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ムッシュKの日々の便り

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旅行案内書「ベデカー」

 最近、旅行案内書「ベデカー」を2冊、手に入れた。1冊はフランス語版の『パリとその周辺』、もう1冊は英語版の『南フランス』で、いずれも1914年発行の版である。第一次大戦で被害をこうむる以前のフランスの様子を知る上で、格好の資料である。
 『パリとその周辺』の序文の冒頭には、次のように書かれている。
 「われわれの旅行案内『パリとその周辺』は、1865年に初版が出版されたが、読者に実用的かつ信用できる案内を提供するのを目的としている。これによって時間と費用を節約しつつ、この街の主な観光場所を見てまわることが可能となる。景観の変化を考慮するだけでなく、案内書の客観的価値を高めるために、美術館や権威ある人たちの協力を仰いだ。それでも蒐集品の多くが更新され、バス、路面電車などの変更も頻繁に行われるため、完全な正確さを期すには、出版直前まで内容を見直しても十分ではない。」
 「ベデカー」はその名の通り、ドイツの作家で編集者のカール・ ベデカー(Karl Baedeker、1801-1859)旅行案内書「ベデカー」_d0238372_1181596.jpgが創刊したもので、第二次世界大戦までは、ヨーロッパでもっとも利用された旅行案内書だった。カール・ベデカーは最初、イギリスのジョン・マレーが出版した『大陸案内』をドイツ語に翻訳し出版していたが、やがて独自の方法で案内書をつくることにした。その最初が『ライン川案内』(1836年)であった。
 その後ベデカーはヨーロッパの主な地域の旅行案内書を、ドイツ語、フランス語、英語で次々に刊行した。ある書誌研究家の調査によれば、1842年から1944年の間の出版件数は、ドイツ語版447冊、フランス語版226冊、英語版266冊に上るという。旅行案内書「ベデカー」_d0238372_1193341.jpg
 創業者のカール・ベデカーが1859年に亡くなると、事業は三男のフリッツに引き継がれ、所在地もコブレンツからライプツィヒに移された。それでも持ち運びに便利な旅行案内として、コートのポケットに入るサイズ(8折り判、縦16・0×横11・5cm)や赤色の表紙、天、地、小口をマーブル模様に染めた形態は終始変わらなかった。
 「ベデカー」はいち早く日本にも輸入されて、洋行する人たちに重宝された。1900年(明治33)、文部省給費生としてロンドンに留学した夏目漱石、1913年(大正2)年に恋愛事件から逃れるようにパリへ渡った島崎藤村、1921年(大正10)精神医学を学ぶためにベルリンへ出かけた齋藤茂吉などは、滞在する都市の「ベデカー」を携えていた。漱石は渡欧してくる友人茨木清次郎に宛てた手紙(1901年12月18日付け)で、旅装や下宿の探し方を箇条書きにしてアドバイスしているが、そのなかに「ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事」と書いている。彼らはみなベデカーの旅行案内を片手に、見知らぬ街を歩きまわったのである。
 1914年版の『パリとその周辺』に戻れば、市内の交通機関として、地下鉄、バスと並んで、路面電車(tramway)が出てくる。路面電車は1855年からパリ市内を走っていて、時代ととも動力は、馬車、蒸気機関、圧搾空気、電力と進化したが、市民や観光客の足として大いに利用されたが、1938年に姿を消した。公共交通機関としてはセーヌ川を行き来する船(bateau-omnibus)が2路線あった。1つはシャラントンとオトゥーユを結び、もう1つはテュイルリーとシュレーヌ間を運航していた。「ベデカー」によれば、利用者は船内で料金をはらい、鉄製の白いコインを受け取って、下船のときにそれを返す仕組みだった。料金は路線により異なるが、シャラントン~オトゥーユ間は、夏が20サンチーム、冬は10サンチームだった。寒い冬に船を利用する客は割引料金で乗れたのだろう。このセーヌの足は1900年のパリ万国博覧会のとき、多くの外国人観光客が利用しものだが、やがて他の交通機関の発展とともに廃止されてしまった。
 『パリとその周辺』には16枚の地図と、市街を細かく表示した図39枚、それに地下鉄やバスの路線図がついている。旅行者はこれらを頼りに目的地を探し出せるのだが、この正確な地図を利用したのは旅行者だけではなかった。
 第二次大戦中の1942年4月から5月にかけて、ドイツ軍はイギリスのカンタベリー、ヨーク、バース、エクセターを空爆した。これは連合軍によるリューベック爆撃への報復とされるが、このときドイツ軍が爆撃の目標として選んだのは、軍事施設ではなく、ベデカーの『イギリス案内』に載っている星印のついた名所旧跡だった。それを破壊することでイギリス国民の戦意を挫くのが目的だったことが、戦後のニュルンベルク裁判で明らかにされ、イギリスはこれを「ベデカー爆撃」と呼んで非難した。それほどベデカーの記述は正確だったのである。
 19世紀中葉から20世紀初めのフランスを研究テーマとする私などにとって、世の中の様相が一変した第一次大戦以前の「ベデカー」は貴重な資料である。
by monsieurk | 2014-06-20 22:29 | 収穫物
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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