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堀口大學とローランサン

 『長岡★堀口大學を語る会』の機関誌「月下」の第14号に掲載された、関容子さんの「大學先生と『日本の鶯』」には興味深いエピソードが語られている。それは大學とフランス人の画家マリー・ローランサンとの恋物語である。
 大學とローランサンの関係については、拙著『敗れし國の秋のはて 評伝堀口九萬一』でも書いたので、その部分を要約してみる。
d0238372_1655388.jpg ローランサンは1914年6月、ドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェッチェン男爵(Baron Otto von Wätjen)と結婚し、新婚旅行をかねた旅行でスペインとの国境に近いアルカションにいたとき、フランスがドイツに宣戦布告して第一次大戦が勃発した。結婚してドイツ国籍となったローランサンはフランスにいることができず、二人はピレネー山脈をこえてスペインへの亡命を余儀なくされた。大學が傷心の彼女と出会ったのはそんなときであった。大學の父九萬一はこのとき駐スペイン公使でマドリッドにおり、大學も第一時大戦の戦火をさけて、父のもとで暮していた。
 大學はマリー・ローランサンについて幾つも文章を書いているが、その一つ「キュビズムの女神」によれば、その経緯は次のようなものであった。
 1915年(大正4)1月20日、大學は両親とともに、異母弟の瑞典の肖像を依頼するために、あるペイン人画家を訪ねたが、大學はこの画家の絵が気に入らなかった。そんなとき、そこに居合わせた知人の画家ペニャから、隣のアトリエで絵を描いているフランス人画家がいることを聞かされた。この日は会えなかったが、数日後ペニャの仲介でアトリエを訪問する約束ができた。
 「私は一人高い高い木造の階段を、私を待っている画室の方へ上がっていった。画室の前に立ち止って、私は呼鈴の釦に指を置いた。静かに中から戸が開いて中から水晶のように透明な顔をもった、未だうら若い女が姿を現わした。これが「キュビズムの女神」マリ・ロオランサン・ド・ワッツェン夫人であった。」
 この日はアトリエで絵に関するさまざまな話がでて、二人は同じ感性を相手に感じた。このとき大學は23歳、ローランサンは7つ年上だった。南国スペインとしてはうすら寒いこの一月の宵、大學は彼女が宿泊するホテルまで送っていった。
 その後大學はローランサンから絵を習い、アポリネールをはじめフランス現代詩人について、貴重な情報を彼女を通して教えられたのである。彼らは「エスプリ・ヌヴォー(新精神)」と呼ばれる一群の詩人たちで、大學は彼らの新しい詩の多くを『月下の一群』で訳すことになる。
 二人の交際は、ローランサン夫妻がバルセロナへ移るまで続いた。散歩の途中で雨に降られ、逃げ込んだプラド美術館でゴヤの《裸のマヤ》を見ながら、大學がぼくはこれを女の眼でまともに正視したかったと言うと、彼女は、あら私は男の眼で眺めてみたいわ、と言い返したという。
 ローランサンはパリにいたとき、ピカソやマックス・ジャコブと親しく交わり、詩人のアポリネールとは恋人同士だったことも打ち明けた。アポリネールは1911年にルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑をかけられ、逮捕、拘留される事件を起こし、これをきっかけにローランサンは彼の許を去ったが、アポリネールの方は彼女を忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」である。
 ところで、マドリッドでのローランサンと大學の関係はどれほど親密だったのか。関容子さんも、そのことをインタビューのなかで訊ねた。以下は関さんの話である。
 「今日はわざわざ葉山から堀口すみれ子さんもいらっしゃっていただいていて、先ほどびっくりしたり恐縮したりしたばかりで、ちょっとお父様の恋の話は話しづらくなりましたが、私が連載中〔『日本の鶯』の〕は先生はもちろんのこと、もっとお若い奥様も当然お元気だったので、先生は明治生まれの男として、過去の恋愛の話などを得々と話すものではない、という美意識をお持ちでした。それで私がいくら迫っても、答えをあやふやにしてお逃げになるので、私もそのうちにそのことを追及しなくなるのですが、(中略)それから聞書きの取材も進んで、マリーのことが話題に登らなくなったころ、先生は何となくそれが物足らなくなったのか、あるとき「こんな本がありますよ」と戦前に出版された『月光とピエロ』という詩集を貸してくださったのですが、帰りの横須賀線の中で開いた本のページを繰るうちに、ピタリと釘づけになったところがありました。それは「遠き恋人」と題された詩でした」と述べている。
 関さんの目にとまったのは、こんな詩である。

  その年月のことについては
  お前が私を愛し
  (桃色と白のお前を)
  私がお前に愛されたとよりほか、
  私には何も思ひ出せぬ。
  
  それで今私は思ふよ、
  この私にとつて
  生きると云うは愛することであると。
  すべて都合のいい
  日と夜とがつづいて
  何んなにその頃、
  二人が幸福であつたであらう!
  
  お前は思ひ出さぬか?
  あの頃私たち二人の
  心は心と溶け合ひ
  唇は唇に溺れ
  手は秒に千万の愛撫の花を咲かせたことを?
  
  お前はまた思ひ出さぬか?
  その頃私たち二人の云つた事を?
  「神さまは二人の愛のために
  戦争をお望みになつたのだ」と、
  こんな風にすべてのものが
  ――カイゼルの始めた戦争までが――
  二人の愛の為めに都合がよかつたのだ。
  お前は思ひ出さぬか?
  
  それなのに、それなのに、
  お前はここに居らぬ
  私は叫びたく思ふよ、
  『お前が目に見
  お前の手が触れたものは
  今でも私の周囲にあるのに
  何故お前ばかりが
  ここにをらぬのかと・・・』
  
 老詩人は慎み深さから、関さんに事実を告げなかったが、打ち明けたい気持との相克に悩んだあげく、詩集の『月光とピエロ』を貸すという形で真実を伝えたのである。
 関さんの聞き書きに「日本の鶯」というタイトルをつけたのは丸谷才一氏とのことだが、それは次のエピソードから採られたものである。
 堀口大學はある日アトリエからの帰りがけに、ローランサンから紙切れを手渡された。そこにはこんなことが書かれていた。

  この鶯 餌はお米です
  歌好きは生まれつきです
  でもやはり小鳥です
  わがままな気紛れから
  わざとさびしく歌います
  
  
     
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by monsieurk | 2013-09-11 22:29 | | Trackback | Comments(0)
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