ムッシュKの日々の便り

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小牧近江のヴェトナムⅩⅤ「仏越協定」

 カン・エンの収容所に多くの日本人とともに収容された小牧近江はどうしていたのか。『ある現代史』の記述によれば次のようであった。
 「中国軍の監視の目をくぐって、私のところへハノイから何回となく手紙が届きます。ぜひハノイへ帰って来い、という催促で、ハノイで私に会いたいという人が待っているからなんとかして機会をつくれ、という再三の要求でした。もちろん、収容所から出るなどということは、不可能な話でした。」
 ところが、1946年の正月になって収容所を出る好機がやってきた。日本軍の武装解除がほぼ決着し、次はインドシナにある日本商社の財産を接収する段階になった。そのために各商社の代表者は至急ハノイに戻れという命令が収容所に届いた。
 印度支那産業としては関係者が協議した結果、すでに会社を離れて日本文化会館の責任者になっていた小牧が適任だということになり、小牧は合法的に収容所を出ることができることになった。彼は数名の日本商社代表と中国の軍用トラックでハノイへ向かった。小牧は回想の続きでこう述べている。
 「ハノイに行ってみますと、白系ロシア人でフランス国籍のソロヴィエフと親父のフランス人フランソワ・アランが待っていました。私に会いたいといっているのは、なんとフランス側でした。私はフランス側の代表と会いました。(中略)
 ソロヴィエフは、帝政ロシアの主馬頭をしたとかいう名門出でハノイで仲買商をしていましたが、私とウマの合った親しい友人でした。収容所にいる私に「会いたい人が待っている、出て来い」と手紙を寄越したのは、このソロヴィエフだったのです。
 かれは、私に会いたがっている人のところへ、案内しました。案内された建物の入口には、フランスの海兵隊員が銃剣をもって立っていました。まだ、フランスが表面にでられない中国軍進駐下のフランス側であったため、建物は立派でしたが、隠れ家のような感じがしました。階段を上って、通された部屋に入ると、あかぬけした背広服の青年が、机からすっくりと立ってきて、私に手を差しのべました。「ボンジュール、ペール・オーミヤ」(「近江谷おやじせん、今日は。」)と、その青年はいとも慇懃な態度を示しました。」
 この青年こそフランス軍のフランソワ・ミソフ大尉で、8月15日にパラシュートでハノイに降下して、それ以来フランス側代表部の副責任者として現状分析にあたってきたといい、その上で小牧にぜひ力を貸してほしいということだった。
 ハノイのフランス代表部主席のサントニィと、革命臨時政府のホー主席との交渉はこの年の秋からはじまっていたが、ヴェトナム側はあくまでも独立を前提に協議の席に着こうとしたのに対して、フランス側は独立には応じられないとして、意見は対立したまま平行線をたどっていた。そのため北部トンキンでも武力衝突の可能性が高くなっていた。フランス代表部は、この事態を打開するための斡旋役を探していたのである。
 それには双方の立場をよく理解した上で、一方的な見解に流されない人物を見つける必要があった。ミソフ大尉がいろいろと当った結果、浮かんできたのが小牧近江であった。ミソフは初対面の小牧にこう切り出した。
 「なんとか打開策を講じないと、重慶からやってきた中国軍(蒋介石軍)ことに雲南の蘆漢軍がなかなか引揚げそうにもなく、ずるずるとこのまま居座りそうだ。安南の人たちも、雲南軍には早く引揚げてもらいたいと希望している。日本軍の武装解除をした中国軍を一日も早く撤退させること、それには進駐している意義をなくす必要がある。もし、フランスが、インドシナと和平協定を結ぶことに成功すれば、そうならざるを得なくなる。民心の不安を一掃し、この和平協定のために、安南人に知己の多いあなたにひと働きしてもらいたいのだ。」(同上)
 フランス側は日本兵の多くが脱走して越南独立運動軍に合流することを怖れており、もしそうしたことになれば、千数百人の在留日本人がいつ帰国できるかわからなくなる。小牧はこの役目を引き受ける決心をした。その上で小牧は、所在のわからない小松清をフランス側はどうしようとしているのかと訊ねた。ミソフの答えは、小松はフランスを愛しているようだし、なかなかのやり手のようなので、小牧と協力して事に当たってほしいということだった。
