ムッシュKの日々の便り

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日本を愛したフランス人、ノエル・ヌエットⅠ

 かつて雑誌「東京人」に連載した「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」(同誌、2011年4月、5月、6月号)を再録する。

 未知の国の首都
         
 2009年、東京・小平市にある「ガス・ミュージアム」で、「没後40年ノエル・ヌエット展 東京を愛した仏蘭西人」と題した展覧会が開かれた。ヌエットは戦前から戦後にかけて東京に住み、多くの日本人にフランス語を教えるとともに、東京の風物を版画やスケッチに残した人である。展示された24点の東京風景は、レンガ造りのミュージアムにふさわしい郷愁を誘う作品ばかりだった。
 ノエル・ヌエット――、フランス語を学んだ者は、「ヌエットさん」と呼んで親しんだものである。私は1950年代後半、高校生のときにフランス語を学びはじめたが、当時の「アテネ・フランセ」は神田駿河台の文化学院の中にあり、中庭で若い女性に囲まれて温顔をほころばせているヌエットさんの姿をよく見かけたものだった。私はヌエットさんに直接教えてもらう機会はなかったが、ヌエットさんの授業はやさしく、丁寧で、学生を叱ったことがないという評判だった。しかし、ヌエットさんがこれほど多くの東京風景を描いていたのを知っていた人は、それほど多くはなかったはずである。
 ノエル・ヌエットは1885年(明治18)、フランス北西部ブルターニュ地方のモルビアン県ヴァンヌ市に近いロクミネで生まれた。父のアンジュは医師、母はマリーといい、彼の本名はフレデリック=アンジェス・ヌエットである。十代で詩人になることを夢見て、パリ大学文学部〔ソルボンヌ〕で文学を専攻し、パリのモンマルトルに住んだ。
 卒業後は出版社に勤務し、高校時代から書きはじめた詩が著名な雑誌「レエルミタージュ」などに掲載された。このとき用いたペンネームがノエル・ヌエットだった。ノエルとはフランス語でクリスマスを意味するが、もともとはキリストの生誕を喜ぶ叫びで、中世では国王が町に入場する際にも叫ばれた言葉でもあった。
 そのノエル・ヌエットの詩は、たとえばこんなものである。
 「濡れて光る一つ一つの粒は
  凝結した熱情のようなものだ
  私の手にずっしりと重い房は
  思想をもっているかのようだ。

  黄金色の光りの日々に
  私の知らぬ葡萄畑の中で
  この迷える憐れなるものが
  その眼に何を映したかを私は思う。

  草々の間を吹きぬける
  神秘的な暁の風。
  大樹の知る
  地と天の秘密。
  ・・・・」(『無限を渇望する心』)
 ヌエットは後に自分の詩作をかえりみて、こう書いている。
 「私は強く息を呼吸しながら、机から遠からぬ場所を大股で歩き、すこしずつ私の頭の中で形づくられる語や句を急いでノートしたものであった。そのときには、私は澄んだ興奮状態になり、それが大きな幸福感を私にあたえるのだった。よい詩句や、みごとな比喩が見つかったときの歓喜! 隣りの家から聞える音楽の音符、窓から呼吸できる芳香、遥か彼方に見える地平線や樹、それらが私の想像力を刺戟するのだった。」(『東京のシルエット』110頁)
 彼はこうした詩を集めて、1910年には第一詩集『葉がくれの星』(Les Ētoiles entre les feuilles)を出版し、スピリチュアリスト賞を受賞した。さらに翌年の1911年には第二詩集『無限を渇望する心』(Le Cœur avide d’infini)、1913年には第三詩集『野原の鐘』(Les Cloches des champs)を立て続けに刊行した。これらの詩集は好評だった。評論家のモーリス・アレムは、「彼の芸術は即興性と単純さと静謐さからなっている。感情や印象は彼の詩の糧であり、彼はそれを感じた瞬間に、ほとんど加工しない形のもとに翻訳する。だから彼の詩句にはいかなる技巧もない」と指摘している。第三詩集の裏表紙には、次の詩集『Paulo majora』の刊行が予告されていたが、この詩集は出版されなかった。
 1914年7月、第一次大戦が勃発すると、ヌエットも動員されて軍隊に入った。第一次大戦はフランスのみならずヨーロッパ全土に未曾有の惨禍をもたらした。フランスはドイツの侵攻を食い止めるために、東部ヴェルダンに要塞を築いていたが、ドイツ軍はこれを迂回する作戦をとったために役に立たなかった。やがて戦線は膠着し、各地で塹壕戦が繰り広げられた。幸いヌエットは前線に送られることはなかったが、とても詩を書く気にはならなかったのである。
 戦火は1918年11月になってようやく止んだ。ヌエットも日常の生活を取り戻した。パリでは戦前にもましてさまざまな文化活動が行われ、文学サロンも再開された。ヌエットもこうしたサロンに出入りする機会があり、フランシス・ジャム、アンリ・ド・レニエ、女流詩人のアンナ・ド・ノアイユなどと知り合いになった。そしてその詩が、フランス座(コメディー・フランセーズ)の「詩の会」で朗読されるという光栄に浴した。
 彼は、日本からパリを訪れた歌人の与謝野晶子・鉄幹夫妻と知り合い、さらにパリに留学していたフランス文学者の内藤濯や山田珠樹とも親しく交流することになった。内藤濯の『星の王子パリ日記』の、1922年(大正11)12月20日の項には、「珠樹、茉莉の部屋に詩人ノエル・ヌエット氏夫妻がお茶に招かれる。ここに同席して二時間近く話しこむ」という記述が見える。ただ、ヌエットが最初に日本と触れたのはこれよりもずっと早く、少年時代、母マリーが所有していた日本の浮世絵を目にしたときである。

