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堀口大學と岩波

 新潟長岡市で刊行されている研究誌「堀口大學研究誌 月下」第14号(平成25年9月発行)が届いた。堀口大學の出身地である長岡の人たちが中心になって、地道な研究活動を続けている「長岡★堀口大學を語る会」の機関誌で、大學の研究者や彼にゆかりのある人たちが研究会に招かれて行う講演の記録が毎号の目玉の一つである。
 私も大學の父、堀口九萬一の評伝『敗れし国の秋のはて』(左右社、2008年)を書いた縁で、昨年5月に「堀口大學の父、九萬一」という題で講演したことがある。今回は堀口大學の晩年にインタビューを重ねて、それを『日本の鶯』のタイトルで出版された関容子さんの講演が載っている。
 関容子さんの講演記録は大変興味深いものだが、これについては次回に紹介することにして、いまは残紙余話、「岩波文庫『月下の一群』出版うら話 見えてきた意外なこと」を取り上げたい。
 日本の詩歌に多大な影響をあたえた訳詩集としては、上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』とともに堀口大學の『月下の一群』があげられるのが文学史の常識である。前の二冊は戦前すでに岩波文庫に入れられたが、大學の『月下の一群』は今年2013年にようやく岩波文庫の一冊として刊行された。1925年(大正14)に、長谷川巳之吉の第一書房から豪華本として出版されてから88年ぶりのことである。この不当ともいえる扱の裏には、岩波書店の創始者、岩波茂雄と長谷川巳之吉の微妙な確執、そして岩波書店の官学尊重の社風が影響しているというのが、紹介しようとする文章の主旨である。
 岩波文庫は京大出身の気鋭の哲学者三木清の助言を得て、昭和2年(1927)7月に創刊された。「古典的な価値のある本を簡易な形式において逐次刊行する」という刊行宣言のとおり、学生や新興市民階級に歓迎された。
 長谷川巳之吉が出版界と関係するようになったのは、岩波書店に勤めていた小倉武雄の紹介で、雑誌「黒潮」の編集にたずさわったことがきっかけだった。その後、「玄文社」に入社して主任になると、雑誌の編集のかたわら自分でも詩や演劇評論を書くなど活躍した。やがて自分でも出版社を立ち上げたいと考え、それを真っ先に相談したのが松岡譲だった。新潟県三島郡出雲崎鼻ノ井の出身で、松岡も新潟長岡の出身で、堀口大學とは長岡中学の同期生であった。
 こうして長谷川は念願の出版社「第一書房」を立ち上げ、最初に出版したのが松岡の『法城を護る人々』だった。この松岡譲との密接な関係が、長谷川と岩波茂雄、あるいは岩波書店の間をこじらせることになった。
 松岡は東亰帝国大学在学中に「第二次新思潮」に参加して、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄たちとともに、夏目漱石の家に出入りするようになった。やがて松岡は漱石の長女筆子をめぐって久米と争い、結局は松岡が彼女と結婚したのだが、これがもとで久米や小宮豊隆たちと疎遠になり、女婿でありながら岩波が出版する漱石全集の編纂に加わることができなかった。
 長谷川巳之助が立ち上げた「第一書房」は、折からの円本ブームもあって、次々に豪華本を出版して好評をえた。さらに「パンテオン」、「オルフェオン」という雑誌を刊行して、ヨーロッパの新しい文芸思潮を紹介し、多くの作品の翻訳を掲載した。執筆陣は堀口大學、佐藤春夫、松岡譲、土田杏村などで、彼らの多くは慶応義塾など私学の出身者だった。岩波が東大を中心とした官学派で執筆陣を固めていたのと対照的であった。
 ここからは微妙な問題なので、「岩波文庫『月下の一群』出版うら話」の文章を引用する。
「このように昭和初期において岩波の官学派に対して、第一書房の新潟県出身者の在野性といった対立の構図がしだいに鮮明になっていくのである。
 そのなかでも象徴的だったのが、大學のフランス文学翻訳に対する東大仏文科の嫌がらせである。官学出ではない大學がヴェルレーヌやボードレール、それにコクトーやアポリネールなどを次々と第一書房を通して翻訳・出版したことから、東大仏文の彼らは危機感をおぼえ、大學を悪しざまに批判するようになる。次のような新聞批評が残る。