 フランスとしては分裂状態のヴェトナム側が統一政権をつくって、フランス側との交渉のテーブルに着くよう調整を進めてほしいと望んでいたのである。その後、小牧は小松清と会うことができ、事情を説明して協力をえることになった。こうして小松清も1946年1月21日にミソフと面会した。このときフランス側は、ヴェトナム側に提示できる最終条件を用意していた。
 1、インドシナにおけるフランス代表部は、ホー・チ・ミン主席を首班とする越南(ヴェトナム)臨時民主共和政府を交渉の相手と見なす。
 2、フランス代表部は、当該政府に一切の自治権を承認する用意があり、越南の財政、外交については、停戦後の協議によって取り決める。フランスの経済的、文化的利益についても同じ。
 3、フランス代表部は国土防衛の立場から越南共和国の軍隊を承認する。
 4、越南の統一、コーチシナの帰属問題については越南国民の国民投票に問うこととする。
 5、越南はラオス、カンボジアの二国とともにインドシナ連邦を構成し、かつフランス連合に参加する。
 6、将来のインドシナに関する諸々の規定については、一切の交戦状態の終始後、フランスとの友好的関係において直ちに正式の交渉を開始する。(小松清『ヴェトナムの血』)
 この条件をもって、小牧はおもに国民党の説得にむかい、小松はホー・チ・ミンの側へ行くと思うと、次には大越党に行くといった活動ぶりだった。そして埒〔らち〕があかないとなると、ハノイの労働者に働きかけてストライキを組織することまで考え、主として電気産業の労働者たちを説得して、交通機関をいっせいに停めて、電気を消すことを画策した。ストライキなど経験したことのないハノイの人たちにとっては、こうした噂が流れただけで大きな効果があった。
 小牧と小松はフランス側と接触するときはいつもジャロン・大通りにあるソロヴィエフの家をつかい、彼に証人役をつとめてもらった。
 ヴェトナム側の三つの勢力は、それぞれ自分たちの方針での独立をめざしており、各勢力の間の調整を進める二人の努力を有害と考えるものも少なくなく、絶えずテロに遭う危険があった。小松は外出のときはヴェトナム人の服装をしてリヴォルヴァーをもち、海南島からきた日本人青年を同道するなどの用心をおこたらなかった。
 小牧はハノイではホテルに泊まることができなかったが、仏日合弁の「大日本燐嚝」の事務所があり、その代表取締役のアランが友人だったことから、そこを宿舎がわりにしていた。事務所には同窓の山田や北村という女性が勤務していた。
 ある雨の夜、自室で小牧が本を読んでいると、うしろから肩を叩かれた。振りかえると中国軍の服装をした男が二人立っていた。一人はピストルをもち、もう一人は両刃の刃物をもっている。小牧に手錠をかけよとしたので、それを払いのけようとした小牧は刃物で掌の親指の下を刺された。幸い傷は動脈をそれていたため大事にはいたらなかったが、彼らは小牧を階下の山田の部屋に押し込めると、部屋にあった金庫を開けさせて金を奪って逃げて行った。のちに犯人たちは逮捕され、右翼のヴェトナム人とグルになった中国兵の物とりだったことが分かった。
 小牧や小松をふくむ当事者たちの努力が実をむすんで、ヴェトナムでは1946年2月左右の連立内閣ができ、その全権とフランス側が正式に交渉することになった。そして3月6日、フランスとヴェトナムと和平暫定協定が、アメリカ、イギリス、中国の代表が列席するなかで締結された。不可避とみられた軍事衝突は回避されたのである。小牧たちの達成感は大きかった。
 小牧はその後のハノイの様子を、「同年三月十七日、晴れて軍隊をもったヴェトナム民主共和国の軍は、三色旗のフランスと肩をならべ、市民の万雷の拍手に迎えられハノイに入場しました。そのときはすでに圧倒的な民衆の支持をうけたホー・チ・ミン政権の天下でした」(『ある現代史』)と述べている。
 この協定はこのあと一年も経たないうちにフランス側によって破棄され、フランスとのあいだで、独立をかけた戦闘が再開される運命にあった。だが少なくとも当初においては将来的希望をもったものであり、実際にトンキン・デルタ地域の平和をもたらしたのである。
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by monsieurk | 2013-08-24 22:29 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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