ムッシュKの日々の便り

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[瀬山の話」の位置Ⅲ

 『檸檬』の誕生にいたる草稿を系統的に論じて、この習作の意義を最初に指摘したのは三好行雄である。その上で三好は、習作の成立を大正十二年の暮以前と推定した。これ以後この説は踏襲されて、大谷晃一の『評伝梶井基次郎』でも、濱川勝彦の編纂になる『鑑賞日本現代文学入門 梶井基次郎』の年譜でも、習作が大正十二年暮には書かれたとしている。だが果たしてそうであろうか。
この説に立てば、梶井はこれを書いていた大正十二年暮には、上京区寺町通荒神口下ル松蔭町の梶川方に下宿していたはずである。梶川宅は寺町御門の東側にあった家で、梶井はその二階の四畳半を借りていた。
 家主の梶川一家は、七十歳余りの老婆と娘で三十歳になる小学校の女教師の二人暮らしで、この下宿の様子は習作『貧しい生活より』や『ある心の風景』のなかで活写されている。
 問題は、梶井が『瀬山の話』の冒頭で、「岡崎の下宿」と書いたとき、この寺町の梶川宅の二階を念頭に置いていたかどうかである。梶井は、主人公「私」の下宿のある場所を「岡崎」と明示している。岡崎と寺町通では、京都の街を東西に分ける鴨川をはさんで反対側にあり、岡崎とは明らかに別の場所である。
 では梶井がこの梶川宅に移る前に下宿していた澤田三五郎方はどうであろう。ここは『文学アルバム梶井基次郎』に、彼が借りていた部屋の写真が掲載されている下宿で、京都市左京区北白川西町にあった。梶井はここで大正十年十一月から大正十一年十月まで凡そ一年を過した。そしてこの間に、彼の頽廃と乱行の生活が進行し、借金がかさんで、挙句のはてに下宿からは食事を断られる目にあっている。
 習作のなかに出てくる第二の回想、夜更けに下宿の前まで帰ってきたのに、下宿に入らず、自分の名前を大声で叫んで逃げ出したのは、北白川西町の澤田方で起こった出来事であった。しかし北白川は、岡崎より北に位置する一帯で、もし執筆に際して、梶井の頭のなかで、この下宿が想定されていたとすれば、主人公の「私」にたどらせようとする散歩の道順が妙である。
 主人公が、久しい間胸に描きつつ果たせないでいる散策の道筋とは、「岡崎にある私の下宿から黒谷の山門、そこから真如堂を抜けて東山の麓の若王子へゆく道々」(全集第2巻182頁)である。左京区北白川西町には京都大学農学部付属の植物園があり、澤田宅はその南側に当たるが、ここから若王子へ行くには、記述とは逆に、先ず真如堂を通って、黒谷の光明寺とたどるのが順である。
 梶井が書いている道順を行くとすれば、起点はあくまでも岡崎になければならない。梶井は、主人公の「私」を架空の下宿に住まわせたのだろうか。岡崎は、梶井が通っていた第三高等学校のある吉田町のすぐ南にある町で、入学以来毎日のように通っており、町の隅々まで熟知している。そんな岡崎に主人公の下宿を設定したのであろうか。だがこの岡崎に梶井が実際に下宿していた時期がある。
 大正十三年一月八日、第三学期が始まったが、開始早々、目前に迫った卒業試験に備えるべく、気分転換をはかる意図もあって、下宿を変えたのだった。その下宿先が、上京区(現左京区)岡崎西福ノ川町の大西武二郎方で、二階の南向きの六畳間が、新しい落ち着き先であった。すでに二度落第している梶井にとっては、二月に行なわれる卒業試験は、文字通り背水の陣であったはずである。(続)
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by monsieurk | 2015-05-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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