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ムッシュKの日々の便り

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「愛人/アマン」の家

 今年3月末にヴェトナムへ旅行したとき、機内で読んだ記事を再読したくて、ヴェトナム航空日本支店に頼んで、「Heritage ヘリテイジ・ジャパン」1月~3月号を送ってもらった。読みたかった記事は、「『愛人/アマン』の家に眠る記憶」で、「毎年、数多くの外国人観光客が、ドンタップ省サー・デックにあるフィン家の古い家を訪れる。フランス人の小説家マルグリット・デュラスの有名な小説『愛人/アマン』の舞台を訪れるためだ」とある。
 デュラスは1914年4月4日に生まれたから、今年4月は生誕100年に当たり、フランスでは新たな論文出版が相次ぎ、シンポジュウムも開かれるなど再評価が進んでいる。なかでも老舗ガリマール社が「Album Marguerite Duras」を出版したことは大きな出来事だった。
 この「アルバム」叢書は1966年のバルザック以来、毎年一人の作家を選び、写真資料とテクストとで作家の生涯を浮彫りにするもので、パスカル、モリエール、スタンダール、ランボー、ユーゴー、ボードレールなどから現代のアポリネール、プレヴェールまで、さらにはドストエフスキー、フォークナーといった外国人作家も入っている。叢書に選ばれたことは古典として認められたことを意味する。
 1984年に出版された『愛人/アマン』は、デュラスの半生を反映したいるといわれるが、「アルバム」の記述を参考に、彼女の生い立ちをたどってみる。
 デュラスは本名マルグリット=ジェルメーヌ=マリー・ドナデュ(Marguerite Germaine Marie Donnadieu)といい、1914年4月4日にサイゴン(現ホー・チ・ミン)市に近いジャーディン(Giadinh)で生まれた。父アンリ・ドナデュは中部フランスの職人の息子、母のマリー・ルグランは北フランスの農民の出だった。二人はともに再婚で、「愛人/アマン」の家_d0238372_2253418.jpg植民地コーチシナ(独立後のヴェトナム)へきた植民者だった。マルグリットの上には2人の兄がいた。
 マルグリットが生後4カ月のとき、第一次大戦がはじまり、父はすぐに動員された。母はやむなく3人の子どもを連れてフランスへ戻った。だが4年後の1918年11月の終戦で父が帰還すると、一家はふたたびハノイに移住し、父は現地のコレージュ(中学校)の校長、母は小学校の教員となった。夏のヴァカンスには一家で中国へ旅行するなど、恵まれた生活を取り戻した。
 不幸が襲ったのはマルグリットが7歳のときである。熱帯性の病に罹り、故郷デュラスで養生していた父アンリが亡くなったのである。マルグリットはのちに作家となったとき、父の故郷デュラスの名前をペンネームとすることになる。
 またも夫に先立たれた母マリーは、1921年、ふたたびインドシナへ渡った。今度腰を落ち着けたのは、サイゴンの南西、メコンデルタにあるヴィン・ロン(Vinh Long)で、ここはメコンの支流サー・デック(Sa Déc)川に面した街だった。「愛人/アマン」の家_d0238372_158410.jpg
 マルグリットが12歳のときの写真が残っている。アーモンド形をした目、黒く長い髪、利発そうな少女が写っている。そしてこの翌年、彼女はサイゴンにあるシャスレー=ロバ女子高等中学校に進学した。ヴィン・ロンとサイゴンはバスで4時間はかかり、普段は寄宿舎で生活して、週末には自宅へ帰った。その度にメコンの支流サー・デック川を船で渡らなくてはならなかった。運命的な出会いは、この渡し船のなかで起こった。『愛人/アマン』ではこう書かれている。
 「メコン川の一支流を渡し船で横断しているとき、ヴィン・ロンとサー・デックの間で、このメコンの支流はコーチシナ南部の一面の泥と稲田、あの「鳥たちの平野」のなかを流れて行く。
 わたしはバスを降り、船の手すりに寄りかかって、川を眺める。(中略)船の上には、バスの隣に、白い木綿のお仕着せを着た運転手がいる黒い大型リムジンがある。それはわたしの色々な本に出てくる陰鬱な大型自動車、モリス・レオン=ボレだ。(中略)リムジンにはとても上品な男が乗っていて、わたしをじっと見つめている。白人ではない。ヨーロッパ流の服装、サイゴンの銀行家たちのような明るい色の絹紬のスーツを着ている。わたしをじっと見ている。わたしはもう男の人からじっと見つめられるのに慣れている。植民地の男たちは白人の女たちをじっと見つめる。(中略)娘は男をまじまじと見る。どういう方なのかと尋ねる。男はパリで学校に行き、そこから帰ってきた者だという。自分もサー・デックの川に面した家に住んでいる。手すりに青い陶器のタイルを張った大きなテラスのある家です。娘は男になに人かときく。中国人です、と男は答える。家族は中国北部の撫順の出身です。よろしければ、サイゴンまで送らせてくださいませんか? 娘は承諾する。男は運転手に命じてバスから娘の荷物を取ってこさせ、黒塗りの自動車に積み込ませる。」
 『愛人/アマン』は自伝的要素が強いとはいえ、告白小説でも私小説でもない。ただここで語られている出会いは現実にあったことで、15歳半ばのデュラス(マルグリット・ドナデュ)は27歳の中国人男性と恋に落ちた。この初恋の相手はフィン・トゥイ・レーといい、華僑の大富豪フィン・カム・トゥアンの息子だった。「愛人/アマン」の家_d0238372_1524013.jpg
 小説で語られる通り、トゥイ・レーの父は1895年、サー・デックに木造の家を建て、1917年には東洋と西洋の折衷スタイルの家に建て直した。この家は現在もそのまま保存されていて、ヨーロッパ風の正面入り口や東洋的なモチーフが多数彫刻された金色に輝くインテリアを見ることができる。床にはフランス製の花柄のタイルが敷きつめられ、螺鈿細工の木製ベッドも当時のままで、トゥイ・レーもここで午睡を楽しんだという。
 写真週刊誌「パリ・マッチ」は、「愛人/アマン」の家_d0238372_1592975.jpg1992年に、「マルグリット・デュラス、愛人見つかる」と題した記事と一枚の写真を掲載した。それはパリ19区のクリシー大通り19番地にあった写真スタジオで、1931年に撮られたもので、なで肩のこの人物がフィン・トゥイ・レーであることが判明した。デュラスはこれを見たときの驚きを、「今朝の『マッチ』は本当に信じられない。トゥイ・レー、T.・H・U・Y・L・Ēという、わたしの中国人の愛人の写真だった」と述べている。
 1975年のサイゴン解放後、フィン家は政府の管理下に移されて、いまはホテルとして観光スポットにもなっている。当時のデユラスもこの家を知っていたが、一度も足を踏み入れることはなかった。トゥイ・レーには婚約者がおり、デュラスもやがてフランスに帰国することが決まっていた。彼らの関係は1年余りで終わりを告げたのだった。
 小説『愛人/アマン』は出版されると権威あるゴンクール賞を授賞し、1992年にはジャン=ジャック・アノー監督の手で映画化された。ヴェトナム南部の風景やかつてのサイゴンの郷愁にみちたたたずまいを背景に、12歳年が離れた中国人青年と白人の少女の道ならぬ恋を描いた映画は人気を呼んだ。ただデュラスは恋愛だけにスポットを当てた映画には不満で、7年後に同じく中国人男性と少女の愛を描いた『北の愛人』をあらためて書いたのだった。
by monsieurk | 2014-06-23 22:29 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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