フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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小牧近江のヴェトナムⅩⅢ「二人の学生」

 3・9事変後には、日本に亡命中のクオン・デ侯を帰国させる案やファン・ボイ・チュウを支持する者もいたが、いずれも東京の日本政府が承認せず、民衆に人望のあるゴ・ジンジェムに白羽の矢が立った。しかし目先の利く彼は固辞してうけず、やむをえず不人気のバオ・ダイ帝をたてることになった。
 内閣を組織したチャン・チョン・キム(陳重金)は小牧の友人で、日本の軍部からはあまり買われていなかった。チャンの娘夫婦はホー・チ・ミンのヴェト・ミンの党員で、閣僚の多くもかつての親フランス派だった。
 ヴェトナムの民衆は最初この独立を好意的にとらえていた。ヴェト・ミンの行動もしばらくはなりをひそめた。しかしこれはフランスからの独立は意味しても、外国からのすべての干渉を排除したものではなく、バオ・ダイの体制が日本軍の傀儡であることはすぐに明らかになった。このからくりを見抜いたヴェト・ミンは対日ゲリラ作戦に出ようとした。
 3・9事変では、ハノイの大学生二十六人が不穏分子として日本の憲兵隊に逮捕された。チャン・チョン・キム内閣の長老のドアン法務大臣が彼らの釈放を憲兵隊に掛けあってほしいと小牧に頼んできた。
 小牧はドアンに策をさずけて、ヴェトナムはもともと儒教精神の国であるから、子どもの過ちは親が監視するので、親の慈愛に任せてほしいと訴えさせた。ドアン法相はその方法で憲兵隊と交渉し、無事に二十六人の学生を解放してもらうことができた。
 3月9日の夜、日本軍とともに行動した若者のなかには不幸にして亡くなったものもあった。小牧が可愛がっていたチャン・ヴァン・ニョンもその一人で、放送局を襲撃する一隊に加わり銃弾に倒れたのだった。
 小牧近江がハノイで出版したリーフレット「une date(ある日)・・・」の巻末の「覚書」には次のように書かれている。
 「私は運命論者ではないが、グェン・チェン・ジェム(阮天覧)とチャン・ヴァン・ニョン(陳文戒)に二人の若い友人が、ちょうど二カ月をへだてて死を迎えたとき、はかないこの世にも何か超現実的なものが存在すると考えざるをえなかった。つまりこれは単なる偶然と軽く考えることができなかったのである。
 彼らは二人ともハノイ大学で法律を学ぶ学生で、友人というよりも、離れがたい兄弟という間柄だった。チャン・ヴァン・ニョンは3月9日のあの悲劇の夜、華々しい最後をとげた。そしてグェン・チェン・ジェムは、ちょうど二カ月後に、兄弟たちの血が流されるのを全力で阻止しようとして自らの命を捧げたのだった。そのことはまったく不当なその死の三日前に書かれた手紙が示している。・・・」
 チャン・ヴァン・ニョンはハノイ大学法学部の学生で、親友のグェン・チェン・ジェムと連れだって、小牧のもとをよく訪ねてきた。兄貴分はグェンの方で、チャン・ヴァン・ニョンの妹とは相思の仲で、いずれ結婚することになっていた。そのグェンも越同盟(ヴェト・ミン)と交渉するために、日本軍の支援をうけて北の地帯へ出かけていて命を落としたのである。それが奇しくも二カ月後の5月9日だった。
 北部ヴェトナムのハジャンには、日本軍の決起に抵抗する越南同盟(ヴェト・ミン)の部隊があり、日本軍は事変直後は交渉により彼らとの戦闘を回避しようとした。その説得のために送りこまれたのが、グェン・チャン・ジェムだった。同行したのは大川塾の第一期生で、応召して軍に所属していた原田俊明と若い丸山義雄中尉だった。原田は現地に来て大川周明が唱える大アジア主義に疑問を持ち、その分真のヴェトナム民族の独立運動に共感しつつあった。三人はヴェト・ミン軍と連絡をつけるべく北の山岳地帯へ踏み込んだのである。
 小牧がグェンのフランス語で書かれた手紙とは、ジェムが死ぬ三日目の5月6日、大原省のフ・ダイー・フーで投函したもので、「覚書」には全文が収録されている。その一部を小牧自身が『ある現代史』のなかで翻訳し、紹介しているので、それを引用してみよう。
 小牧はヴェトナムの青年たちからは本名で、「Père OMIYA (近江谷おやじ)」と呼ばれて親しまれていた。ちなみに彼はこのとき五十歳だった。
 「近江谷おやじ、私たちはここ大原にいますが、事件はますます急迫するばかり。朝から晩まで、農村と山岳と森林地帯に苦労しています。ハノイからもどこからも音信なく、まるで無関心な世界。不安な農民たちは混沌とした世界にいるようです。果たして目的を達するかどうか、心もとない次第で、でも一縷の望みをかけております。というのは、越盟(ヴェト・ミン)の副部隊長と会うことができ、どうやら彼らの仲間と話し合いをする段階に達したからです。彼らの回答を待ちながら、はやる心を抑え、“つねに落着け”とかねがね教えて下さったおやじさんに一筆啓上することをたいへんにうれしく思います。(中略)
