旧鈴木信太郎家Ⅰ
同資料館が発行している「かたりべ」114号には、「『旧鈴木家住宅』の特徴と軌跡」が掲載されている。これによると鈴木家住宅は、豊島区東池袋5丁目にあり、豊島区の指定有形文化財に指定されたという。
鈴木信太郎先生一家は,1918年(大正7)に神田佐久間町から北豊島郡西巣鴨町へ移り住んだ。当初は既存の住宅で生活していたが、1921年に二階建ての木造住宅を敷地の西側に新築して生活の場と、その後1928年(昭和3)には、木造住宅の東側に鈴木先生の書斎兼書庫となる「書斎棟」を新築した。
この建物は、フランス留学中に購入した本を、日本に送る途中船火事で焼失した苦い経験から、火災に強い耐火構造として設計され、当時の個人住宅としては珍しくコンクリート造りで建てられた。
「書斎棟」の入口は鉄製の防火扉、窓には防火シャッターを設置するなど、耐火・防火への備えを施し、室内には天井まで届く作り付けの書棚が並び、仕事机と椅子、窓上の上にはステンドグラスが嵌められた。これらはすべて鈴木先生自身がデザインしたもので、1931年にはここに鉄骨の「新二階」を増築して、子ども部屋としたという。
この備えが効果を発揮したのは、1945年4月13日の城北大空襲のときである。空襲によって、先生の住宅は「書斎棟」の一階部分と二階の鉄骨の梁を残して焼失したが、多くの稀覯本は無事だった。鈴木先生の次男である鈴木道彦氏は、昨年上梓した『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』(筑摩書房、2014)で、被災の模様をこう述べている。
「家は焼夷弾の直撃を受けたのではなく、三方から火災が迫って来て、延焼で燃えたのである。(中略)
予定通りに書斎の廊下の上げ蓋を開き、鉄扉を閉め、今後の移動の便を考えて私は自転車をひきずりながら、当てもなく逃げ惑う避難民のとなった家族五人は、我が家の見える少し離れた坂の上に到達した。そしてほどなく、火が鈴木家に燃え移って、炎が至るところから舌のように出てくるのが見えた。「ああ、もうあんな家には住めないな」と、母が悲鳴のような声をあげたのはそのときである。(中略)
私たちは近所に住む独文学者で日本浪漫派に属する芳賀壇の好意で、彼の屋敷の二階に全員が避難した。それは十四日の晩からだったと思うが、この記憶も曖昧である。
確実なのは、焼け跡に残っていた書斎である。最後に焼け落ちた「新二階」には、猛火でやや歪んだ鉄骨だけが残骸をさらしていた。しかしその下にある書斎と蔵は、まわりのすべての家が燃え落ちて、遠くまで見通せるようになった空間に、ぽつんと取り残されて立っていた。内部の状態は見当もつかない。しかし一度火に包まれた建物は過熱しているので、すぐに開けると自然発火すると言われていたから、私たちはしばらく書斎と蔵をそのまま放置しておいた。
一週間ほど経って、そのあいだには雨も降ったので、もうそろそろ内部を調べてもいいだろう、ということになった。しかし猛烈な焔に煽られて平らな表面が膨れ上がった鉄扉は、暗号数字を合わせる錠も歪んで動かず、押せども引けどもびくともするものではない。そこで最後の手段として、鉄扉の前の地面を土台に沿って掘り下げて、モグラのように地下から中に入ることになった。
私は勤労動員から帰ってきた兄と二人で、かわるがわるスコップをふるい、汗みどろになって穴を掘った。こうして土台のコンクリートに沿って掘り進めていくと、建築用語で地中梁と呼ばれる部分があった。そこだけ土台の厚さが多少薄くなっているところである。ちょうど私が掘っているときに、その場所を探りあてたので、そこから廊下の下に掘り進むと、幸いにも、上げ蓋のように予め切り離しておいた廊下の開口部が、まさに私の頭上にあった。私は根太と根太のあいだから廊下に這い上がり、暗闇を手探りで進んで、何とか書斎の南側の庭に面した窓のところまで到達した。ガラガラとシャッターを開けると、急に飛び込んできた外光のなかに、庭で心配そうに眺めている父信太郎の姿が見えた。本が無事だと知ったとたんに、その顔が何とも言えない表情でくしゃくしゃと歪んだのを。これは今もはっきり憶えている。」
鈴木先生一家は、敗戦直後は焼け残ったこの書斎に畳を敷いて暮らされたが、翌年には西側に木造平屋建てを増築した。この時代には、「臨時建築等制限規則」なるものがあり、新築は15坪以内という制限のなかで、玄関、ホール、6畳間、台所、浴室、便所を建て増した。さらに1948年には、埼玉県下吉妻(現春日部市下吉妻)の鈴木家の本宅から、明治20年代に建設された離れを移築して、これを座敷棟とした。増築はその後にも行なわれて、1956年には書斎棟の二階を設け、幾度かの改修をへて現在の旧鈴木家住宅となったのである。
私が本郷の仏文科へ進学したとき、鈴木信太郎先生はすでに退官されていて、中央大学でマラルメの詩を講じておられた。幸い私の主任教官だった井上究一郎先生の口添えで、特に許されて、マラルメの後期ソネを取り上げる授業を聴講することができた。そしてこの間、友人の廣田昌義氏とともに、出版されたばかりの豪華訳詩集『ヴィヨン遺言詩集』(筑摩書房、1961年刊)を持参して著名していただいたのが、ご自宅を訪問した最初だった。その後も幾度かお訪ねしたが、いまは懐かしい思い出である。(続)