日本を愛したフランス人、ノエル・ヌエットⅢ
ノエル・ヌエットのスケッチを印刷した3冊のアルバムは、日本人が見過ごしがちだった東京の魅力を再認識させるとともに、画人ヌエットの名前を広く世に知らせることになった。そんなある日、彼のもとを一人の画商が訪ねてきた。上野末広町に店を構える版画商の土井貞一で、聞けば彼の息子は静岡高等学校時代のヌエットの教え子だという。土井は版画にするために、東京風景をあらためて描く気はないかというのである。広重の浮世絵を見て育ったヌエットにとって、自分の版画を日本で出すことは夢であった。話はすぐにまとまった。
土井はこれまでと同じように、ペンをつかって陰影を線で描くことを勧めた。ヌエットはこれまでのスケッチを見直し、百をこす気に入りの場所から20数箇所を選んで、大判の絵をペンで描いていった。
宮城のお濠に松が陰をおとし、その先には近代的なビル群が立ち並ぶ「馬場先門」。雪の降りつもる日に、道を行く着物姿の女性を描いた「紀尾井町」。神田川を中央に配し、遠景に水道橋とニコライ堂の丸屋根が見える「御茶ノ水」。青さを残す空に浮かぶ雲は夕日を浴びて桃色に染まりつつある。そして、雨のそぼ降る掘割とそこに舫った舟を描いた「芝・古川」。街頭と背景の料亭に灯の入った「不忍池」。「神楽坂」では、夜の料亭街が長袖の女とともに描かれている。どこかの料亭に呼ばれた芸者だろうか。・・・
ヌエットはこうした東京の風物を慣れたペン画で24枚描いたが、これを版に起こす彫り師の仕事は大変だった。残されている版画をみると、「彫エンドウ」、「摺セキ」、あるいは「刀池田」、「摺横井」といった名前が欄外に小さく刷られている。腕のある職人たちが、一枚に何週間もかけて繊細きわまる線を忠実に再現してくれたのだった。
ヌエットによれば、土井貞一は「馬場先門」と「芝の山門」の2点をまず黒一色で刷り、そのあとで全作品を色刷りにする決心をした。こうして合計24枚の東京風景の版画が完成した。1936年(昭和11)のことである。版画は1枚3円で販売され、友人たちはヌエットを「広重四世」(幕末に広重を名乗った絵師は三人いた)と呼んでくれた。ヌエットにとっては名誉なことであった。
この間、ヌエットは二度フランスに帰っている。一度は外国語学校と再契約をした1933年の夏休みで、このときはアメリカ経由で祖国へ行き、翌34年に母が亡くなったときは、シベリア鉄道で往復した。日本に戻ってきたヌエットは、自分の生活基盤がいまや日本にあることを実感した。そして外国語学校の他に、一高や幾つかの私立大学でも講義を行うようになった。
このころ書かれた詩の一篇――
「花咲く桜は岡を白い色で覆い
谷間には小流が音を立て
枝は柔らかいモスリンのように
壁の肩や家の面にかかる。
雪で埋まったかのように見える丸天井の下を道が走り
古い有名な寺の境内では
娘たちの歌声に交って
蜜蜂の羽音が鳴る。
夜は、月光が辷るように動き
半開の花々の姿を
石畳の上に休みなく描き出す。
ところが、ある朝、不意に風が起り
何もかも消えてしまった!