 ・・・私たち安南人と、あの思慮深い人たち(註・ヴェト・ミンのこと)は、生死をかけているのですが、祖国を思うそのちがいはなんと大げさに考えられていることでしょう。すると、私は豁然として悟ったのでした。あの真理、生命のたった一つの美、すなわち働くことを愛する心、いうなれば自己を盛り上げる意志、労働による人格の自由な発揚にあるということ、そして、それは現段階において常に祖国のために捧げねばならぬということ。 
 午前一時になりました。外では雨が降っています。回答はまだ来ません。もっとお話ししたいことがありますが、これ以上、ご多忙のあなたをわずらわしたくありません。最後にたった一つのお願いを聞き届けて下さい。農村においては、まだまだ民衆解放の啓発がなされておりません。そのために民衆の心を目覚ますために、移動劇場は緊急を要する唯一の効果と存じます。なにとぞ、ハノイ市シャロン街四十五番地に居住のチャン・ホン君をお呼び出しになり、かれにこの仕事をお任せ下さい。すでにかれはこの道の技術家であるのですからきっと成功させるでしょう。
 終りにのぞんで、あなたに尊敬と心からなる感謝をおくります。」
 グェン・チャン・ジェムはこの手紙を書いた三日後に、二人の日本人とともに殺された。誰が犯人か、なぜ殺されたのかは不明だった。小牧たちはグェンの同志たちと相談して、彼の最後の望みだった移動劇場を実現させた。
 事件後に日本文化会館としては何ができるか。小牧たちがまず考えたのが、民衆が食糧に困らないようにできるだけのことをすることだった。北部ヴェトナムは飢饉に襲われて、多くの餓死者が出る状況だった。しかも日本軍の進駐以後、米の値段は高騰していた。その背景には現地人の一部とフランス人の闇商人が結託して米の買占めをしているという噂であった。
 ク・デタ後に、日本文化会館が各所で米の炊き出しをはじめると、小牧たちに信頼をよせるハノイの市民がかくまっていた米を送ってくれるようになり、たちまち十九トンの米が集まった。これを炊き出しに使ったあとは、残りは日本軍を通さずに樹立されたばかりの現地政権に渡した。
 小松清は小説仕立ての『ヴェトナムの血』で、小牧近江を次のように描写している。
 「志村老の貧乏人好き、子供好きは、彼の越南〔ヴェトナム〕好きとともに、ハノイでは有名だった。この老人ほど、利欲から離れて、越南への愛情をこった異国人は少ないだろう。ハノイのインテリ青年たちは彼を《志村老〔ペール・シムラ〕》という愛称をもって呼んでいた。人道主義者でもあり、社会主義者でもある志村は、喰うや喰わずの人間たちが群をなしているこのハノイの街を、フランス人や日本人たちが、わが物顔にすごく豪奢な自動車で砂塵を捲きあげて疾走するのをみて、彼らの傍若無人さを日ごろからひんしゅくしていた。ひとさまの家に無理やり乗りこんできていながら、お行儀のわるいこと! と口癖のように云っていた。戦争中は、インドシナの日本文化会館の事務局長という重要な地位についていたのに、彼は官邸もいらぬ、自動車も不要と云い張って、現在いるハノイ郊外の貧乏街の入口に小さな別荘風の邸宅を借り、ここから会館に三輪車で通っていた。(中略)志村は前後不覚に酔うと、いつもところ構わず「インターナショナル」を調子外れの大声で、怒鳴るように唄った。日ごろ胸の底に鬱積している憤りや、不満、悲しみ、屈辱が、酔うと必ず排け口を見出して、歌声となって外にとび出すのだった。(中略)彼が越南の青年たちや大学生にとりまかれ、敬愛の的のような生活をしてきたのは、これらの若者たちの愛国心の純粋さに心打たれるからでもあったろうが、それ以上に彼が哺育している若者たちが、将来どんな働きをするだろうかと、さまざまな空想に耽る瞬間を楽しんできたからでもあったろう。もし越南が完全に独立したとき、この国に残留することが許されるなら、(政府は勿論、賓客として志村を待遇するだろうが)志村はハノイから二、三十キロのところで、農場をもちたいと秘かな希望をもっていた。これも彼の無償の空想だと云えるかも知れぬが・・・」
 志村老というのが小牧で、先にも述べたようにこのときはまだ五十歳だった。
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by monsieurk | 2013-08-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)