 広重

 幕末の日本は諸外国と修好通商条約を結び、1859年(安政6)に、フランスの初代公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクールが赴任したが、ベルクールは日本滞在中に広重の浮世絵の美しさに魅せられて蒐集した。広重がコレラで世を去ったのは、ベルクールが着任する1年前の1858年である。
 広重は1833年に刊行した『東海道五十三次』で一躍人気浮世絵師となり、その後『木曾街道六十九次』『近江八景』『名所江戸百景』を次々に発表して喝采を博した。ベルクールが集めたのは『江戸百景』で、1864年に帰国するときにフランスへ持って帰ったのである。ベルクールは晩年になって、このコレクションを姪に譲り、ヌエットの母がこの姪の親しい友人であったことから、広重版画はヌエット家の所有となった。箱の中に大切にしまわれていた版画を少年ヌエットは目にしたが、やがてそこに描かれた極東の国へ行き、そこに長年住んで、絵の対象を実際に見て、それを自身が描くことになるとは想像もしていなかった。彼はこう述べている。
 「私がいつか日本に住み、東京の中で広重の描いた場所にめぐり会い、皇居となった将軍の古城の姿を私自身も描くということを誰がいったい予想できたであろう? まことに運命とはかくのごときものである」「私はとくに、広重が興にまかせて最初の構図として描いた風景のある版画をさがし求めるのを楽しみにする。きわめて大胆なこれらの作品はスナップ写真を想わせる。思うに、広重はわれわれに『突然眼に映った物』の印象をあたえることを歓びとした唯一の、(あるいはほとんど唯一の)芸術家である。即興的に作られたこれらの下画の中には偉大なる巧みさが認められる。構図のないことが優れた構図となっている。」(『東京のシルエット』193-196頁)
 ヌエットは広重の風景画の特徴をこう定義するが、これは彼の詩の創作態度に共通するものではないのか。そうだとすれば、少年時代に目にした広重の浮世絵が無意識に与えた影響は大きかったのではないだろうか。
 ヌエットが風景に親しむ習慣を育てたのは、ブルターニュにいた少年時代、父と一緒にした散歩だった。彼はパリに移ってからも散策に時間を費やした。彼が好んで足を向けたのは、16世紀から17世紀の面影の残るパリの古い地区だった。こうして街角の凹みに何気なくたたずむ聖母像や古い橋などを発見した。さらに彼が見出したのはパリの風物だけではなかった。
 「パッシーでジャン・リシュパン(詩人)に会ったのも、あるレストランの入口でアナトール・フランス(作家)が美人をつれて車から降りてゆくのを見たのも、ジャンヌ・ダルク祭の日に、リヴォリ通りでモーリス・バレス(政治家・作家)に会ったのも、自宅へ帰りゆく老画家ジャン・ポール・ローランと擦れちがったのも、こうして歩いているときであった」「歩くことが私の思考作用を助けるのだ。私は考えるために話すことを必要とする『南方人』ではない。私は気持が定まらず、頭がスッキリしないときには歩き出す。」(『東京のシルエット』144-145頁)
 ヌエットは、やがて訪れたニューヨークでも歩き、ロンドンを歩き、モスクワを歩き、北京を歩いた。ニューヨークでは雲のなかにそびえる高層建築を賛美し、モスクワではプーシキンの像に敬礼し、北京では大理石の橋と宮殿の庭を横切って、玉座の間に通じる石段の上でスミレをつみ、ホコリのなかに横たわるラクダや黒豚の群をよけて歩いた。この散策の習慣は、やがて訪れる東京でも変わらずに続けられることになる。

