フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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小牧近江のヴェトナムⅩⅠ「日本文化会館」

 小牧近江はその後も印度支那産業で仕事をしていたが、日本軍進駐のあとは、「フランス領インドシナ(仏印)」は、単に「インドシナ」と呼ばれるようになった。彼は1944年になると、印度支那産業を辞職して、ハノイに設けられた日本文化会館の事務局長に転じた。
 日本文化会館は大東亜省の管轄下にあった機関で、軍の進駐と平行して、なるべく穏便に治安を維持し、同時に日本文化を広めることを目的にしていた。そのために日本語学校を運営し、同時に情報収集や宣撫工作の役も担っていた。文化会館はハノイとサイゴンにあり、館長は元公使の横山正幸がつとめていた。横山もまたヴェトナムの独立に理解をしめす人物だった。
 この時期、インドシナでは大勢の日本人がさまざまな資格で活動していた。日本軍が進駐してフランスと共同統治の形を整えたとはいえ、フランス語を話すことができる人材はほとんどいなかった。そのため先に触れた大川塾の出身者だけでなく、フランス文学を専攻する若手の学者や、パリにながく住んでフランス語が堪能な画家などが、軍情報部の通訳や情報収集の役目をおびてインドシナに渡ってきていた。第二次大戦に突入したあとの日本は、彼らにとって決して住みよい場所ではなかったから、伝〔つて〕があれば半ば自発的にインドシナへ来ていたのである。
 そうした人びとにとって有力な職場の一つが日本文化会館だった。サイゴンの大使館府を辞めた小松清もハノイに移って、小牧のもとで私設顧問のようなかたちで仕事をすることになった。
 小松は得意分野の美術展を企画するなどの文化事業を行いながら、フランス総督府やフランス軍に関する資料を読んで報告書をつくり、あるいはヴェトナム人の協力者とあって情報を交換することを日課としていた。
 先に引用した文章で、那須国男はこの時期の小松清や小牧近江の様子にも触れている。貴重な証言なので長くなるが引用してみよう。
 「インドシナに長く在勤して、安南人との接触も多く、小松清にゴ・ジンジェム大統領を紹介したこともある当時の大使館府のベテラン書記官は、彼をT・E・ロレンスのようなタイプだったと評している。ロレンスがみずからのアラブ人大同団結というイメージを追い、英国はもちろん、アラブ人指導者とのずれに気づかずに軍事作戦と政治に突進したように、小松清も安南独立の夢を追ったというのである。(中略)
 小松清はみずから認めているように、「波の高い荒波のような人間」であり、海と友情のなかに無邪気に埋没していく小牧近江とは対照的だったが、小牧近江の安南人との交渉をどん欲に吸収し、ことごとに相談していた。のちに北部の越南政庁の情報部で活躍したトワイという青年なども、小牧近江が息子のように可愛がっていた男で、小松清も彼を秘書のように重視していた。半年ばかり筆者がハノイに行っていたころ、二人に誘われてこのトワイ青年のハノイ近郊の家に招かれたことがあるが、途中で空襲を受け草むらに逃げなければならない激しい状況があったにもかかわらず、小牧近江はまむし入りの地酒に陶然として、その酒に馴れていない私たちにもしきりにすすめた。
 小松清は小牧近江のそうした異民族との共存をたのしそうに眺めていたが、動きを求める彼の血はこの和やかな境地に安住してはいられなかった。酒に酔えば安南人の上に君臨するフランス人や、その政庁と妥協している日本の大使府を痛罵した。そのはげしさを、「小松清はやはり淡路島の人だ」と評した人々もいたが、出身地との関係はともかくとして、みずからの情念に周囲があわないことのもどかしさが、ふだんは人のいい彼を非社交的な攻撃に走らせた。ハノイでも、郊外にカムテンという遊興街があり、私たちは夜おそくまでそこで暇つぶしをしていたが、彼は酒の上の話の調子に不意に苛立たしさを示し、唐突に去ってゆくことがあった。安南の独立を望むことでは同じ立場の人々とも、彼は性急さで対立したりした。恐らく小牧近江とも、ときには不協和を生じることがあったようで、彼が文化会館に出てこない日もあった。」
 那須の観察はここでも透徹していて、小牧近江と小松清の気質のちがい、そこからくる現地の人たちとの異なる交流のありようをよく示している。
 彼らが勤める日本文化会館(Mission Japonaise)は、51 Boulevard Henri Rivièreに建つ大きな石造りの建物に入っていた。この大通りの先にはハノイ随一の規模を誇るホテル・メトロポリタンがあった。この通りは現在のPhon Ngo Quyen通りで、建物にはいま教育省が入っている。大通りに面して鉄の柵がぐるりとめぐらされていて、2008年にハノイを訪れたときには、その柵に小さな鏡をかけて、何人かの散髪屋が路上で営業していた。
 1944年の夏、小松は焦燥を紛らせるために、日本人とヴェトナム人の友情を主題にした小説を書きはじめた。題名を「解逅(ヴェトナム語ではコク・タイ・ゴー)」とつけた。パリで知り合った日本人の作家とヴェトナム人の詩人が、太平洋戦争の直前にハノイで再会し、二人はヴェトナム独立運動の黒子として尽力するという内容である。小松はこれをフランス語で書き、友人のグエン・ジャンがそれをヴェトナム語に翻訳して、最初はハノイの有力週刊誌「チコンバク・チューニャト」に連載された。そののち日本の敗戦間際に週刊誌の版元の出版社から単行本として刊行される。
 一方の小牧近江は、このころみずからの身辺や若いヴェトナム人たちとの交遊をフランス語の詩にして書きとめていた。彼はこれらの詩篇を集めて、「une date・・・(あの日・・・)」と題して、井田鱶司がやっていた「ハノイ日南印刷(l’imprimerie NITINAN)」で印刷してもらう。印刷が終わるのは敗戦直前の1945年7月2日のことである。
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by monsieurk | 2013-08-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)