ミンは中国の抗日グループと協力関係を築き、中国領の国境の町である靖西(チンシー)に拠点をもうけた。国境の両側一帯はカルストでできた地域で、石灰石の丘陵には無数の鍾乳洞があり、密林におおわれた洞窟の一つに本部がおかれた。
 そして1941年5月に、この洞窟でのちに有名となる「ベトミン同盟」(VML)が誕生した。正式な名称は「ヴェトナム独立同盟」といったが、ホー・チ・ミンは短い方が同盟員の大半を占める農民には分かりやすいとして、「ベトミン」の名称を採用したのである。
 ホー・チ・ミンは6月6日に「国を愛するすべての世代、すべての職業、知識人、農民、労働者、事業家、兵士」へ呼びかけるとして、当面の政治情勢を次のよう要約した。
 「フランスはドイツに敗北し、フランス植民地主義者は日本に降伏し、日本がヴェトナム収奪の政策をつづけるのを全面的に支持している。いまや蜂起の旗をかかげるべき瞬間の直前にある、救国が共同目標とならなくてはならない。そしてすべてのヴェトナム人はこれに貢献すべきである。金のあるものは金を、身体の強いものはその身体を、才あるものはその腕前を役立てるべきだ。」
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by monsieurk | 2013-07-31 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 履歴書の送付状 at 2014-07-20 09:31 x
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
Commented by MK at 2014-07-20 22:34 x
お立ち寄りいただきありがとうございます。
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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