ムッシュKの日々の便り

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「不安の夜」

 若いときに出会って、忘れられない本や文章がある。ドイツ人牧師で詩人のアルブレヒト・ゲース(Albrecht Goes)の短篇『不安の夜(Uruhige Nacht)』や、イギリス人ジョージ・オーウェル(George Orwell)のエッセイ「絞首刑(A Hanging)」などがそれである。
d0238372_10153692.jpg 放送大学の教科書にも書いたことがあるが、ジョージ・オーウェルは本名をエリック・ブレアといい、1903年に父親の勤務の都合で、インドのベンガル州で生まれた。1921年に本国の有名なグラマー・スクール「イートン校」を卒業すると、大学には進まずに当時イギリスの植民地だったビルマ(現ミャンマー)で帝国警察に入った。その後、各地で警察官として勤務したあと、1928年に退官して本国に戻り、作家の道を歩むようになった。「絞首刑」(1931年)は、ビルマでの経験を描いたものである。
 オーウェルはある日、死刑になる囚人の付き添いを命じられる。
 「それは絞首台までおよそ40ヤードのところだった。わたしは目の前を進んでいく囚人の茶色い裸の背中をみつめていた。腕を縛られているので、歩き方はぎこちなかった(clumsily)が、よろけもせずに、インド人特有のけっして膝をまっすぐ伸ばさない足取りで、飛び跳ねるように進んでいく。一足ごとに筋肉がそれぞれ綺麗に動き、一つかみの頭髪が踊り、ぬれた小石の上に彼の足跡がついた。そして一度、衛兵に両肩をつかまれているというのに、彼は途中の水たまりを軽くわきへ避けたのだ。・・・奇妙なことだが、わたしはそのときまで、一人の健康で正気の人間を殺してしまうことが何を意味するのか、分かっていなかった。死刑囚が水たまりを避けて、脇によけたのを見たとき、わたしは盛りのときに命を縮めることの秘密、その言いあらわせない誤りを知った。この男は死んでいないし、わたしたちが生き生きとしているように、彼も生きているのだ。」
 この痛切な体験がオーウェルの原点にあって、その後の作品が生み出されていく。このエッセイを読んだとき、数分後には命を落とす運命にもかかわらず、足元の水たまりを、思わず避ける人間の行動に、思わず考え込んでしまった。
d0238372_1022164.jpg アルブレヒト・ゲースの短篇『不安の夜』は、ドイツ語の原本が出版された3年後の昭和28年(1953)年に、田中次郎による翻訳が「出版東京」から出て、それを読んだ。本郷通りから少し入った、通称「落第横丁」にあったペリカン書房で見つけたのだと思う。
 これは第二次大戦下のドイツで、脱走兵として捕まった兵士の死刑執行に立ち会う牧師の物語で、プロテスタントの牧師として従軍したゲース自身の体験にもとづいている。d0238372_10201697.jpg
 ゲースは1908年、南ドイツ・シュワーベン地方の牧師の家に生まれ、彼も長じて牧師となった。一方、彼は若いときから詩を書き、1934年に詩集『牧人』を出版して注目された。その優れた自然観察や、深い宗教性に裏打ちされた抒情は現代のモーリケとも称せられた。そんなゲースは、第2次大戦が起こると従軍牧師として東部戦線に配属され、戦争による多くの死を目撃し、死刑囚の死にも立ち会った。『不安の夜』はそのときの体験を書いたものである。この短篇が出版されると、英、米、仏をはじめ18カ国語に翻訳されて大きな反響を呼んだ。
 田中次郎訳の読後も、「みすず書房」から刊行された、佐野利勝・岩橋保訳(昭和41年、1966) や、Pierre Bertauxによるフランス語訳(Librio、1976)、さらには辞書を片手にドイツ語の原作を読み、その度に感動を新たにした。
 以来、自分が得た感銘をなんらかの形にしたいと念じてきたが、最近これをラジオ・ドラマにつくり直すことを思いたった。次回以降、このラジオ・ドラマを6回にわけてお読みいただくことにする。
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 写真は左から、田中次郎訳、Pierre Bertaux訳(タイトルは「夜明けまで」)、佐野利勝・岩橋保訳である。
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by monsieurk | 2014-07-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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