安井曽太郎の肖像画Ⅱ
これは1934年(昭和9)9月にはじまった二科会第21回展に《玉蟲先生像》とともに出品されたもので、制作の経緯については、制作中の1934年8月28日付けの「東京日日新聞」に、安井曽太郎本人が、「新秋画壇 出品画の下絵を見る」と題した文章を寄せている。
「現代の支那服の美しいのに驚きました。実に簡単な形で、それでゐてかなり技巧的です。からだに沿って垂れたなだらかな線は繊細なものです。立像が殊によくその線を生かすやうでしたが、立つポーズはつかれるので腰かけにしました。最初いろいろデッサンをとりました。これはその一つです。
モデルは知人で支那服のよく似合ふきれいな人です。その性格の表現や、服の美しい形と色などに苦心しました。人物をはつきり強く現すために附属物を幾分調子弱く扱ひました。五月の末から六月の二十日までポーズに来てもらってその後はモデルなしで仕上げました。僕は近頃よくこの方法をとります。自由に描き上げたいためです。」
モデルの小田切峯子を紹介したのは細川護立であった。安井は画家仲間の児島喜久雄を介して細川と知り合い、何かと支援をうけていた。小田切峰子と細川がどう関係であったか詳しいことは分からないが、細川は安井にチャイナドレスの似合う彼女を描いてくれるように依頼したのである。
小田切峰子は1903年(明治36)東京生まれで、父万寿之助は外交官として上海総領事などを歴任したあと、横浜正金銀行取締役をつとめた人である。峰子は聖心女学院高等女学校のあと、高等専門学校英文科を卒業し、1937年(昭和12)に満鉄に入社。終戦まで旧満州のハルピンヤマトホテルに勤務した。英語と中国語を含めて5カ国語を話す才媛だった。
彼女は女学校のときからチャイナドレスがすきで、満州へ行ってから普段はそれを着てとおした。帰京した折も、東京の街を歩くその姿は目立つ存在だった。《金蓉》のモデルになったときは31歳だった。このときの彼女自身の回想が残されている。
「安井先生に「金蓉」を描いて頂いたのは、昭和九年の春、私が父の病気見舞いの為、当時住んでいたハルピンから二ヶ月程東京に留っていた間の事である。初めて先生の御宅に伺ったのは五月二十七日。此の日をはっきり記憶しているのは、先生に私を紹介して下さった細川さんが、「必ず日を間違いない様に。」と、道順を記した紙に五月二十七日海軍記念日と書いて、更にその横に赤鉛筆で丸をつけて渡されたからである。
画室に通ったのは十回位であったかと思う。先生は、私が椅子に腰かけたポーズを脚の組み方丈を違えたデッサンを二枚とられた。仕事と取り組んでおられる先生は、普段のあの温和な先生とは別人の感があって、絵筆にこめられる鋭い気迫は、時折目に見えない矢の様にカンバスを貫いてポーズしている私の処にとんで来る。思わずはっとした事も再三ではなかった。
六月の末、私は帰満する日が来たが、「金蓉」は完成しなかった。私は着ていた支那服を先生のお手許に残して出発したのである。然し、八月に病人重態の電報で再び東京に呼戻される事になったのだが、先生は最後の仕上げに苦心しておられると云う話を聞いて、看病の合間に二度ばかりポーズに伺った。「金蓉」の支那服が現在の鮮やかな色になったのは、この時の事である。」
安井は主人公が際立つように、背景の色を自在にかえたが、《金蓉》では、壁も床もうす桃色を基調にした色に塗られているが、モデルを中心に左右で色調が異なり、藍色のチャイナドレスが一層鮮やかに浮きでる工夫がなされている。椅子にゆったりと腰かけるモデルの身体の線に沿って、藍の色が右上方から左下にかけて流れるような曲線を描きだされる。さらにそれが椅子の脚や背もたれの直線とのコントラストによって艶麗さが強調され、下部の服の裏地の明るい青によって受け止められる。
黒髪につつまれた顔は明るく、モデルの理知的な性格を表し、半袖から見える腕は白く、途中に嵌められた腕輪がアクセントになっている。少し上から眺められた視点は安井の肖像画の特徴で、左の肩先や、ところどころに敢えて残されたタッチは計算されたもので、画面に躍動感をあたえる役目をはたしている。《金蓉》は安井曾一郎の名を一層高める傑作となった。(続)