 〈新詩の処女地を開拓した批評は、詩魂なき詩人により、或は詩を解し得るも学的洞察なき詩人により、或は乾燥無味なる学徒によって、偏見的に部分的に試みられた。・・・しかして正当なる文学史を編む上は、これらは厳格なる再批判を加えられて、詩そのものが絶対及相対の価値を与えられねばならない。〉(鈴木信太郎「『日夏耿之介著明治大正詩史』評」、「東京朝日新聞」昭和4年11月25日)」

 「うら話」の匿名の筆者は、ここで「詩魂なき詩人」、「学的洞察なき詩人」と貶められているのは明らかに堀口大學だという。
 日夏耿之介は「明治大正詩史」を「中央公論」に連載したときは、堀口大學を言葉を極めて褒めた。だがその後日夏は大學と絶交し、これを一冊にまとめた単行本では大學評を大幅に書き直して、「その色情詩は・・・遊戯的淫慾の文字上小技巧の小産物に過ぎざる点に於て、共同後架〔便所〕の不良的落書にも如かざる・・・」と酷評した。この評に対して詩壇の一部から日夏を非難する声があがったとき、日夏を擁護するため書かれたのが、先の鈴木信太郎先生(恩師なのでこう書く)の新聞記事で、これは明らかな勇み足、贔屓の引き倒しである。
 「うら話」の筆者は、「このように大學は東大仏文科関係者からは第一書房派とみなされ、その後陰に陽に批判がくわえられていくのである。日夏はさらに鈴木信太郎や木下杢太郎(漱石門下で東北大教授)など学匠詩人たちに近づき大學排斥に加担していく。
 こうした岩波と官学東大とが手を組み、大學や松岡らを文壇や詩壇から排除しようとする動きが実はあったのであった」と書いている。
 標的になった大學は次のような詩を残している。

   敵

  赤門城にたてこもる
  敵は大勢
  身はひとり
  しかも病身
  弱法師〔よわほうし〕

  堪えて
d0238372_837411.jpg  忍んで
  我慢して
  命の長さで戦う以外
  生き残る手はないと見た
  四十だった

  その後 重ねた四十年
  天敵天寿に蝕まれ
  つぎ つぎ敵は滅んだ
  天のお裁き
  天罰覿面

  今
  ながらえて八十歳
  無病息災
  やっとつかんだ晩い春
  墓地でも買うか!

 堀口大學の表現は直裁にすぎるきらいはあるが、それは彼が味わった悔しさのなせるわざである。こうした逸話を秘めた岩波文庫版『月下の一群』は、今年5月に初版が刊行された。解説は東大仏文出身の詩人で、ボードレールの『悪の華』の見事な翻訳もある安藤元雄氏が書いていて、こう評価している。
 「ほぼ自分と同時代のフランス詩を、いま書かれ、いま読まれつつあるそのままの姿で日本語に移そうとした訳者の冒険は、こうして大きな実を結んだ。そこにはいくつもの幸運があったかも知れないが、そのうしろに、一切の予備知識や前提条件を捨てて、いわば徒手空拳で、あえて言えば裸身で、自分の好みだけをたよりに原詩の言葉のひとつひとつと直接に向き合おうとする、訳者の率直な根本態度があった。いまにして考えればこれは、詩を前にするときに、誰もが当然とるべき態度だった筈だ。」
 なおこの「うら話」の筆者は名前を明かしていないが、大學や長谷川巳之助の事績に通暁した人物にちがいなく、なんとなく推測できる。 
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by monsieurk | 2013-09-08 22:30 | | Trackback | Comments(1)
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Commented by あきお at 2016-05-19 01:55 x
偶然この記事を見つけて読みました。とても興味深く、面白かったです。
 東大仏文閥が堀口大學に対して、このような嫌がらせをしていた事を初めて知りました。
 堀口大學の翻訳の多くが、岩波文庫ではなく新潮文庫に収められている理由も分かりました。
 鈴木信太郎がこんなにもゲスな書評を朝日新聞に書いていた事を、息子である左翼仏文学者の鈴木道彦はどう思っているのでしょうか?
 東大仏文科教授(当時は助教授?)という権力者が、フリーの翻訳家に対してパワハラしているとしか思えないのですが…。
 晩年の大學が、自作の詩によって意趣返ししていたのには笑いました。これぞ詩人の魂、詩魂だとは思いませんか?
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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