フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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小牧近江のヴェトナムⅨ「小松清2」

d0238372_15222873.jpg 6年ぶりのパリには、特派員として取材すべき事柄は山積していた。1年前の1936年7月には、隣国スペインでフランコ将軍を中心とした反乱がおこり、これを支援するナチス・ドイツやイタリアのファシズム側と、ソビエトが支持する人民戦線内閣の政府軍とのあいだで激しい内戦が繰りひろげられていた。
 フランスではスペインと同じく人民戦線内閣が成立していたが、イギリスの強い意向でスペイン政府への支援を見送った。このため政府軍とともに闘う国際義勇軍が組織され、ヨーロッパ各地やアメリカから個人の資格で多くの人たちがスペインにおもむき、戦闘に身を投じた。小松の友人である作家アンドレ・マルローも、自ら飛行隊を率いてスペインで戦っているはずであった。
 ところが10月初め、NRFへ行く途中のバック通りで、スペインにいるはずのマルローとばったり出会った。スペインでの戦闘の模様を記録した映画を完成し、同じくスペイン内戦を描く小説『希望』を執筆するために帰国したということだった。
 小松は翌日からNRF近くのカフェや自宅でマルローと会い、ヨーロッパ情勢について話を聞いた。これらは報知新聞紙上に、「六年ぶりの再会」、「卒直な友情」、「驚くべき精神力」、「彼の支那事変観」、「支那空軍参加を断る」というルポルタージュとして掲載された。行動主義を唱える小松としては、この際スペインの現場に行って、自分の眼で見たルポルタージュを書きたいと願い、パリにいるスペイン政府の代表者に接触したが希望はかなわなかった。
 そうしたなかで、日本を発つ前に新庄嘉章と一緒に翻訳したマルローの『人間の条件』が、『上海の嵐――人間の条件―』というタイトルで、大陸文学叢書の一冊として改造社から1938年(昭和13年)7月に刊行された。タイトルを「上海の嵐」としたのは、英訳にならったこともあったが、時流に乗ることで発禁を免れようとする配慮でもあった。それでも出版に際しては、全体で140個所以上の削除をよぎなくされた。
 小松は「あとがき」で、「国際都市上海の、光と闇の両面に踊り蠢く人間の像は、宿命的な人間悲劇を背負った人間の標本のように思われる。この作品の裏には、これらの人間の動きにじっと見入っている、ペシムスムの影濃い、然し力強い意欲をひそめたあのマルロオの眼が感じられる。 / 一口に言って、この作品は、動乱の支那にひき起された外的悲劇と、人間が負わされている諸条件から生まれた内的悲劇とが、渾然と一つに融合された一大叙事詩である。この作品を目して、単なる報告文学的作品、或いは単なる左翼的小説と断ずる者があれば、それは随分不注意な読者だと言わなければなるまい」(原文、旧字旧かな)と書いた。
 1939年8月3日、突如として独ソ不可侵条約が結ばれ、9月1日にはドイツがポーランドに侵攻。3日にはイギリスについでフランスがドイツに対して宣戦を布告し、ヨーロッパは戦場と化した。小松は戦時下のパリの様子、人びとの暮らしや心情をルポにして日本に届けた。これらの文章は単なる報告文にとどまらない実在感をもつ貴重なものとなった。
 さらに小松はパリで創刊された日仏文化交流のための雑誌「France-Japon 日仏文化」の編集にたずさわることになった。雑誌の資金は満鉄のパリ事務所が出し、責任者は満鉄のヨーロッパ事務所長、坂本直道がつとめていた。坂本は龍馬の姉乙女の孫で坂本家の当主だった。彼は日本の戦争に反対の立場をとっていた。
 年が変わって1940年5月、ドイツ軍の攻勢が明らかとなり、小松はパリが占領される前に、日本大使館が用意してくれたトラックでパリを脱出した。ポルト・オルレアンから南に通じる道路は避難民であふれていた。彼はその後フランス政府が移動したボルドーを経由し、国境を越えてスペイン、ポルトガルへ行き、リスボンから榛名丸に乗船してヨーロッパを離れた。帰国したのは1940年9月2日のことであった。