少年たちが忙しく花びらを掻き集めている!」(『水蝋樹(イボタノキ)の香』
戦争
一陣の風が満開の花を吹き散らしたように、日本は暗い時代を迎えつつあった。満洲事変を起こした日本は、1933年3月に国際連盟を脱退。3年後には二・二六事件が起き、翌1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、1940年9月には日独伊三国同盟に調印した。それでもヌエットは、1939年、40年、41年と講義をつづけた。日本は1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、英米に宣戦を布告した。彼はこのころの生活をこう振り返っている。
「第一次大戦のときはわれわれフランス人の側にいた日本が、われわれの敵ドイツと共同戦線を張るのを見て私の心は痛んだ。・・・東京の空気は厳しくなっていった。1941年、ついに完全な戦争となった。外国語学校は(一ツ橋から)滝野川へ移った。私は麹町富士見町の気持のよい家に住んでいたが、生活は悲痛なものであった。フランスからのニュースは悪いものばかりだった。家族に関する消息はほとんど入手できなかった。」(『東京のシルエット』164頁)
ヨーロッパでも1939年9月1日、ドイツが突如としてポーランドに侵攻し、9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次大戦が開始された。当初優勢だったドイツ軍は1940年6月にはパリに入場して、フランスは事実上ドイツの占領下に置かれた。日本ではフランス語の本を輸入するのが禁止された。困ったのが授業で使う教科書である。そのためヌエットは、自分で教科書を執筆することにした。こうしてスケッチを挿画にした随筆集「En écoutant le veilleur de nuit(『夜回りの音を聞いて』)」が、1940年に白水社から出版され、1942年には、2冊目の「Papillons endormis(『眠れる蝶』)」が、外語学院出版部刊として第三書房から出された。
ヌエットが書いたこれらの文章は、同じ年、久持義武によって翻訳され、『日本風物誌』と題して三學書房から刊行された。同書の最後に置かれた「ベルベット館の小塔」は、神戸に旅行した折に訪れた外国船の船内で、フランスの古城の景観図を見た感慨を綴ったものである。最後は次のようにしめくくられている。
「世紀と人間にかくも苦難をなめさせられていながら、しかも更生をやめぬ巴里!(中略)汝の千変万化な相貌ゆえに、かくもいつくしんできた巴里! 見捨てたつもりでいた巴里! 日本のこの港にまでわたしを連れ戻しにやってきた巴里! 今までになく親しみをおぼえる巴里!」(同書140頁)。
外国人にとって日々に厳しさを増す東京にあって、ドイツ軍の占領下に喘いでいるであろうパリとパリの人々が、これまでになく懐かしいものに思えるのだった。
その一方、ヌエットの身辺では警察や隣組による外国人への監視が強化され、食糧は配給制となり、家々の灯火は消されて街は闇に沈んだ。そんな中で彼が強く感情を揺さぶられた光景が二つあった。一つは若い女性たちが橋のたもとや人混みの十字路で、通りかかる婦人や娘たちに呼びかけて、前線にいる兵士に送る千人針を頼む姿であり、もう一つは靖国神社で行われる戦死者の葬儀だった。彼はその様子をこう描いている。「喪服につつまれた遺家族は前もって神社の前の庭で莚の上にすわるのであった。だんだんに夜となる。すると闇の中から式次第を読み上げる声がきこえ、陸軍または海軍の軍楽隊が非常に荘重な、非常にゆるやかな、非常に感動的な曲を演奏するのであった。」(『東京のシルエット』11頁)
1944年秋からB29による東京空襲がはじまった。外国語学校の講義も行われなくなった。ヌエットは麹町富士見町の家の庭に自分で防空壕をつくり、空襲警報のサイレンが鳴るとベッドを出て、防空壕へ非難する夜が続いた。そんなある夜、彼は空を仰いだ。「不意に探照燈が光りを集めて一台の飛行機に向けた。それは非常に高く飛んでおり、あたかも銀の撚糸機のように見えるのであった。対空火砲が怒った大犬のように轟わたり、砲弾の炸裂が飛んでゆく敵を追っていた。つぎに、突然輝ける星にも似たものが雨のように降って来た。壮観でもあり恐るべき様でもあった。あゝ私はこの光景に追われてゆく恐怖にみちた婦人たちを思い出す。しばらくして空が赤くなってきた。深川、本所、浅草の火事がはじまっていたのである。」(『東京のシルエット』12-13頁)
激しさを増す空襲で、ヌエットが愛し描いてきた東京が次々に姿を消していった。麹町の家も1945年3月1日の大空襲で焼けた。彼はこの夜まず靖国神社へ逃れ、その後で麻布へ向かった。歩いていく途中はどこも火の海だった。イギリス大使館の前では名物の桜の樹が燃えていた。皇居の上空には大きな薄光が見え、お濠に赤い空が映っていた。午前四時ころようやく大使館の友人の家にたどり着き、長椅子で仮眠をとることができた。下町の空襲で末広町の土井版画の店も焼け、ヌエットの版画のストックや版木がどうなったか分からなかった。
