折口信夫の旅
折口信夫は広辞苑でこう解説されている。
「国文学者・歌人、大阪生まれ、国学院卒。国学院、慶大教授。民俗学を国文学に導入して新境地を開き、歌人としては釈迢空の名で知られた。主著「古代研究」、歌集「春のことぶれ」、詩集「古代感愛集」など。(1887-1958)。
今回必要があって、折口最晩年の弟子である西村亨の著書『折口信夫と古代学』(中央公論新社、1991年)をあらためて読み、若き日の折口がこころみた旅の特徴を述べた件に目が留まった。折口は柳田国男が提唱した新しい民俗学という学問に触れて研究をスタートさせ、柳田に倣って伝承や習俗を採訪するために全国の僻地を旅したことはよく知られている。西村は折口の旅のあり方を次のように述べている。長くなるが引用してみよう。
「折口の旅の場合、・・・土地を歩くこと自体に意味があり、歩くこと自体が目的だったと言っていいかも知れない。峠の茶屋で出会った炭山師や魚売りの女が、上方の景気のいい工場へ誘われて毎日のように家を抜け出て行く若い男女がいることを話しているのも、世間の動きと土地のありようとして折口の心に留まっているし、町や村のたたずまいを目にするにつけ「村の変遷、住民の交替などといふことを、考へない訣にはいなかつた」と言う。あるいは豆腐屋の看板の土地ごとの違いや、馬の餌にするおからの形の違いに目を留めたりしている。それらのすべてが土地土地の人間生活の表象であり、その背景に息づく庶民生活の哀歓を思わずにいられないからだ。
もうひとつ、折口の関心の対象になるのが「古代」だった。速呼の迫門〔岡山県瀬戸内虫明迫門・むしあけせと。曙の風景が美しいことで知られる〕を通過する際の緊張は、同時に、速呼の迫門に感じた古代日本人の心を自身の上に再現しようとする。
此迫門の名を思ふと、わたつみとの交渉の深かった時代の祖先の生活が、汐騒の漲り
充ちた勢ひで胸にせまって来る。われらの祖〔おや〕たちが、その又祖の世の記憶とし
て、長く忘れなかつた名詞の一つは、速吸〔はやすい〕ノ門であつたのである。(「海道
の砂 その一」、全集28巻)
・・・旅に疲れた神経を張り詰めながら、少し靄のかかったよう心持ちを昂揚させながら、目に映る外界の事象、耳に入る自然の物音や人間のことばに注意を凝らしている。刺戟に対して極度に感じやすく、思索はほとんど直覚として本質の把握に向かってゆく。そういう状態が折口の旅の真骨頂だったのだ。」(西村亨「折口信夫と古代学」120-121頁)
明日から3週間ほどフランスに出かけるが、「パリ日本文化会館」の審議会をはじめ、ほぼ毎日のスケジュールが決まっており、旅自体が目的といったものにはなりそうにない。それでも耳目を敏感にして気づいたものをブログで報告したい。
西村亨は折口信夫との出会いを「あとがき」で次のように回想している。
「折口信夫先生の風貌に初めて接したのは、昭和18年の11月、三田山上で行われた出陣学徒壮行会の場のことだった。
演説館前の木立に囲まれた広場で、折口先生は小さな壇上に立って、戦場へ赴く学生たちのために、はなむけの詩を朗読された。「教へ子をいくさに立てゝ、明日よりや、我は思はむ」と始まる長詩は後に全集にも収録されたが、ややかん高い声で朗読されるその声は決して大きくはない。初めのうち、後ろのほうから「聞こえません」という声が起ったりしたが、たちまちのうちに魅せられたような静寂があたり一帯を覆って、その中で先生の声だけが響き続けた。
その異様な雰囲気は経験したことのないものだった。その年の春予科一年に入学したばかりの私は、三田新聞の記者としてその場に居合わせたのだが、その晩ガリ版刷りで配布された詩を新聞用の原稿用紙に写しながらも、興奮はなお醒めなかった。」