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カミュ「ティパサでの結婚」Ⅰ

 昔から良い作品や文章を読んだとき、感動の証に背筋が震えることがときどきある。その最初の経験が、高等学校のときに読んだアルベール・カミュのエッセイ集『結婚』だった。古文の授業時間に教科書に隠すようにして読んでいて、突然背中がぶるっと震えた。新潮社から出ていた窪田啓作訳だが、すぐにガリマール社から出版されていたフランス語原本を手に入れて読んだ。本には、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」「砂漠」の4篇の詩的エッセイが収録されているが、冒頭の「ティパサでの結婚」の印象は強烈だった。
d0238372_1518691.jpg 昨2013年はカミュ生誕100年にあたり、フランスでは評伝や批評書が数多く出版されて、「カミュ・ブーム」再来の感があった。カミュは1913年に当時フランスの植民地だったアルジェリアの首都アルジェに生まれ、アルジェリア大学を卒業して文章を書き始めた。
 「ティパサでの結婚」は、1936年にまず鉛筆で草稿が書かれ、1937年に修正されて1938年にアルジェで小部数出版された。それが新たにガリマール社から刊行されたのは1950年のことである。
 「ティパサでの結婚」を初めて読んでから凡そ60年、窪田啓作、高畠正明両氏の既訳があるが、あえて自分なりの翻訳をこころみてみる。なお、ティパサはアルジェの西70キロにある沿岸の村で、カミュは1935年から36年にかけてよく訪れた。ここにはシュヌア(Chenoua)の古代遺跡がある。


ティパサでの結婚

 春、ティパサには神々が住み、神々は太陽とアプサントの香りのなかで語る。海は銀の鎧をまとい、空は真っ青で、廃墟は花でおおわれ、光は石の堆積の間で煮えたぎる。ある時刻、野原は太陽のせいで黒く見える。眼は睫毛の先でふるえる光と色彩の雫以外のものを捉えようとするが無駄だ。芳香性の植物の豊饒な香りが喉を刺し、並外れた暑さのせいで息がつまる。風景の彼方に、村を取りまく丘陵に発して、確実でしかも重々しいリズムで海中に蹲ろうとするシュヌア岬の黒い塊を、ぼくは辛うじて目にすることができる。
 わたしたちは入り江に臨む村を通ってやってきた。アルジェリアの夏の大地の激しくむせるような息ずかいが待ち受けている。黄色と青の世界に入っていく。いたる所でブーゲンビリアがヴィラの壁を越えていて、庭には、いまは白いがやがて赤い花をつけるハイビスカスや、クリームのように濃いティーローズ、繊細な縁取りをもつ丈の高い青いアイリスがおびただしく咲いている。石という石が熱い。わたしたちがキンポウゲ色をしたバスから降りると、肉屋が赤い車で朝売りの一巡をしている最中で、吹き鳴らすラッパが住民たちを呼んでいた。
 港の左手では、乾いた石段が乳香樹とエニシダの間を廃墟へと通じている。道は小さな灯台の前を通って、やがて広々とした平野へ下って行く。灯台の足元では、すでに菫色や黄色や赤い花をつけた肉厚の植物の叢が、一番手前の岩の方へさがっていき、その岩を海が口づけの音を立てて舐めている。微風のなかに立っていると、顔の片方だけが太陽に熱せられてあつい。ぼくらは、空から落ちてくる光、さざ波一つ起たない海、その輝く歯をみせる微笑を眺める。廃墟の王国に入る前に、ばくらは最後にもう一度あたりを見まわす。
 少し歩くと、アプサントがぼくらの喉をとらえる。その灰色の縮毛が見渡すかぎり廃墟を被っている。そのエキスが熱気で発酵し、強いアルコールがあたり一面に立ち昇り、それが大気をゆらめかす。ぼくらは恋と欲望の出会いを求めて歩いていく。ぼくらは、教訓や人が偉大さに求める苦い哲学を求めない。太陽と、キスと、野生の香り以外は、すべてが無用に思える。ぼくはそこで独りでいたいとは思わない。そこへはよく愛していた人たちと行き、恋をしている顔が浮かべる明るい微笑みをその表情の上に読み取ったものだった。ここでは秩序や節度は他人にまかせておけばいい。ぼくの全身をとらえるのは、自然と海のあの偉大な放縦だ。廃墟と春が結婚するなかで、廃墟はふたたび石と化し、人間が加えた光沢を失って自然に還った。この放蕩娘の帰還を祝して、自然は花を惜しみなくふりまく。広場の敷石のあいだで、ヘリオトロープが丸くて白い頭を伸ばし、赤いジェラニウムが、かつては家だったり、寺院だったり、公共の場所だったりした所に、その赤い血を注いでいる。多くの知恵が神へと導いた人びと同じように、多くの歳月が廃墟をその母なる家へと導いたのだ。ついに今日、その過去が廃墟から去っていく。落下する事物の中心へと導くこの深遠な力から、廃墟の気をそらすものは何もない。(続)
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by monsieurk | 2014-01-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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