ムッシュKの日々の便り

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「瀬山の話」の位置Ⅰ

 かつて筑摩書房から出ていた「国語通信」の1985年(昭和60)11月号に、「『瀬山の話』の位置――梶井基次郎の習作」を載せたことがある。その2章以下をここに再録する。なお同様の主旨は、拙著『視ること それはもうなにかなのだ、評伝梶井基次郎』(左右社、2005年)でも展開している。

 ・・・梶井の作品には、デビュー作の『檸檬』以来、どれにも「物尽くし」と言えるほど多種多様な「物」が登場するが、それらは現実的な価値の点では、どれも大したものではない。だが、そこにはある一定の選択が働いていて、梶井は、出会った無数の物から放射されるパルスを識別し、独特の感性で篩にかける。彼が心を惹かれるのは、倦怠や優鬱を忘れさせ、一瞬の感動や快感を味あわせてくれる物に限られている。一言でいえば、それは想像力を解放する機縁となる何ものかなのである。
 その意味で、梶井の視線は「物」の表面に留まっていないと言えようか。物を眺めているうちに、梶井の意識は変容し、想像の世界に滑り込んで行く。同時に、眺められている物の方も現実的なものから、想像上〔イマジネール〕のものへ変貌をとげる。
そうした例を梶井の作品のなかに探そうとすれば、それこそ枚挙に暇がない。たとえば『城のある町にて』の一節――
 「私はお前にこんなものをやらうと思ふ。
 一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさへいくつもの波紋が起り、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。」(全集第1巻44ページ)
 そして『筧の話』では、自分の特異な感性に気づいてこう書く。
 「何といふ錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔つ払ひのやうに、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負つてゐた。そしてそれらは私がはつきりと見ようとする途端一つに重なつて、またもとの退屈な現実に帰つてしまふのだった。」(全集第1巻169ページ)
 こうした外界との関係、意識のあり様は、まさしく幻視家〔ヴィジオネール〕特有のものだが、梶井にそれを自覚させた出来事が、一顆のレモンをめぐる体験であった。大正11年の夏、放蕩と狼藉の果てに、授業にも出ず、借金が嵩んで下宿にもいられない日々を過していた梶井は、ある日、二条寺町の果物屋で偶々見かけたレモンを購った。この一顆のレモンが、はしなくも自己の想像力の特質を自覚させるきっかけとなったのである。梶井は、この体験を『秘やかな楽しみ』と題する一篇の詩に書いた。

 「一顆の檸檬〔レモン〕を買ひ来て、
  それを玩ぶ男あり、
  電車の中にはマントの上に、
  道行くときは手拭〔タオル〕の間に、
  そを見 そを嗅げば、
  嬉しさ心に充つ、
  悲しくも友に離れて
  ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、
  ・・・・・・
  心に浮ぶ楽しみ、
  秘やかにレモンを探り、
  色よき本を積み重ね、
  その上にレモンをのせて見る、
  ・・・・・・
  丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
  ・・・・・・
  奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン
  企みてその前を去り
  ほゝゑみて それを見ず、」(全集第1巻273ページ)

 これは詩というよりは、行分けの散文、あるいは日記の心覚えといった類のものだが、ここにはやがて『檸檬』で描かれる事柄がすべて示されている。梶井はこの日の体験に、激しく心を揺さぶられたのであった。d0238372_823030.jpg写真は梶井がレモンを買った「八百卯」だが、2009年1月に閉店した。
 そしてこのときから梶井の内面の探求がはじまるのである。わずか一顆のレモンを手にしただけで、なぜあれほど沈み込んでいた心が昂奮を覚えるのか。執拗につきまとう優鬱は消え去り、解放された気分になるのか。日頃あれほど疎ましく思えた丸善に入って、画集を次々と抜き出して、それを重ねて本の城を築き、その頂にレモンを置いたとき、一体何が起ったのか。レモン一顆のために、堅牢で、退屈な現実に穴が穿たれ、一瞬、想像上の世界が蜃気楼のように出現したのは、レモンのどんな働きによるのか。
 「心という不可思議な奴」を相手とする探求は、このあと、『瀬山の話』の草稿(全集の編者淀野隆三の命名によれば、「『檸檬』を挿話とする断片」)、習作『瀬山の話』、そして決定稿『檸檬』となった結実することになる。(続)
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by monsieurk | 2015-04-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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