ムッシュKの日々の便り

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対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅹ

  手紙

 いま宇野千代さんの話が出ましたが・・・
中谷 あはゝゝ・・・
 オフ・ザ・レコードでも結構ですが、二人の関係はどうだったのですか。梶井さんの片思いだったのでしょうか。
中谷 そんなことはないのです。宇野さんも承知の上ですけどね。
 その点について、宇野さんは黙して語らないわけですが・・・
中谷 語らないわけではなくて語ってはいますが、何でもない、ただの友情みたいに話していますが、梶井の方はそうではなかったのです。
 梶井は宇野さんに宛てて沢山手紙を出しています。筑摩の全集を出版する折に、それを出してくれと宇野さんに頼んだのです。そうしましたら、宇野さんは転々としている間に焼いてしまいましたとか何とか言って、・・・あるいはそれは本当かも分かりませんけどね。
平林 そうでしょう。あの当時は、梶井さんといったって、単なる文学青年ですからね。そんな手紙は何とも思われなかったでしょうし、読んだら捨ててしまわれたんでしょ。
 私たちにとっては残念な話ですね。梶井さんの別の面がそこからうかがえたかも知れませんし、一大恋愛文学があったのかも知れませんのに。
中谷 そんなわけで、梶井の恋文もなくなってしまいましたし、保田与重郎のラブレターも出てこないのです。
 保田の全集も近く出すのですけれど、それには書簡は全部入れないことになりました。保田もいっぱい手紙を書いているのですが、出さないことになったようです。
 手紙を公けにすると、批評であんな難しいことを書いている裏がみな分かってしまうということですかね。(笑)
平林 うちにも保田さんの手紙や壇一雄さんの手紙が沢山ありますが、手紙は大変面白いですね。
 梶井さんの手紙は面白いのもさることながら、後期のものは、発表されることを予期していたのではないかと思えるほど、整った立派なものですね。
平林 手紙も小説を書くのと同じように、幾度も書きつぶしたあと、ようやく書き上げたのでしょう。
中谷 手紙を書き直すのですから。いい手紙が書けないからといってね。私などは滅多に手紙を書きませんし、書いたって用件だけしか書きませんが。
平林 梶井さんがあまりいい手紙を書いてしまわれたからでしょう。(笑)
 それにしても、あれだけ数多くの手紙が散佚もせずに保存されているというのも、梶井さんはよいお友達を持っていたからですね。
 これはかつて角川文庫から出版された『若き詩人の手紙』という、梶井さんの手紙を集めた文庫本ですが、読み物としてもじつに面白いものです。梶井さんのと言いますより、一人の多感な青年の内面の記録としても白眉です。いまは残念なことに絶版となっているようですが。
中谷 いまでも梶井の全集は毎年増刷されているようですよ。もちろん、数は多くはなく、千部ずつぐらいですが、それでも全集が毎年増刷される作家がほかにいるでしょうか。この一事をもってしても、梶井は稀有の作家だということが分かります。
 愛読者が次々にあらわれるのですね。