 だが三年ぶりに神戸港についた途端、小松は特高の尋問をうけることになった。帰途のシンガポールで英字新聞のインタビューをうけ、ドイツ空軍の空襲によってもロンドンは陥落することはないと答えたことが利敵行為にあたるというのであった。幸い特高の拘束は長くは続かず、間もなく父と妻子が待つ東京井荻の家に帰ることができた。
 小松は大戦中の体験を次々にルポルタージュルに書き、それらは『沈黙の戦士――戦時巴里日記』(改造社、1940年)、『フランスより還る』(育生社、1941年)として刊行することができた。
 そして1941年4月、小松は改造社の特派員の肩書きで、フランス領インドシナへ行くことになった。フランス領インドシナは、かつて親友のアンドレ・マルローが反植民地の運動を展開したところであり、最初のパリ滞在のときに知り合ったグエン・アイ・コォク(ホー・チ・ミン)が、「私の同胞がどんな条件の下で生きているか、それをみてもらいたい」と訴えた土地であった。インドシナ行きには特高の厳しい監視の目がゆき届かない場所で生活したいという思いもあった。この年の初めに治安維持法が改正されて、思想犯の検挙や予防拘束は当局の意志でいつでも行える状況になっていたのである。
 小松は4月19日に神戸を発って、5月1日にハイフォンに着いた。ハノイではヴェトナムの伝統と歴史を知るためにまずルイ・フィノ博物館を訪れ、パリ時代の友人の一人だった画家仲間のリュ・ヴァン・タイ(劉文泰)と接触した。リュウの家はアンナンでも屈指の名門だった。父親はアンナンの近代文学の権威で、出版社を経営して、「新アンナン」という新聞や雑誌「現代思想」を刊行するなどアンナン言論界のリーダーだった。しかしこの父親は息子がパリから帰国して間もなく急逝してしまい、いまはリュ・ヴァン・タイがその跡を継いでいた。
 リュウは小松をヴェトナムの上流階級から一般市民にいたるまで、積極的に紹介してくれた。日本人との交際はフランス総督府ににらまれる行為だったが、彼は意に介さなかった。さらにヴェトナム人の心を理解するには古典である『キン・バン・キュウ(金雲翹)』を読む必要があるといって、フランス語訳を貸してくれた。
 これは阮攸が19世紀初頭に書いた6音節と8音節の詩句を交互に用いて綴られた3260節からなる叙情詩で、翹という女性が初恋の思い出を胸に秘めつつ送った、忍従と悲しみと諦めの生涯をうたっており、ヴェトナムの人びとの歴史や宗教観が色濃く投影されていた。小松はやがてこれを翻訳して東寶発行所から1943年(昭和18年)に出版する。またリュウは小松がのちにフランス語で書く小説『邂逅』をヴェトナム語に翻訳して出版することになる。
 小松は一カ月ほどハノイに滞在して、この間に先輩作家の小牧近江とも会って、ヴェトナムの現状について意見を聞くことができた。その後は古都ユエ、ニャ・チャン、サイゴン、バンコクと移動して現地情勢の蒐集と分析につとめた。
 小松は7月14日、三カ月にわたるフランス領インドシナ訪問から帰国したが、待っていたのは二歳の息子晃が留守中に突然亡くなったという知らせだった。
 彼は悲しみを忘れるように、ヴェトナムでの見聞をルポルタージュに書いて次々に発表し、かたわら実践活動に没頭した。それは「改造」の編集長水島治男と協力して、日本にすでに存在するヴェトナム民族解放運動と、現地の活動家たちを結びつけるための組織をつくることであった。そのためにハノイにいる小牧近江とも連絡をとりあって水曜会をつくり、東京では在住ヴェトナム人によるヴェトナム民族解放組織である越南復国同盟会のリーダー、クオン・デ(彊柢)と会った。
d0238372_15223293.jpg クオン・デはグエン王朝の皇太子で、祖国が1887年にフランスの保護領となると、地下に潜入し、1907年には妻子を残して24歳の若さで東京に亡命してきたのである。彼は祖国復国の象徴として運動を担ったが 、フランス、日本、ドイツを巻き込んだ政治的駆け引きに翻弄されて、さんざん辛酸をなめさせられてきた。それでも小松が接触した1941年秋には世田谷区松原の自宅にあって、祖国独立を期す思いにはいささかのかげりもなかった。
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by monsieurk | 2013-08-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)