3月下旬、ヌエットは多くの在日外国人たちとともに軽井沢へ強制疎開させられ、憲兵の厳しい監視下で暮らすことになった。彼が終戦を知ったのは軽井沢の森の中であった。
戦後
ヌエットが東京へ戻ったのは、終戦から2カ月たった1945年(昭和20)10月22日である。さっそく麹町富士見町の家を訪ねてみると、そこにはコンクリートの土台と焼け焦げた一本の木を除いてなにもなかった。彼はこの光景を克明にスケッチした。そのあとかつて描いた場所をめぐって、廃墟と化した東京を描いていった。門柱だけがぽつんと残る神楽坂の坂道をとぼとぼと登って行くもんぺ姿の女性。焼け野原となった神田。釣鐘だけが鐘楼の台座に放置された浅草の寺。赤坂の廃墟には人が歩く道の脇に一軒のバラックが建っていた。
滝野川の外国語学校も焼失し、上野の美術学校の校舎を借りて講義が再開された。しかしどこに寝るのか。彼は六度も家を転々としたあと、1947年になって空襲を奇跡的にまぬがれた日仏会館に止宿することになった。館長はじめ住むものがなく、フランス使節団から建物を保存するために住まないかという誘いがあったのである。
間もなく東京外国語学校は石神井に移転し、通うのは大変だった。そのため彼は17年間勤めた外国語学校を辞職する決心をした。幸いなことに、1947七年には、辰野隆が東大仏文科の講師の座を提供してくれ、早稲田大学、学習院大学、アテネ・フランセでも教鞭をとることになった。そしてこの年フランス政府から「レジョン・ドヌール勲章」を授与された。
ヌエットはその後しばらく江戸川のアパートに住んだあと、牛込矢来町に日本家屋を見つけることができた。ここはお気に入りの神楽坂にも近く幸せだった。
ヌエットの最初の個展が開かれたのは1950年(昭和25)年12月のことである。銀座の万年堂画廊での展覧会は、彼にとって待望のものであり、案内状には作家の永井荷風が一文を寄せてくれた。
「江戸時代に於ける江戸の町々の光景が葛飾北斎と一立斎広重の版画に描き残されているように、また明治時代の東京の風景が小林清親の版画において窺い見られるように、大正から昭和時代の東京、戦前戦後の東京の面影は詩人ヌエット先生の巧妙な余技によって永く後世に伝えられるのであります。われわれ日本人として戦争の罹災者として先生の作画にたいして無限の感謝と無限の喜びを感じます。」
荷風の日記『断腸亭日乗』の4月20日には、「山内義雄氏Noël Nouët: En écoutant le veilleur de nuitを贈らる」とあり、10月8日には、「山内義雄氏よりヌエット氏著巴里寄贈」と記されている。東京の散策者であった荷風はヌエットの著書とともに絵にも共感を抱いていたのである。
同じく1950年、戦前にフランス語で出した「Paris depuis deux mille ans(『パリ二千年 史』)」が、静岡高校時代の教え子、小林正と鈴木力衛によって翻訳され、『パリ』という書名で東大出版部から刊行された。2年前まで東大仏文科主任教授だった辰野隆は序文で、「先生は極めて控え目で、物静かな君子である。何時顔を合せても、穏かで、柔和で、相手に親しみと信頼の念を起させる。先生に於いては、地味と滋味が程よく調和されて、厳師と云はんよりは寧ろ好い小父さんと呼びたくなる人柄が備はっている。その人柄を僕は――僕等の仲間は――珍重するのである」と書いている。
ヌエットは旧制静岡高等学校には始まって多くの学生を教えてきたが、1951年には1年間にわたって明仁皇太子のフランス語教師をつとめた。
彼は1957年(昭和32)、東京大学に学位論文「Edmond de Goncourt et les arts japonais(「エドモン・ド・ゴンクールと日本美術」)を提出して文学博士の学位を得た。日本政府は1962年(昭和37)に、教育分野における長年の貢献と、日本や文化を外国に紹介した努力にたいして勲四等瑞宝章を贈って報いた。ヌエットはこの年、35年におよんだ日本での生活に終止符をうつ決意をした。横浜からフランス郵船のカンボージュ号に乗船したのは5月12日のことである。
パリでは妻イヴォンヌに再会し、ブーローニュの森に近い16区ミュラ通り45番地のアパルトマンに住んだ。毎日街や森を散策し、一日一枚スケッチをすることを日課にした。かつてNHKの国際放送で仕事をともにした高橋邦太郎が、この家を訪ねたときのことを紹介している。
「去年〔1966年〕4月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、
「もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい」
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。」(「本の手帖」第61号、1967年2月号73頁)
東京都は1965年(昭和40)に東京都名誉都民の称号を贈った。このときヌエットの外国語学校の教え子で、その後朝日新聞の記者になった酒井伝六が記述したヌエットの小伝が東京都の公報に掲載された。日本を愛し続けたフランス人、ノエル・ヌエットは1969年(昭和44)9月30日に亡くなった。84歳だった。