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ムッシュKの日々の便り

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日本画家 久保田米僊

 京都東山区の神宮道三条上ルにある「星野画廊」は、星野桂三、万美子夫妻が経営する店で、京都にいたときはよく訪れて珍しい絵を目にする機会を得た。星野夫妻がなかでもち力を入れているのが、京都や関西に縁が深く、しかも今日忘れられた画家の発掘で、これまでにも多くの画家の作品が二人の努力でよみがえり、再認識されてきた。
 そうした作品は画廊で展示されるとともに、「忘れられた画家シリーズ」という図録で紹介されているが、今回の「シリーズ35」で紹介されるのは、明治の鬼才と呼ばれる久保田米僊(くぼた・べいせん)で、11月5日から12月6日まで代表作が展示される。案内には次のようにある。日本画家 久保田米僊_d0238372_11372624.jpg
 「『我楽多珍報』(1880)などの風刺画や徳富蘇峰の『国民新聞』での挿画、日清戦争に従軍し出版した『日清戦闘画報』(1895)などを通して、近代ジャーナリズムの世界では著名な久保田米僊。一方、京都府画学校の開設(1880)に功績があり、パリ万博(1889)やシカゴ万博(1893)での活躍も忘れられた。古書の世界では米僊関連の出版物が多数出回っているのに、本業の美術世界では全く無視されてきた。名前は知っているが、実作品を目にした美術史の研究者がどれほどいることだろう。本展では、約50点の日本画作品と関連資料を展覧することにより、明治日本画の鬼才・久保田米僊の顕彰再評価への一里塚にしたい。」
 ここで図録に載っている星野万美子さんの解説を参考にしつつ、米僊の足跡をたどってみたい。米僊は1852年(嘉永5)、京都市中京区錦通東洞院に生まれた。ペリーの黒船来航の1年前である。米僊は幼名を米吉、本名を満寛といい、生家は京都の有名な料理屋「山城屋」で、一人息子の彼は店の家業を継がなければならない立場だったが、寺子屋にいっても手習いをそっちのけで、絵ばかり描いていた。そしてついには親の反対を押し切って、16歳のとき京都四条派の鈴木百年のもとに弟子入りして日本画を学ぶことになった。
 画才に恵まれた米僊はすぐに絵の腕をあげるとともに、漢学、漢詩を学んで広い知識を身につけていった。画業の上では、日本画の伝統にとどまらずに南画や洋画の技法も積極的に採り入れた。
 1878年(明治11)に、幸野楳嶺たちと図って京都府画学校設立の建白書を上申し、2年後に実現すると進んで教鞭をとった。上村松園は日本で最初とされるこの画学校で学んだ一人である。
 このころは自由民権運動が盛んな時代で、米僊は立憲政党に加わり、帝国議会開設の請願運動に身をいれた。だがこうした政治活動がわざわいして、京都府画学校の教壇を追われてしまう。それでも創作意欲は衰えることなく、1882年(明治15)に開催された第1回内国絵画共進会では銅賞を受賞し、日本画家 久保田米僊_d0238372_1140126.jpg1889年(明治22)に、フランス革命100周年を記念して開かれた第4回パリ万国博覧会に、推薦されて出品した《水中遊魚》(写真)が金賞を受賞したという知らせを受けると、自らも特派報道記者の肩書きを得てパリに赴き、博覧会の様子とともに、船旅の模様、フランス人の日常生活などを記事と巧みなスケッチで伝えた。
 こうした久保田米僊の才能に注目したのが、翌1890年(明治23)に『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰だった。日本画家 久保田米僊_d0238372_11424790.jpg彼はこの年1月23日に、恩師である新島襄が亡くなると、米僊に依頼して、臨終の場面を描いてもらった(写真)。その後、米僊は『国民新聞』から日清戦争の従軍画家として派遣されるなど、ジャーナリストとしても活躍した。《日清戦闘画報》は日本画家の枠をこえて、久保田米僊の名声を高める一作となった。
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日本画家 久保田米僊_d0238372_15484463.jpg

 星野画廊での今回の展示は、さまざまな分野で活躍した「忘れられた画家」久保田米僊の業績を知るよい機会である。
by monsieurk | 2014-11-06 22:30 | 美術
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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