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by monsieurk
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梶井基次郎の文学碑

d0238372_130535.jpg 資料を整理していたら、「梶井基次郎文学碑」と題した小冊子が出てきた。畏友、廣田昌義氏が30年以上前に古書店でみつけて、梶井基次郎の評伝を書こうとしていた小生に贈ってくれたものである。
 文学碑が伊豆・湯ヶ島の瀬古の滝の旅館「湯川屋」の前の小高い丘の上に建てられたのは、昭和46年(1971)11月3日のことであった。非売品だった小冊子はいまや稀覯本になっているから、碑の建立にまつわる2つ文章を紹介してみよう。まずは梶井の親友で、文学碑建設の中心になった中谷孝雄の「除幕式を終って」。

「梶井基次郎の文学碑が彼に縁故の深い伊豆湯ヶ島温泉に建設され、去る十一月三日その除幕式に際して彼の旧友達やまた彼の文学を愛する多くの人びとの参列を得たことは、私の深く喜びとするところである。
 思えばもう一五、六年も前のことであった。湯川屋主人の安藤公夫氏から梶井の文学碑を建設したいという要望があり、淀野隆三と三好達治と私の三人でその相談のために湯ヶ島へ赴いたのであったが、諸種の事情で建設の準備がまだ整わないうちに三好と淀野とが相次いで世を去ったので、その実現ものびのびになってしまった。そのうちに三好の詩碑の方が先に建設されることになり、私としても梶井の文学碑のことがいよいよ気がかりになりだした。幸、このたび漸くその機が熟し多年の懸案が果たされるに到ったことは、これひとえに諸氏の熱心なご協力の賜物であり、われらの深く感謝するところである。d0238372_1334392.jpg
 ことに川端康成氏が、われらの願を容れて快く副碑の題字を執筆してくださったばかりか、同氏宛の梶井の書簡を貸与してその一節を彼の文学碑の碑面に刻する便をはかってくださったことは、われらのみならず、恐らく地下の梶井も大いに感謝していることであろう。生前、梶井は川端氏に傾倒すること深く、川端氏の方でもこの後輩に期待されるところは大きかったようだ。
 湯川屋の主人安藤氏の終始変わらぬ熱心さや梶井の長兄謙一氏始めその一家の協力も大きかったが、皆美社の関口弥重君や石川弘君の尽力にも銘記すべきものがあった。文学碑建設の事務一切は、殆どこの二人でやってくれたのであった。碑の設計者西瀬英一・英行の父子を紹介してくれたのも関口君であり、その後の西瀬父子との連絡には主として石川君が当たってくれた。私は事務一切をこの両君に任し、碑の設計に就いては西瀬父子にお任せして一切口出ししないことにした。聞けば西瀬父子も梶井文学の愛好者であり、碑の建設設計には献身的な努力を惜しまなかった。
 また除幕式の当日には、俳誌「秋」の主催者石原八束君が司会の労をとってくれた。石原君は三好達治の門下生であり、三好の詩碑の建設に与って大いに力を致したが、同君はまた梶井文学の愛好者でもあり、こんどの司会も快く引受けてくれた。聞けば同君はその夜の飛行機でアメリカへ立つことになっており、多忙な時間をやっと都合して会場へ駆けつけてくれたのであった。d0238372_1372832.jpg 
 こうして多くの人びとの協力により、梶井の文学碑は立派に完成しその除幕式もめでたく終わったが、私は何もしないのに妙に疲れてしまい、当日参集してくださったかたがたへのお礼もろくに述べないでしまったようだ。ここに改めてそれらのかたがたへ感謝の意を表したいと思う。」(写真手前左が中谷孝雄、その右、北川冬彦、その後ろは梶井謙一、マイクを持って挨拶するのは浅野晃)

 次は湯川屋主人安藤公夫氏の回想、「除幕式を終えて」――

「お忙しいお仕事を持っておられる皆さんが夫々に帰られてから、製作の西瀬御父子を吉奈温泉東府屋にある、お万の方の腰かけ石に御案内して夕方家へ着いた頃から冷たい雨が降り出しました。親しい友人達が今までの労苦をねぎらってやろうと一席もうけてくれたので、そこへ出かけ家へ帰ったのが何時頃かわからない程に酔っぱらって寝てしまいました。翌朝七時頃起きて碑のまわりの掃除に行きました。雨はやんでいましたが、しっとり濡れた碑は心なしか、ずっしりと落ちついてずっと前から此処に建っているように思われました。間もなく西瀬先生方もいらしって〔ママ〕写真を撮って頂いたり色々のことを教えて頂いたりしながら碑を見つめていると改めてその立派さに惚れこんでしまいました。
 昔、ある朝のこと、川の方からもの凄く大きな声がきこえてくるので両親と雨戸を明けて見ると、まだ薄暗い川の真中にある大きな石の上に真裸になった梶井さんと三好さんがお互いの肩を抱き合って泣きながら何やらわめいていました。子供心にも何か鬼気迫るといった感じになったことをおぼえています。碑の二倍位の大きな石でしたが、狩野川台風の時流れてしまいました。その後ずいぶん探しましたが淵に沈んでしまったのか砕けてしまったのか全然見当たりません。こんなことを想い出しながら碑を見ていると、なんだか、見つからないあの石が能瀬の妙見山の渓谷から小さくなって帰って来たのではないかなど、あり得ないこと等も考えたりして、碑の傍にいる時間がつい長くなってしまいます。
 式の時はまだ沢山あった柿の葉もすっかり落ちて、更に赤味を増した実が冬空にくっきりと浮んでいます。植えたつつじ、石楠花、八重桜もみな元気です。出来ますことなら、年一度皆様方に又碑の周囲で赤飯のおにぎりでも食る会をつくって頂きたいと思います。西瀬先生に教わった竹燗の酒を差上げたいと思います。
 十一月十九日川端康成先生が奥様とこっそりお見えになりまして碑を御覧になりました。私は留守をしていてお会い出来ませんでしたが、家内に「梶井君も静かでいい所へ碑を建ててもらって喜んでいるでしょう」と御機嫌よく帰られましたことをお知らせ致します。」

 梶井の文学碑はいまもひっそりと立っているが、中谷孝雄氏、湯川屋のご主人安藤公夫氏など多くの人が鬼籍にはいられた。梶井が長く逗留して名作を幾つも執筆した湯川屋も店を閉じてしまった。
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by monsieurk | 2014-05-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)