中谷追記――K〔原文は本名が記されている〕さんとのこの対談は、大そう快いものであった。Kさんは大学時代から梶井の文学に深く傾倒し、社会人になってからも常に梶井文学への関心を怠らず、広く梶井に関する研究書などにも眼を通している人である。だから、
ある点では、私などよりずっと梶井のことに明るく、教えられるところが少なくなかったことを感謝したい。
 対談の原稿は、Kさんがまとめたものを、私が読んで見て手を加えるということになっていたが、Kさんの草稿がよく出来ているので、私は全く手を加える余地がなかった。老人のもたもたした話を、よく上手にまとめてくれたものであった。
 私は久しぶりに、六十年前の「青空」のことを回想し、今は大分故人になってしまった同人達の若かりし日の姿を思い浮かべ、懐旧の情に堪えないものがあったが、しかしこの対談では梶井のことが主となっているので、他の同人達のことは殆ど語られていない。そこで、これらの人々のことに就いて少しばかり追記して置きたいと思う。
 「青空」を支えるのに最も功労のあったのは、外村繁(茂)と淀野隆三との二人であった。二人は家が豊かであったので、雑誌の費用の不足をよく補ってくれたものであった。また編集その他のことにも精力的によく働いてくれた。もし彼ら二人がいなかったならば、「青空」は或いは三号雑誌で終わってしまったかも知れないのである。
 話は飛ぶが、後に淀野は梶井の『檸檬』の出版や、また『梶井基次郎全集』の刊行に殆ど独力で尽力した。彼の尽力がなかったならば、悪くすると梶井の作品は散佚してしまったかも知れないのである。今日、梶井文学の愛読者は、淀野の貢献の大きさに思いを至して欲しいものである。
 外村繁が作家として大成したことは、読者のよくご存知のことであるが、梶井の全集が今尚、毎年必ず増刷され、梶井文学の研究熱がいよいよ盛んなのに比し、外村文学に対する評価はそう高くないようである。これは一つには、梶井文学が青春文学であり、外村文学が主として中年文学であることにもよるだろう。なぜなら我が日本では、若ものしか殆ど小説を読まず、若ものの関心はとかく青春文学に傾き勝だからである。
 外村文学の代表作は、筏三部作、『澪標』『濡れにぞぬれし』などといわれているが、私はむしろ晩年の短篇に好いものが多いように思う。ここで一つ一つの作品に就いて語っているひまはないが、それらの緒短篇はいずれも私小説であり、日本に多い私小説群のなかの第一級のものだと私は思っている。誰か外村文学の研究者は生まれないものか。私はその出現を期待して止まないのである。
 尚、「青空」の生き残りは北川冬彦と飯島正が東京に在住しているが、彼らに逢って旧を語り合う機会は殆どない。老懶、彼らを訪れることもしないが、健在を祈るや切である。大阪には北神正が健在で、梶井の命日には毎年、梶井家の菩提寺の常国寺で行われる梶井文学愛好者の会を主宰している。私も二度ほどこの会に出席したが、参会者はいつも三、四十人で、熱心に梶井文学に就いての討論が行われていた。
 「青空」の生き残りにもう一人、浅沼喜実が鳥取にいる。戦前は銀座の「たくみ工芸店」の店主をしていたが、戦後は故郷の鳥取に帰り、「たくみ」という料理屋を経営しながら、地方文化の為に尽し、山陰文化賞を受賞した。しかし昨年、老齢の為に「たくみ」の経営を人に譲り、その後は専ら読書に日を送っているとのことである。彼の自愛を祈って、この追記を終ることにする。

