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ムッシュKの日々の便り

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最近の書評(そのⅠ)

 今回から最近書いた書評、「テクストのテクルト」を3回にわたって掲載する。

 野村正人著『風刺画家グランヴィル テクストのイメージの19世紀』(水声社、2014年)

 19世紀フランスの風刺画家グランヴィルの生涯と作品を軸に、当時の出版文化をたどる著作である。J・J・グランヴィルは、同世代の風刺画家ドーミエと比べて忘れられがちだが、400頁をこす本書では、その貴重な作品が随所に挿入されていて興味は尽きない。最近の書評(そのⅠ)_d0238372_14192389.jpg
 グランヴィル(本名、ジャン=イニャス=イシドール・ジェラール)は、1803年9月にフランス南東部のナンシー市に生まれた。22歳のときパリに来て、やがて左岸にある国立美術学校の近くの屋根裏部屋に住み、芸術家志望の若者たちと交流した。その中には、作家アレクサンドル・デュマや、絵入り新聞「イリュストラシオン」の代表となるファランバンなどがいた。とくに重要だったのは版画家シャルル・フィリポンとの出会だった。
 グランヴィルの風刺画家としての才能を見抜いた彼は、1830年に七月革命が起ると、国王ルイ=フィリップを糾弾する新聞「カリカチュール」を創刊して、グランヴィルの風刺画を掲載した。それが73枚のリトグラフ(石版画)からなる『今日の変身物語』のシリーズで、グランヴィルのデビュー作となった。
 この一連の風刺画は動物の頭をした人間たちの日常生活を描き、それを通して同時代の社会や風俗を痛烈に批判したものだった。だが1835年7月に起きたルイ=フィリップ暗殺未遂事件を期に、政府は言論弾圧に乗り出し、一切の政治風刺を禁止した。グランヴィルはこのときから、挿画本の仕事に重点を置くようになった。
 フランスではこのころ、新聞や雑誌の創刊が相次ぎ、多くの本が出版される時代を迎えていた。背景には幾つか要因があったが、その一つが印刷技術の革新だった。1846年にアメリカで開発された新型の輪転式印刷機は、1時間に8000枚を刷ることができた。これをフランスで最初に導入したのは、1863年に創刊された新聞「プティ・ジュルナル」で、一部一スーの新聞は飛ぶように売れた。挿画の分野では、小口木版や石版刷りという新しい技術の発展があり、さらに出版ブームを後押ししたのが、中産階級(ブルジョア)の台頭と教育の普及による新たな読者層の拡大だった。
 前世紀までは貴族や貴婦人たちの愛顧を受けて生活し、作品を書いていた作家は、ようやく原稿料で生活できるようになり、出版界は活況を呈することになった。1830年から40年代にはロマン主義が台頭し、ユゴー、バルザック、ノディエたちの小説が新聞や雑誌に連載されて、発行部数を伸ばすのに貢献した。彼らの小説は連載終了後、絵入りの挿画本として販売された。当時もっとも売れっ子だったウージェーヌ・シューの小説『パリの悲劇』の原稿料は26500フランであった。
 画家グランヴィルの関心は、表情を通して人間の内面に迫ることだった。彼は当時流行した観相学や骨相学にも興味をもち、その成果は1829年ごろに描かれた「44の顔」にあらわれている。ここには風刺画の先駆者ボアイイや、イギリスの画家ホガースの影響とともに、作家バルザックが唱えた「外側から見られた内面」理論との共通点をみることができる。
 バルザックは『人間喜劇』の序文で、動物が種によって分類できるように、人間も、医者、弁護士、お針子、年金生活者といった社会的階層やカテゴリーで分類することができ、それぞれは服装、顔つき、生活様式など独自の生態をもっており、小説はこうした特徴を描き分ける人間研究だとした。これはグランヴィルにも共通するもので、彼はそれを文章に添える挿画で表現しようとした。
 一方で、こうした挿画を忌避する文学者もいた。作家のフーローベールは、挿画は文学的な想像力をしぼませるといい、象徴派の詩人ステファヌ・マラルメは、「挿画本について」というアンケートに、「どんな挿画もないことに賛成です。一冊の本が呼び起こすほどのすべては読者の心の中で起こるはずですから。(中略)なぜいっそのこと映画にしないのですか。そのコマ繰りが絵も本文もひっくるめて多くの本の代わりを首尾よく勤めることでしょう」と、発明されたばかりの映画を引き合いに出して皮肉まじりに答えている。
 やがてグランヴィルの関心は、彼ら文筆家とは反対の立場から、挿画をテクストに従属するのではなく、独立した創作作品とすることへ移って行く。だがグランヴィルはその道半ばで、1847年3月にパリで歿した。

 ミルチャ・エリアーデ「ポルガル日記 1941-1945」(作品社、2014年)

 著名な宗教学者の若き日の日記である。東欧ルーマニア出身のエリアーデ は、この日記を書き始めた1941年4月にはポルトガルのリスボンに滞在中だった。この時34歳のエリアーデは、ブカレスト大学に提出した学位論文に手を加えて出版した『ヨーガ』や、エッセー、小説を精力的に発表し、知識人の間で知られるようになっていた。最近の書評(そのⅠ)_d0238372_14191276.png
 祖国ブルガリアでは20年代に台頭した知識人の間で、自分たちの民族的、文化的アイデンティティを、非西欧的なナショナリズムと東方正教に求める傾向が強 く、エリアーデの著作活動もその影響のもとにあった。 40年4月、エリアーデは有望な若手知識人として、最初はロンドンの公使館に文化担当官として派遣されたが、やがてポルトガルのリスボンに異動となった。 彼の仕事は中欧についての新聞の論評や各国の動向を報告すること であった。日 記には緊迫する国際情勢や個人生活が赤裸々につづられていて、第2次大戦下の激動の時代を生きた、若い知識人の精神の克明な記録として大きな意味をもつ。
 さらに今まさに生まれようとするエリアーデの学問の胎動を読むことができる。「壮大な計画を練っている。世界文化の新たな体系を描き出そうという試みだ。私は今日、姿を消した神話や象徴、人間精神の発達の過程でずっと以前に超克されたと考えられている霊的な感覚」を重視する学問である。(42年10月12日の日記)。
 この時期、エリアーデは辛い体験もした。12年間かたい愛で結ばれていた妻ニーナが、44年12月20日に突然亡くなったのである。この日の悲痛な日記は読む者の胸をうつ。翌45年5月1日夜、彼はラジオでヒトラーの死を聴いた。戦争は間もなく終わったが、ドイツに代わってソビエトの力が祖国におよぶのは明らかだった。エリアーデはパリに住む決意する。「ヴィザは私の手中にある。フランスで過ごす時間が私を待っている」。日記はここで終わっている。
by monsieurk | 2014-10-16 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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