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詩を訳すとはⅦ、Brise Marineをめぐって

 いまステファヌ・マラルメの詩の翻訳を雑誌「ユリイカ」に連載中で、3月号には「海からの風」以下の詩の訳を掲載した。最初の詩篇「海からの風」の原題は“Brise Marine” だが、このbriseをどう訳すかが問題で、鈴木信太郎訳は「海の微風」、最新の渡邊守章訳では「海のそよ風」となっている。いずれも「海から吹く弱い風」との解釈である。だが今回の訳では、「海からの風」とした。
 マラルメがよく使ったとされる辞書、Ėmile Littré: Dictionnaire de la Langue Française(Librairie de L. Hachette et Cie,1863)で、briseを引くと――
Brise(bri-z’),s.f.//1. Terme de marine. Nom générique qu’on donne au vent quand il n’est pas très-violent. Brise de terre, brise soufflant de la terre; brise de mer ou du large, brise soufflant de la mer. Brise carabinée, vent qui souffle avec une violence extraordinaire.//2.En termes de météologie, vent doux et irrégulier qui se fait sentir sur les bords de la mer.
「1.海の用語。極端に烈しくない風を呼ぶ一般的な名詞。陸風、陸から吹く風。海風あるいは沖風、海から吹く風。突風、異常に激しい風。2.気象用語、海辺で感じられる柔らかでかつ不規則な風。」とある。つまりbriseはまずは一般的に風を指す言葉と解釈すべきなのである。
 「微風」あるいは「そよ風」は、2.の定義によるもので、今日の代表的な仏和辞書では、「そよ風」、「微風」を第1の訳語としてあげている。しかしマラルメのこの詩篇を読んでみれば、内容からしてこの場合のbriseは決して「そよそよとした微風」ではなく、むしろ強め風でなくてはならない。そこでタイトルを「海からの風」とした理由だが、じつはこの説は小生の専売特許ではなく、恩師のお一人である杉捷夫先生が、つとに指摘しておられる。先生は著書『人の影・本の蔭』(岩波書店、1983年)の「鈴木信太郎先生」のなかで、以下のような事実を紹介している。
 「昭和八年頃白水社から『文芸評論』という季刊誌が発行されたとき、マラルメの『道化懲戒(罰せられた道化師)』の訳業をめぐって先生と辰野先生の論争が連載されたことがある。その時、フランス語の「プリューム」(羽、ペン)を先生が「押羽」と訳されたのをとがめて、辰野先生が「余は押羽の何たるかを知らぬ」と、きめつけられた。実態なき言葉はたとえ詩に在っても許されない、というのが辰野先生のご意見だったのである。
 マラルメの傑作で先生が苦心の名訳を残された『海の微風』のことで一度先生に愚見を申し上げたことがある。この「微風」は微風であってはならない。詩の内容を読めばむしろ「烈風」に近いものでなければならぬ。沖から吹きつける強い風が詩人の思いを遠い海洋の旅へ誘うのである。普通辞書に「微風」という訳語が真先に宛てられているフランス語の「ブリーズ」が、実際は沖から陸に向かって吹きつける強い風であることを示す用例を同時代の文芸作品の中からいくらでもあげることができる。「海の微風」の日本語としての調子のよさが先生を誤らせた稀な例かと思う。」
 Brise Marineについては、もう一つ悩ましい問題がある。それは詩の冒頭の1行、“La chair est triste, hélas! et j’ai lu tous les livres.”を、どう日本語にするかである。
逐語的には、「肉は悲し、ああ、書はみな読んだ」で、事実、小林秀雄はこのように訳し、寺田透も「肉は悲しい。あゝ、一切の本は読みきった。」としている(寺田透「ふたたびマラルメ」)。
 ただ今日の読者が、chairを「肉」と訳して、素直に「人間の身体」と受け取ってくれるかどうか。一方で、「肉体」ないし「身体」と訳した場合、「肉欲をかかえこんだ人間は悲しいものだ」という、マラルメの真意が伝わるのか。いっそ「肉欲は悲しい」とでもすべきなのか。安藤元雄は、こうしたニュアンスを籠めて、「肉の身は悲しい、ああ、本はみな読んでしまった。」(『フランス詩の散歩道』、白水社、1974年)と苦心の訳を提出している。さんざん迷った末に、今度の拙訳では、「肉体は哀しい、ああ、それに書物はみな読んだ。」としたが、はたしてどれが正解か、活字にしたいまもまだ迷っている。
 追記、3月号に載せた詩篇「エロディアード」のなかで、一箇所誤字を見落としてしまった。36頁上段の最初のMは、エロディアードを示すHの誤植である。後日機会があれば訂正したい。
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      写真は「Brise Marine」のマラルメによる自筆稿の複製
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by monsieurk | 2015-03-01 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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