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  中谷孝雄氏の「追記」の自筆原稿 (完)
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by monsieurk | 2014-10-04 22:30 | | Trackback | Comments(3)
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Commented by maiastra at 2016-08-04 00:01 x
 長文すいません。これはすべて私の憶測ですか、もとの宇野千代の話も主観の域を出ないので、これもまた許されるだろうと想って書きました。記事を読みすぐ思いついたのは「梶井基次郎集」にある、宇野千代の「あの梶井基次郎の笑ひ声」でした。その文章の質を含め酷く不快に感じたのを思い出しました。
 それは彼女の近況報告と、自分が梶井に惚れられていたという内容した。私が気になったのは二人の関係ではなく、その有無です。そこには彼女の証言と解釈しかなく、その関係を裏付ける友人や状況証拠すらありません。一方的な彼女の発言ばかりなのです。そのエピソードの数々は妄想としか思えませんでした。以下、彼女の言い分から。
 ある日、激流の橋の上で友人が、こんな川へ誰も飛び込めないだろうと言うや、梶井は裸になってそれへ飛び込んでみせた。「一行の中にゐたただ一人の人間である私に、或る感情を持たせたいためにしたのだと、わたしは思つた。」若さと死病のコントラスト、京都で暴れた前科をもつ梶井にとって、これはそれほど奇妙なことでしょうか? 
 ある日突然、梶井がいなくなり、村中大騒ぎになった。「ただ一人の人間である私を目当てに、そんなことをしたのだと私は思つてゐた。」梶井の「冬の蠅」にも同じエピソードがある。太陽を憎み、昼間の風景の欺瞞を蔑すむ主人公が、渓合いの宿から遁走の末、港町に行きつくまでの話だ。そこへ到着した日に女を買って、外へ出てしまった件がある。まさかその娼婦が宇野千代のうつしみ、象徴主義的手法だと? 彼が求めていたのは酷寒の自由や翳りがもたらす真実なのだが。
 ある日、彼女は長編の取材で関西に行き、梶井に合った。「僕が死ぬときがあつたら、そのとき、僕の手を握ってくれますか、」と言われたという。彼の死をだいぶ後になってから知ったはずの彼女は「しかし、私はそれを実行しようとは思わなかつた。」と時系列がチグハグなことをいう。
 ある同時期、二人は伊豆の温泉宿に逗留していた。梶井は湯川屋から、彼女目あてに湯本館を毎日訪ね入り浸たっていたという。だが当時、川端康成もそこを定宿としており、宿によると川端は「一時は文士村のようだった」と述懐している。その川端について彼女は「川端が東京のどこに住んでゐるときにでも、私はその近くに住んでゐた。そんな気がしている。」と書く。つづく――
Commented by maiastra at 2016-08-04 00:04 x
――つづき。梶井の手紙は季節の挨拶ばかりだが、彼女は梶井の資料館を訪ねたおり、展示されたものと同じような手紙が来ていたことを告白する。彼女は自分に来ていた手紙だけは、他人とは違うニュアンスを持たせ「自己を語らない人間が、どう言ふ方法で自己を語つてゐたか、その見本に残しておきたかつた」という。しかし手許にはない。それを覗いたことのある人はいるのだろうか? 当時、一介の書生の手紙を無価値とみなして、本当に捨てたのかもしれない。ただし無数ではなく、忘れてしまうほど少数だったのでは?
 結局一貫して介在する他者や物がない。つねに現実への繋がりが断ち切られ、ドストエフスキー的でない、多弁な一人称があるだけ。
 彼女が梶井の文学碑の除幕式に行かなかったのは、親友らを前に辻褄が合わなくなるのを恐れたからではないか? 「そのとき、私の心中にあつたものは、私の梶井に対する凡ての行動の記憶であつた。私が梶井を欺いてゐたと言ふ、凡ての行動の記憶であつた。」欺いていたのは、(死後の)梶井だけなのか? 本当は好きだったが無下にしていたという、記憶修正ではないか? 
「私は除幕式には参列しないでも、それで平静だと思つていた。人間は誰でも、自分が平静であるといふ常態を装つてそれで生きて行く。この点では梶井基次郎も私も同じである。恰も、凡てのものに対して、動植物にでも対してゐるように、自分は何と思つてゐるかを、決して語ろうとはしないものである。」生きてりゃ、みな同罪というわけだ。
 梶井、川端ときて、最後に尾崎士郎が登場する。下田の機織りの上手なおばあさんが彼女を訪ね、昔話をされた。「ぜひ、その絣を譲つて貰ひたい、と言つたとのことである。『尾崎さんにお着せになる積もりだつたのですよ――。
 梶井が彼女を好きだったことがあっても、べつにおかしくない。自然だが、当時無名だった彼に、彼女は見向きもしなかったのではないか? 後になってから逃した魚の大きさに、さも生前関係があったかのように……。
 私は二人のすれ違いの無関係を邪推するにあたって「あの梶井基次郎の笑ひ声」と「冬の蠅」だけをもとにしています。その逢瀬のドラマには興味ありません。ただ大事なところに来ると歯切れの悪くなる、彼女の文章のイヤな読後感を拭えず、ずっとモヤモヤしていました。それともこれは、業界では有名な暗黙の了解事情なのでしょうか?
Commented by monsieurk at 2016-08-06 05:22
中谷、平林のお二人は小生との対話でも語られたように、梶井が宇野さんに好意以上のものを抱いていたと考えていました。梶井に好意をもつ平林さんは、宇野さんの態度を苦々しく思っておられるようでした。ただ梶井の宇野さん宛ての手紙が出てこない以上、資料的に裏付けることはできません。なお最近出た、工藤美代子さんの『恋づくし 宇野千代伝』では、二人の関係が具体的に描かれていますが、これが如何なる資料にもとづくものか明記されてはおりません。(M.K.)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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