 来日

 ノエル・ヌエットは1920年、35歳のときに結婚したが、新婚生活をはじめて間もなく新妻が突然病気で亡くなった。悲嘆は大きく、しばらくは何も手につかない状態が続いた。そんなヌエットの生活に転機をもたらしたのが、1925年に、パリの日本大使館に勤務する日本人外交官からもたらされた情報だった。彼は大使館員にフランス語を教えていたが、ある日、静岡高等学校がフランス人教師を探していて、適任者を推薦してほしいと外務省を通して在仏大使館に依頼してきたというのだった。
 ヌエットは正式なフランス語教師の資格をもっていたわけではなく、雑誌社に勤めるかたわら文章を書き、詩人になることを望んでいた。だが大使館員がもたらした未知の国での新たな生活が彼をひきつけた。話はとんとん拍子に進み、ヌエットは3年間の契約で旧制静岡高等学校へ赴任することになったのである。ヌエットはこの年にイヴォンヌと再婚しており、二人がマルセイユからフランス郵船の定期船に乗ったのは1926年(昭和元)1月のことだった。
 船は地中海を横断して、19世紀末に開鑿されたスエズ運河を通ってアラビア海に入り、アフリカ大陸を右手に見ながら南下、やがてインドのコロンボ、シンガポール、インドシナのサイゴンと寄港し、香港、上海に停泊して中国を垣間見たあと、最終地の横浜へ着いたのは、3月13日である。港に接岸するはるか前から遠く富士山が見え、はるばる極東の国へやってきたことを実感した。
 上陸した横浜の市街地には、2年半前に襲った大地震の跡がまだ残っていた。ヌエットは下船すると、出迎えてくれたフランス語学者の永井順などとともに、その足で汽車で東京へ向かい、駅から近い丸の内ホテルに投宿した。永井たちは彼を黄昏のなか、二重橋に案内して、皇居のシルエットをヌエットに見せた。大きな濠にかこまれた宮城の青銅の大きな屋根が樹々の上に見えた。東京ではじめて目にした風景はヌエットの一番お気に入りの場所となった。
 一夜が明け、彼は朝食も早々に街へ出た。街ゆく男たちの多くはサラリーマンで、パリや他のヨーロッパの首都と変わらない洋服姿だったが、時折見かける女性は皆が着物姿だった。彼はそれを驚きと喜びをもって眺めつつ、日本へ来たことをあらためて感じた。
 3月18日、ヌエットは静岡へ向かった。静岡には茶の買い入れに来ているイギリス人やアメリカ人の家族がいて、すぐに知り合いになった。そして静岡高等学校での授業がまもなく開始された。学生を前に授業をするのは初めての経験だったが、学生たちは静かで、さほどの困難もなくヌエットは教師生活をはじめることができた。
 旧制高等学校は文科と理科に分かれ、さらに各コースが、専攻する第一外国語によって、英語専攻が甲類、ドイツ語が乙類、フランス語が丙類の別があった。フランス語を第一外国語とする丙類がおかれていたのは、一高、三高、大阪高等学校、浦和高校、福岡高校、東京高校、静岡高校と、全国の高等学校のなかでもごく限られていた。
 ヌエットは授業をすべてフランス語で行ったから、最初のうち学生たちは彼の言うことをほとんど理解できなかったが、それにもだんだん慣れていった。そしてしばらくすると、ヌエットは毎週東海道線に乗って東京へ出ることになった。日曜日に静岡を発って、東京の士官学校で月曜日に講義をして、その夜に静岡へ帰るというスケジュールだった。当時の東海道線は丹那トンネルが開通する前で、箱根を越えるには御殿場経由だったから時間がかかった。それでも週に一度の東京行きは大きな刺激をあたえてくれた。 1928年(昭和3)には、フランス語で書いた“Paris depuis deux mille ans”(『パリ二千年史』)を東京の白水社から刊行した。
 こうして契約の三年がすぎた。1929年(昭和4)3月、帰国のための旅費が支払われ、ヌエットはシベリア鉄道で帰国の途についた。汽車の旅行は二週間を要したが、途中モスクワで半日ほどを過ごすことができた。このときも彼は好奇心に導かれるままにモスクワの街を歩きまわった。
 ノエル・ヌエットはパリへ帰ると詩人としての活動を再開し、日本の風物を含む自然への愛をうたった詩を集めて、第四詩集『水蝋樹(イボタノキ)の香』(Le parfum des troènes) を老舗の出版社ガルニエから上梓することができた。ちょうどこの頃パリの15区にあるシテ・ユニヴェルシテールにつくられた日仏会館の開館式に出席し、日本人留学生にフランス語を教えることになった。1930年になると、今度は東京外国語学校でフランス語を教えてほしいという要請があった。ヌエットは申し出を喜んで引き受けた。こうしてふたたび日本へ行くことになった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-10 22:30 | 美術 | Trackback(1) | Comments(1)
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Tracked from dezire_photo.. at 2015-05-15 11:18
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Commented by PineWood at 2016-03-21 06:51 x
恵比寿にある日仏会館のノエル・ヌエットの版画展に行って来ました。広重に触発された版画は新宿中村屋のサロンのギャラリーで展示された夜景の(神楽坂)を見た事がありますが、纏まって見るのは今回が初めてでした。漂泊の詩人のセンスなんでしょうか。英国の詩人ウイリアム・ブレイクもまた、優れた版画を残していますがー。
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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