フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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小牧近江のヴェトナムⅩⅣ「敗戦前後」

 インドシナでは日本軍とヴェト・ミンが対峙した状態で、1945年8月15日をむかえることになった。翌16日には、アメリカによってひそかに武器を援助されていたヴェトミン軍が総蜂起し、19日には部隊がハノイに進軍して、行政機関や工場、主要な道路を占拠し、市立劇場前の広場で大集会を開いた。
 5日後にはバオ・ダイ帝が退位し、ホー・チ・ミンは9月2日ハノイに到着すると、5日にはヴェトナム民主共和国樹立を宣言した。宣言はアメリカの独立宣言の引用ではじまり、日本については次のように述べていた。
 「1940年の秋、日本のファシストたちが連合軍に対する戦闘の目的で新しい軍事基地をつくるためにインドシナに侵略してきたとき、フランスの植民地主義者たちは彼らに膝を屈し、われわれの領土を彼らに引き渡した。この日からわれわれ人民は今までよりもいっそう苦しくなり、惨めになった。(中略)
 日本人の降伏ののち、われわれ人民は国家の主権を回復し、ヴェトナム民主共和国を樹立するためにこぞって立ちあがった。真実は、われわれ人民は独立をフランス人の手からではなく、日本人の手から奪い返したのだ。
 われわれヴェトナム民主共和国臨時政府の閣僚は、世界に向かっておごそかに宣言する。ヴェトナムは自由な独立国になる権利があり、事実、すでにそうなっている。すべての人民はその独立と自由を守るために、すべての物質的、精神的力を動員し、生命と財産をささげる決意である。」
 戦時中はバオ・ダイに対して不即不離の立場を貫いたサイゴンのファン・ニョック・タックのスポーツ連盟は、解放義勇軍としてホー・チ・ミン臨時政府の正規軍に加わった。
 小牧近江は『ある現代史』で、ハノイの様子を次のように述べている。
 「八月十七日、朝起きて巷をみると、家々にぜんぶ赤旗がなびいていました。たった一夜で、このおとなしい民族が、赤旗の天下を樹立している――私は呆然としていました。
 少し経って四、五人の越南の青年が、赤旗をおし立てた自動車に乗ってやってきました。「おやじさん、元気か。」みると、顔を知っている若い連中ばかりです。椅子をすすめるのですが、座りません。彼らは立ったまま、礼儀正しく、次のようにいいました。「まことに、あなたの国にとってはお気の毒であった。ながい間、われわれのためにいろいろと力を添えてくれたことに感謝の意を表わしたい。われわれは、たとえ日本が負けても、日本に対する同情は失なわない。いや、われわれは日本国民にたいしてむしろ一層の愛情すら感じているものである。今後もいっしょにやりましょう。
 私は答えました。「ありがとう、ありがとうよ。ろくにお役に立てなかった私たちに、それだけ言っていただけるとは感謝感激にたえない。ところで、今度は、諸君らが、私たちを、日本民族を援けてくれる番だよ。それを忘れてくれないように。まず、かけたまえ。」こんな話しをとりかわしましたが、青年の中の一人は、すでに警視総監に任命されていました。」
 小牧近江はまもなく敗戦国民として、国境をこえてきた中国軍(蒋介石軍)が管理する収容所に送られることになった。収容所はハイフォン港に近いカン・エンに設けられた。ポツダム宣言にもとづいて、北部ヴェトナムには10万人の中国兵が進駐して、日本軍の武装解除にあたっていた。
 一方、小松清はヴェトナム共産党のブラック・リストに載った親日派の越南国民党の人たちを安全地帯に逃すために、日本軍から提供された自動車やトラックで武装したキャラバンを編成して、ハノイからラオスを経由してサイゴンまで2000キロの道を縦断した。このサイゴン行には戦勝国となったフランスの勢力とヴェトナム人勢力の均衡を見きわめる目的もあった。さらには3月9日の刑務所襲撃で、ハノイにいるとフランス側に逮捕される危険もあったのである。
 サイゴンには3週間とどまったが、ホー・チ・ミン臨時政権の直轄下に入ったサイゴンの越南政庁の中心人物は、旧知のファン・ニョック・タックとチャン・ヴァン・ジャオだった。小松はこの二人に会い、懇談することができた。そのとき驚くべきことを聞かされた。ホー・チ・ミンは、かつてのグエン・アイ・コクその人だというのである。しかしグエン・アイ・コクは十年ほど前に、亡命先の香港で結核のため死亡したと伝えられ、フランス総督府もこれを公式に認めていた。
