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堀口九萬一と大學Ⅳ

 九萬一、妻のスチナ、岩子、瑞典(この二人はスチナが母親)の4人は、しばらくパリに滞在したあと、大學を一人残してルーマニアのブカレストに向いました。大學はパリに宿を定めると、先に渡仏していた画家の旧知の版画家長谷川潔や画家の鈴木龍一と再会し、鈴木の案内で藤田嗣治のアトリエを訪問しました。
 父の九萬一は、その後スペイン公使となり、1914年7月に第一次大戦が勃発すると、パリの大學を呼び寄せました。このスペイン滞在中に大學が親しくなったのが画家のマリー・ローランサンです。
 1883年10月パリに生れたローランサンは、パリの南の郊外セーヴルにある国立製陶所で陶器の絵つけを学び、さらにパリ市立の学校でデッサンを学び、1903年には画塾アンベール・アカデミーに入って本格的に絵の勉強をはじめました。当時の画塾には、ジョルジュ・ブラックやジョルジュ・ルパープが画学生として通っており、彼らを通してキュビスムの影響をうけました。
 ローランサンが1907年に、「アンデパンダン展」に出品した《招待》が好評で、その後、画商クロヴィス・サゴでパブロ・ピカソと知り合い、ピカソは彼女をモンマルトルにあった若手芸術化の住まいだった「洗濯船」へ連れて行き、美術評論を書いていたギヨーム・アポリネールに紹介しました。二人はたちまち恋に落ちます。
 ところが1911年、アポリネールはルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑を受けて逮捕、拘留されるという事件が起ります。彼は無罪となりましたが、ローランサンの気持はこれをきっかけに冷めてしまいます。しかしアポリネールの方は彼女が忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」です。ローランサンは間もなく、エコール・ド・パリの画家として世に知られる存在となります。
 そんな彼女の転機となったのが、1914年6月にドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェツチェンと結婚したことです。彼女たちが新婚旅行をかねてスペインとの国境に近いアルカションに滞在していた8月3日、フランスがドイツに宣戦布告して第一次大戦がはじまりました。結婚によってドイツ国籍となったローランサンはフランスに留まることができず、二人はピレネー山脈を越えてスペインへ亡命しました。
堀口九萬一が公使としてスペインに赴任したのはまさにこの時期です。そして第二次大戦が勃発すると、パリにいた大學をマドリッドに呼び寄せたのでした。
 ある日、大學は弟の瑞典の肖像画を描いてもらうために、画家たちが共同でアトリエを構える建物を訪ね、そこで知り合ったのがマリー・ローランサンでした。二人はお互いのなかに同じ感性を見出し、たちまち意気投合しました。
 大學はやがて彼女から絵の手ほどきをうけるとともに、アポリネールをはじめ、「エスプリ・ヌーヴォー」と呼ばれるフランスの詩人たちの情報を教えられます。戦禍を避けて異郷に暮らす二人の交流は、1916年に、ローランサン夫妻がバルセロナに居を移すまで続きました。ある日、ローランサンは「日本の鶯」と題した詩を大學にくれたということです。

 彼は御飯を食べる
 彼は歌を歌ふ
 彼は鳥です
 彼は勝手な氣まぐれからわざとだびしい歌を歌ふ

 大學はローランサンから得た情報で、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ピエール・ルヴェルディ、ジャン・コクトーたちの詩を知り、それらを翻訳することになります。
 父の九萬一は1925年(大正14)に外交官生活から引退し、一家は帰国します。大學はこの年の4月から、東京神田の文化学院大学部の教授となり、フランス近代詩の講座を担当することになりました。33歳にして初めて定職に就いたのです。
 彼が長谷川巳之吉の来訪を受けたのはこの頃のことです。長谷川は大學より1歳年上で、大正12年の初めに、出版社「第一書房」を立ち上げていました。第一書房から出た堀口大學の最初の本は、ポール・モラン著堀口大學訳『レヰスとイレエン』でした。
 長谷川は帰国した大學を訪ねると、大學は1年半も上梓されずそのままになっていた「月下の一群」の原稿を新潮社から取り戻し、新しい訳を加えて配列をやりなおしているところでした。「月下の一群」という表題は、フランス象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌの詩からインスピレーションを得たものでした。
 長谷川は原稿を見せてもらうと、即座に出版を申し入れました。書物は、長谷川自身が装釘し、ノート用の上質フールス紙大判750ページの本文に、16葉の別刷挿絵の詩人たちの肖像入りという豪華本でした。値段は4円80銭でした。
 訳詩集『月下の一群』の出現は、フランスの新詩人の作品を紹介したというだけでなく、これまでになかった詩情と新たな日本語を文学にもたらした点で画期的なものとなりました。上田敏、鷗外、荷風の訳詩に連なるものとして世間に迎えられました。事実、高い定価にもかかわらず初版1200部は数ケ月で品切れとなり、長谷川巳之吉はすぐに廉価版を出しました。    
 大學の異母弟瑞典は、「母スチナのことなど」で、こんなエピソードを伝えています。
 「言葉の問題は、日本に戻ってから母にとっては不幸でした。家の中では会話はいつもフランス語でしたから、外に余り出ることのなかった母は、日本語に接する機会も少なく苦労していました。
とはいっても、兄の文名が高まっていくのは肌で敏感に感じと取っていたようで、「ニコが偉くなった」という言葉をしばしば耳にしました。
 銀座の松屋デパートが開店した時のことだったと思います。銀ブラに出た母と私は、松屋のショーウインドの中に美しい装丁の『月下の一群』を見つけました。その時の母の喜びよう、ハシャギようは今でもはっきり記憶にあります。「ニコの本がある、ニコの本がある」という言葉が耳元で聞こえます。」(「思い出の堀口大學」、別冊かまくら春秋、1987年)
 堀口大學は詩人としての地位を不動のものとしたのでした。彼はこれ以後、詩集や訳詩集の刊行を長谷川巳之吉に任せるようになります。(続)
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by monsieurk | 2015-03-22 22:30 | | Trackback | Comments(4)
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Commented at 2015-12-27 22:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by monsieurk at 2015-12-31 14:30
渡辺さま、ブログをお読みいただき、ありがたく存じます。パリ時代の大學については、大學全集のなかの随筆のほかに、「日本の鶯」の聞き書きのなかで、彼自身が触れています。MK
Commented by monsieurk at 2015-12-31 14:34
関容子『「日本の鶯」堀口大學聞書き』は、いま単行本のほかに、いま岩波現代文庫に入っています。MK
Commented at 2016-01-02 01:20 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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