 小松は半信半疑のまま1945年9月22日に、サイゴンを発ってハノイにもどってきた。ハノイでは市内のほかに郊外にも二、三の隠れ家をもって、そこを転々とする生活をつづけた。
 南部ヴェトナムでは、その後10月9日にルクレルク将軍のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。ルクレルクはパリ解放のとき戦車部隊を率いて一番にパリへ入った人物だった。
11月中旬、ファン・ニョック・タックとチャン・ヴァン・ジャオがハノイにやってきた。すぐにファン・ニョック・タックが、小松清がホー・チ・ミンと会えるようにアレンジしてくれた。ヴェトナムをめぐる国際情勢を話し合うということだった。
 指定された日の午後、ハノイ市内の小湖の縁を通ってインドシナ銀行の向かいにあるヴェトナム臨時政府の官舎に行った。ここはかつてトンキン理事長官の官邸だった建物で、厳重に警戒されていた。
 入口まで行くとファン・ニョック・タックが迎えるために飛び出してきた。そして彼を中に導くと、二階の一番奥の部屋に連れて行った。ホー・チ・ミンが接客に使う部屋だった。
 「広い窓を背にして一人の小柄な男が立っていた。逆光線で顔の輪郭はよく見えなかった。相手の男は、落ち着いた足のはこびで、手をさしのべながら私の方に近寄ってきた。小さい。阮はもっと大きかった。少なくとも自分よりは大きかったのに、いま私の前にいる男は自分より小さい、阮ではない、と私は直覚的に思った。」(小松清「ホー・チミンに会うの記」、「朝日評論」1950年3月号)
d0238372_12365419.jpg 小松は目の前にいるホー・チ・ミンは、30数年前パリで出会い、よく話をしたグエン・アイ・コックを彷彿とさせるが、別人と判断したというのである。
 「実によく似ているけれども、パーソナリティとか性格とかといった内面的なものの外に表れた表情の面では、非常に異なったものがあった。阮は苛烈なまでに厳しいもの、鋭いものがあったが、いま眼の前にするホー・チ・ミンは秋日のように静かな穏やかさをもっている。彼の意志は他人を説得し、征服する力ではなく、むしろその正反対に自分に打ち克ちながら、他人を抱擁してゆく人格的な大きさとしてうけとれた。」(同上)
 これが小松の下した結論だった。しかし小松が書いている異人説をそのまま受け入れることはできない。グエン・アイ・コックは本名をグエン・タト・タインといい多くの変名を名のりつつ三十年近い外国生活をおくった。パリ時代のグエン・アイ・コック(阮愛国、愛国者グエン)もその一つで、その後の革命にささげた歳月が彼を大きく変貌させたことは大いにあり得る。チャールズ・フェンの『ホー・チ・ミン伝』(岩波新書)をはじめ、多くの評伝がグエン・アイ・コックとホー・チ・ミンが同一人物であることを疑ってはいない。
 この日、小松はホー・チ・ミン主席と三時間近く懇談した。そしてこの会談が、後に小松や小牧がフランスとヴェトナム民主共和国臨時政府との間の交渉の仲介役をはたすのに役立つことになったのである。
 1945年の暮、小松はまだ収容所行きを拒んでハノイにとどまっていた。このころ南部ではヴェトナム軍とフランス軍が戦闘をまじえ、フランス遠征軍は北上してトンキン地方にまで進出する勢いをしめしていた。
 終戦後まもなく、ハノイにはジャン・サントニィ少佐を主席とするフランス代表部が設けられたが、フランスは中国の力がインドシナにおよぶのを防ぐためにも、なんとか早くヴェトナム革命政府との間の妥協策を探り、交渉によって局面の打開をはかろうと考えたのである。中国軍とヴェトナムのナショナリストたちが手を組めば、事態はさらに複雑になることが避けられない。それはなんとしても避けたいというのがフランス側の本音だった。
 一方、樹立された臨時革命政府にとっても、フランスによって正式に交渉相手と認められ、和平協定を結ぶことは、臨時革命政府のなかでのホー・チ・ミンたちの立場を確かなものにする結果となる。そしてなによりも歴史的にヴェトナムを支配してきた中国の力を少しでも早く排除する必要があった。こうして1945年の秋には和平に向けた両者の交渉がはじまっていたのである。  
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by monsieurk | 2013-08-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)